240525⑧「若紫の巻」1

今回と次回で若紫の巻の名場面を読む。この巻の焦点は二つある。一つは紫の上との出会い。もう一つは藤壺との密通である。「湖月抄」によれば、光源氏17歳の三月から梅雨までの出来事である。但し本居宣長の説では一才引き上げられて18才。もっとも夕顔の巻の翌年の出来事という点では、「湖月抄」でも本居宣長でも同じである。

それでは若紫の巻の冒頭を読む。北山の巻と言われる名場面である。

朗読①

瘧病(わらはやみやみ)にわづらひたまひてよろづにまじなひ、加持などまゐらせたまへどしるしなくて、あまたたびおこりたもうければ、ある人、「北山になむ、なにがし寺といふ所にかしこき行ひ人はべる。去年(こぞ)の夏も世におこりて、人々まじなひわづらひしを、やがてとどむるたぐひあまたはべりき。ししこらかしつる時はうたてはべるを、()くこそこころみさせたまはめ」など聞こゆれば、召しに遣はしたるに、「老いかがまりて(むろ)の外にもまかでず」と申したれば、「いかがはせむ。いと忍びてもものせん」とのたまひて、御供に睦ましき四五人ばかりして、また暁におはす

やや深う入る所なりけり。三月(やよい)のつごもりなれば、京の花盛りはみな過ぎにけり。山の桜はまだ盛りにて、入りもておはするままに、霞のたたずまひもをかしう見ゆれば、かかるありさまもならひたまはず、ところせき御身にて、めづらしう(おぼ)されけり。寺のさまもいとあはれなり。峰高く、深き岩の中にぞ聖入りゐたりける

 解説

山奥に住む老賢人を、病にかかった若者が訪ねて行く。

瘧病(わらはやみやみ)にわづらひたまひて

主語は光源氏である。瘧病(わらはやみやみ) は 俗に言う(おこり)で、マラリアの事である。数日おきに高熱が出る。

よろづにまじなひ、加持などまゐらせたまへどしるしなくて、あまたたびおこりたもうければ、

おこりたもうければ は 「湖月抄」の読み癖である。普通には おこりたまひければ である。「湖月抄」は面白い説明をしている。光る君は様々に治療して、まじないや真言宗の祈祷などを試みていた。杜甫の漢詩に因んで、 手に髑髏(どくろ)の血を捧ぐ といふ句を唱えれば、(おこり) は落ちると伝えられていた。けれども効果はなく、光る君は何度も高熱を出し、

数日おきに発作が起きる。

ある人、「北山になむ、なにがし寺といふ所にかしこき行ひ人はべる。去年(こぞ)の夏も世におこりて、人々まじなひわづらひしを、やがてとどむるたぐひあまたはべりき。ししこらかしつる時はうたてはべるを、()くこそこころみさせたまはめ」など聞こゆれば

北山は都の北の方角に位置する山の事である。古来、鞍馬山の事だと考えられてきた。

なにがし寺 は 鞍馬寺の事。最近では色々な名前の寺が候補に挙がっている。

ししこらかす は治療を誤って却って病気をこじらせる事である。「湖月抄」の情報量は多い。

ある人が北山に何とかいう寺がある。そこには 瘧病(わらはやみやみ) をたちどころに治す霊力を持った聖がいると進言した。これは都から見て北の方向にある鞍馬山の鞍馬寺の事である。

  北山に たなびく雲の 青雲の 星(さか)り行き 月を離れて 万葉集 持統天皇

があるが、万葉仮名では北山を 向南山 としている。鞍馬寺は桓武天皇の御代に南家の藤原伊勢人(いせんど)創建したと伝えられ、嘗ては49の子院がある程に仏法が盛んであった。光る君に鞍馬寺に住む聖の存在を教えた人は、その年に特有の病が流行することがあります。去年の夏には 瘧病(わらはやみやみ) が大流行しました。その時、世間のまじない師たちはうまく治療することが出来ずに困っていたが、この北山の聖の手に掛るとたちどころに平癒してしまうという事が何回もありました。瘧病(わらはやみやみ) は、治療を誤ってこじらせてしまうと厄介です。少しでも早くこの聖の霊験をお試しになっては如何ですかと進言した

「湖月抄」の読者は「源氏物語」の原文からこれだけの情報量を得ていたのである。

召しに遣はしたるに、「老いかがまりて(むろ)の外にもまかでず」と申したれば、

北山に住んでいる聖の言葉である。

老いかがまりて は、高齢の為に腰が曲がってしまうことである。

「湖月抄」の解釈は次の様になる。

光源氏は早速この聖に都まで来て、治療を試みる様にと使者を遣わして要請した。所が聖は、「愚僧は年を取り過ぎたので腰が曲がり、甚だ体力が衰えています。普段修行している庵室から一歩も外に出ないようにしていますと言って、断りを言ってきた。円融院が 瘧病(わらはやみやみ) を患われた時に天台座主を召されたが、座主は老病を理由にお断りを言ってきた。但し再三のお召に応じて、山を下りて祈祷するとたちどころに、院の病は癒えたと伝えられる。虚構の物語と史実とを重ね合わせて読むのが、「湖月抄」の立場である

「いかがはせむ。いと忍びてもものせん」とのたまひて、御供に睦まじき四五人ばかりして、また暁におはす。

光る君は致し方ないが、身分を隠してこちらから北山に行こうと仰る。お伴としては惟光ら腹心四五人だけ連れて、まだ暗いうちに都を後にされた。

やや深う入る所なりけり。

鞍馬寺は少し山深く入っていく所にある。都から近いとはいえ、光源氏は旅に出たかのような新鮮な気分を味わう。

三月(やよい)のつごもりなれば、京の花盛りはみな過ぎにけり。山の桜はまだ盛りにて、

つごもり は、その月の最終日ではなく、下旬を意味することが多い。間もなく春が終わるので、都の桜は既に散っている。所が奥山では桜の花がまだ見頃であった。

旧暦三月の20日過ぎなので、春の残りは後僅か。都ではすでに花盛りは殆どの場所で終わっている。所が和歌の山の桜はまだ花盛りなり という表現が愛用される様に、鞍馬山の桜f

まだ盛りなのであった。

入りもておはするままに、霞のたたずまひもをかしう見ゆれば、かかるありさまもならひたまはず、ところせき御身にて、めづらしう(おぼ)されけり。

ところせき は、窮屈に感じられることである。光る君の身分が高いので、外出もままならないのである。

光る君たちは少しずつ山に入っていく。すると霞の掛かる様子にも風情がある。高い身分では、こういう行動をする機会は滅多にないので、見なれない風景を新鮮に感じられる。

寺のさまもいとあはれなり。峰高く、深き岩の中にぞ聖入りゐたりける。

道すがらの景色も面白く感じられたのだが、辿り着いた鞍馬寺の雰囲気も誠に趣きがあった。光る君が会おうとしている聖は、鞍馬寺の境内の中でも高い所にある岩屋の中に籠っている。この様に「湖月抄」は、聖が岩屋に籠っていると解釈するが、本居宣長は反対している。本居宣長は北山の聖は岩屋・洞窟の中に住んでいるのではない。山の奥の岩石がいくつも突き立っていて、周りを岩で囲まれている所に庵室を建てて住んでいるのだという。現在は本居宣長説に従っている。

この様に若者の病から若紫の巻は始まり、若者の山奥への旅へと続く。それが山奥での若者と少女の出会いへと発展する。

 

それでは次に、明石の君が紹介される場面を読む。彼女は紫の上が山の女であるのに対して、海の女である。

瘧病(わらはやみやみ) に苦しむ光源氏の気を紛らわせようと、供の者たちは北山から都の方を眺めながら、諸国の四方山話を
光る君の耳に入れる。義清という男は、播磨守の息子なので、自分が聞き知っている播磨在住の明石の入道という風変わりな人物と、その娘の話をする。

朗読②

近き所には、播磨の明石の浦こそなほことにはべれ。何のいたり深き隈はなけれど、ただ海のおもてを見わたしたるほどなん。あやしく他所(ことどころ)に似ずゆほびかなる所にはべる。かの国の(さき)(かみ)新発意(しぼち)のむすめかしつ゜きたる家いといたしかし。大臣の後にて、出で立ちもすべかりける人の、世のひがものにて、まじらひもせず、近衛中将を棄てて申し賜れりける司なれど、かの国の人にも少し侮られて、「何の面目にてか、また都にもかへらん」と言ひて頭髪(かしら)もおろしはべりけるを、少し奥まりたる山住みもせで、さる海づらに出でゐたる。ひかひがしきやうなれど、げに、かの国の内に、さも人の籠りゐぬべき所どころはありながら、深き里は人離れ心すごく、若き妻子の思ひわびぬべきにより、かつは心をやれる住まひになんはべる。先つころ、まかり下りてはべりしついでに、ありさま見たまへに寄りてはべりしかば、京にてこそところえぬようなりけれ。
そこら遥かにいかめしう占めて造れるさま、さはいへど、国の司にてしおきけることなれば、残りの(よはい)ゆたかに()べき心がまへも()なくしたりけり。
後の世の勤めもいとよくして、なかなか法師まさりしたる人になんはべりける」

 解説

「湖月抄」を参考にしながら読んでいく。義清が自分の見聞を、光る君に向かって熱心に話している。

近き所には、播磨の明石の浦こそなほことにはべれ。

この直前に景色の美しい場所として、富士山やなにがしの(たけ)が挙がっている。これは浅間岳とする説が有力である。それらに比べたら播磨国は都に近き所である。我が国の絶景としては、富士山や浅間岳があるが、都に近い所で申しますと、播磨国の明石の浦こそはやはり

絶景と言ってよいでしょう。ここは私の父が国司をしている関係で良く知っています。

何のいたり深き隈はなけれど、ただ海のおもてを見わたしたるほどなん。あやしく他所(ことどころ)に似ずゆほびかなる所にはべる

隈 は、場所という意味。ゆほびか は、広々としていること。

さしてここには特に素晴らしいという事は無いが、ただどことなく面白く感じられる。海の表面を見渡すと不思議ではあるが、他の海辺とは異なる素晴らしさが感じられる。広々とした印象を受けるのです。この後明石入道の話題になる。

かの国の(さき)(かみ)新発意(しぼち)のむすめかしづきたる家いといたしかし。

新発意(しばち) は出家したばかりの人。いたしかし  いたし は「湖月抄」では 片腹痛し と同じで、端から見ても身分不相応だ、出過ぎている と解釈する。本居宣長はそうではなく、立派であると褒めているのだとする。ここは両方を合わせて訳す。

この播磨の国で、以前国司を務めていた人物が、今は出家して明石入道と呼ばれているが、一人娘を大切に育てている。その家というのが、いささか田舎には不釣り合いなほどに立派である。

大臣の後にて、出で立ちもすべかりける人の、世のひがものにて、まじらひもせず、近衛中将を棄てて申し賜れりける司なれど、

この男、元はと言えば大臣の子孫であって、都に残っていればかなりの出世は可能だったはずですが、性格的に普通でないところがあって都での人間関係がうまく取り結べなかったようであります。その結果近衛中将という立派な中央官庁の役職を捨ててまで、播磨国司をやっていました。

かの国の人にも少し侮られて、「何の面目にてか、また都にもかへらん」と言ひて頭髪(かしら)もおろしはべりけるを、

「湖月抄」に従って訳す。

男はその播磨の地元民にも軽く見られたりしたようです。これまでにも藤原山陰中納言が備前の国司に転じたり、藤原実方中将が陸奥国の国司に任命されたりした実例があるが、事情が異なっている。播磨の地元民にまで相手にされなかった男は、何の面目があって都に戻れようかと言って出家したのである。

少し奥まりたる山住みもせで、さる海づらに出でゐたる。ひかひがしきやうなれど、げに、かの国の内に、さも人の籠りゐぬべき所どころはありながら、深き里は人離れ心すごく、若き妻子の思ひわびぬべきにより、かつは心をやれる住まひになんはべる。

ここでも ひかひがし である。明石入道は ひがもの 変わり者 というレッテルを貼られている。

出家したならば、俗塵を離れて人里から遠い山里に隠棲するものだが、広々とした海辺近くに家を構えて暮らして居るのは、確かに性格的に偏屈な所があるのかもしれない。しかし考えて見れば、成程あの播磨国にはいかにも隠遁者が暮らすのに相応しい山深い里はあるが、そういう所は人里も稀でぞっとするほど淋しいのである。

その入道には若い妻と娘がいるので、彼女たちが淋しい思いをしなくても済むように、海辺近くに居を構えたのである。或いは入道自身が海辺に住んで気分を晴らしたかったのかもしれない。

先つころ、まかり下りてはべりしついでに、ありさま見たまへに寄りてはべりしかば、京にてこそところえぬようなりけれ。そこら遥かにいかめしう占めて造れるさま、さはいへど、国の司にてしおきけることなれば、残りの(よはい)ゆたかに()べき心がまへも()なくしたりけり。

この噂話をしている義清は播磨国司の息子である。彼は入道の蓄財ぶりを自分の目で確認済みなのである。

()なく 二つとない程、唯一最高というニュアンスである。

私の父親の任地である播磨国につい先日も出掛けた。そのついでにその入道一家がどのような暮らしぶりなのかを、近くまで行って拝見したが、宏大な敷地を占有して広壮な建築物を作っていた。都ではたいした屋敷にも住めず、不本意な暮らしぶりであったそうだが、何といってもこの国の前の国司なので、十二分に蓄えた財力を用いたので、この様に立派な屋敷を建てられたのであります。これ以上は望めない程に蓄財してあるので、これからの半生を豊かに暮らせるだけの蓄えはあるようです。なお 京にてこそところえぬようなりけれ。 という部分を、「湖月抄」は、都で済んでいた屋敷も狭かったが、明石では豪邸に住んでいると解釈している。それに対して本居宣長は、都で住んでいた家が手狭だったという意味ではなく、都では勢いがなく飽き足らない暮らし振りだったという意味だと反対している。

これは本居宣長に分がある。

後の世の勤めもいとよくして、なかなか法師まさりしたる人になんはべりける。

出家した後、後世を願う勤行も熱心に勤めている。妻子持ちではあるが、なまじっかの僧侶よりも立派な心掛けの持ち主である。

 

それでは義清の話を聞いた光源氏の立ちの反応を読む。

朗読③

「さて、そのむすめは」と問ひたまふ。「けしうはあらず、容貌(かたち)心ばせなどはべるなり。代々の国の司など、容易ことにして、さる心ばへ見すなれど、さらにうけひかず。「わが身のかくいたずらに沈めるだにあるを、この人ひとりにこそあれ、思ふさまことなり。もし我に後れて、その心ざし遂げず、この思ひおきつる宿世(すくせ)(たが)はば、海に入りね。」と、常に遺言し起きてはべるなる」と聞こゆれば、君もをかしと聞きたまふ。人々、「海竜王の后になるべきいつきむすめなむなり」、「心高き苦しや」とて笑ふ。

かく言ふは播磨守の子の、蔵人より今年かうぶり得たるなりけり。

 解説 「湖月抄」を参照して読んでいく。

「さて、そのむすめは」と問ひたまふ。

義清が長い話を終えると、聞いていた光源氏は、例によって色好みの気持ちをそそられ、

その入道は娘を大切に育てているそうだが、どの程度の娘なのかと質問した。義清の返事である。

けしうはあらず、容貌(かたち)心ばせなどはべるなり。

その娘の器量は悪くはありません。かなり良い方です。気持ちも良いようです。

代々の国の司など、容易ことにして、さる心ばへ見すなれど、さらにうけひかず。「わが身のかくいたずらに沈めるだにあるを、この人ひとりにこそあれ、思ふさまことなり。もし我に後れて、その心ざし遂げず、この思ひおきつる宿世(すくせ)(たが)はば、海に入りね。」と、常に遺言し起きてはべるなる」と聞こゆれば

さる心ばへ は、結婚を申し込むという意味である。入道は娘を受領レベルの男とは結婚させられないと拒絶しています。訳しておく。

義清は答えた。入道の後で国司になった者たちは争ってその娘を妻にと望んだが、入道には国司程度の者を婿に迎えるつもりはないと見えて相手にしない。彼が口癖のように娘に言っている言葉があると聞きました。自分は都では不満足な人生しか生きられず、地方の国司になってしまった。その無念をあなたに晴らして貰いたい。私には未来を託すべき子供はお前ひとりしかいない。あなたには特別に幸福な人生を生きて貰いたいと思う深い理由がある。もしも私が早くに死んでしまって、あなたが理想的な配偶者に恵まれずに、幸福になる事が出来なかったとしたら、この目の前の海にどこかに身を投げて死んでしまいなさいなどと、事あるごとに娘に遺言しているようであります。

君もをかしと聞きたまふ。

光源氏は面白そうな父親と娘だなと思って、記憶に留めた。

人々、「海竜王の后になるべきいつきむすめなむなり」、「心高き苦しや」とて笑ふ。かく言ふは播磨守の子の、蔵人より今年かうぶり得たるなりけり。

人々 は、光源氏の従者たちである。背景を補って訳す。

実は明石入道は夢のお告げを受けていたので、それを信じ娘の結婚相手について高望みしている。けれども供の者たちは、そんなことなど露知ったことではない。海に入って死ぬという事は、海の神である海竜王の后にでもしたいのだろうとか、余りの高望みは周りの者は辛いだろうなどと笑っていた。 この播磨国の話題を提供した義清は播磨守の息子で、六位蔵人を6年間勤め、今年の春の除目で従五位下になった。

この場面は明石巻の伏線である。光源氏は紫の上とは、この若紫の巻で共に暮らすようになるが、明石の君と結ばれるまでには9年の年月を必要とした。

 

さていよいよ光源氏が若紫・後の紫の上を見初める場面になる。ここでも垣間見の手法が用いられている。光源氏はなにがしの僧都の僧房・住いの中を覗き見した。この僧都は北山の僧都と呼ばれるが、光源氏の瘧病(わらわやみ)治療している北山の聖とは別人である。その僧房には

気品のある年老いた尼と、賢げな少女の姿があった。

朗読④

日もいとながきにつれづれなれば、夕暮れのいたう霞みたるにまぎれて、かの小柴垣のもとに立ち出でたまふ。人々は帰したまひて、惟光朝臣とのぞきたまへば、ただこの西面(さいおもて)にしも、持仏(じぶつ)すゑたてまつりて行ふ尼なりけり。(すだれ)すこし上げて、花奉るめり。中の柱に寄りゐて、脇息の上に経を置きて。いとなやましげに詠みいる尼君、ただ人とは見えず。四十()ばかりにて、いと白うあてに痩せたれど、つらつきふくらかに、まみのほど、髪のうつくしげにそがれたる末も、なかなか長きよりもこよなういまめかしものかな、とあはれに見たまふ

きよげなる大人二人ばかり、さては童べぞ出で遊ぶ。中に、十ばかりにあらむと見えて、白き衣、山吹などの()えたる着て走り来たる女子(をむなご)、あまた見えつる子どもに似るべくあらず、いみじう()ひ先見えてうつくしげなる容貌(かたち)なり。髪は扇をひろげたるやうにゆらゆらとして、顔はと赤くすりなして立てり。

「何ことぞや。童べと腹立ちたまへるか。」とて、尼君の見上げたるに、すこしおぼえたるところあれば、子なめりと見たまふ。「雀の子を(いぬ)()が逃がしつる、(ふせ)()の中に()めたりつるものを」とて、いと口惜しと思へり。

 解説 「湖月抄」に導かれて行間を読んでいく。

日もいとながきにつれづれなれば、夕暮れのいたう霞みたるにまぎれて、かの小柴垣のもとに立ち出でたまふ。

光源氏はこれに先立って女性たちの姿を見ていたので、その事を確認したかったのである。今は3月下旬なので、日は長い。光源氏は時間を潰すために先程御覧になって、気になっていた何々とかいう僧都の僧房の小柴垣 の近くまで近付いた。夕暮れになって霞が多く立ち込めてきて、自分の姿を隠すのに都合がよくなった安心感もあった。

人々は帰したまひて、惟光朝臣とのぞきたまへば、ただこの西面(さいおもて)にしも、持仏(じぶつ)すゑたてまつりて行ふ尼なりけり。

本居宣長はこの ただ を、俗にいう じきに という意味である。光源氏からすぐそこに尼の姿が見えたのであると指摘している。僧房に似つかわしくないもの、女性たちの姿があったのを改めて確かめたかったのである。秘密の行動なので、お伴たちは加持祈祷をお願いしている聖の堂に戻し、惟光だけを連れて僧房の中を覗きこまれる。すると目の前が西表、西に向かった部屋で、西方浄土の方角に向かって持仏を安置し、お務めに余念の

ない尼の姿が目に入った。この尼君は後に紫の上の祖母であることが判明するが、この時の光源氏はまだ知らない。

(すだれ)すこし上げて、花奉るめり。

簾が少し引き上げてあって、仏様に花が供えられているようであった。

中の柱に寄りゐて、脇息の上に経を置きて。いとなやましげに詠みいる尼君、ただ人とは見えず。

中の柱 は、文字通り部屋の中にある柱である。

ただ人 身分の低い普通の人という意味である。尼君は部屋の柱に身を寄せて座り、脇息の上にお経を置いて読み上げている。その読み方が如何にも弱々しいので、余程体調が悪いように感じられる。但しかなりの身分であると思われた。

四十()ばかりにて、いと白くあてに痩せたれど、つらつきふくらかに、まみのほど、髪のうつくしげにそがれたる末も、なかなか長きよりもこよなういまめかしものかな、とあはれに見たまふ。

年は40才を少しばかり越えた位だろうか。肌の色は白く、気品がある。全体的に痩せた体付きであるものの、頬の辺りはふっくらとしている。目元の辺りも美しく、尼()ぎで肩の辺りで切り揃えてあるが、その髪の端もきちんとしている。光る君はなまじ髪を長く伸ばしたままにしておくよりも、こういう短い髪の方が却って現代風で洒落て見えると感動しながら見ておられる。この後、光源氏の視線は一人の少女に吸い寄せられる。

きよげなる大人二人ばかり、さては童べぞ出で遊ぶ。中に、十ばかりにあらむと見えて、白き衣、山吹などの()えたる着て走り来たる女子(をむなご)、あまた見えつる子どもに似るべくもあらず、いみじう()ひ先見えてうつくしげなる容貌(かたち)なり。髪は扇をひろげたるやうにゆらゆらとして、顔は赤くすりなして立てり。

紫の上の登場である。尼君の外にも見た目の小奇麗な大人の女房が二人見える。尼君に仕えている女房であろう。また少女たちが部屋を出たり入ったりして遊んでいる。その少女たちの中に一人に、光る君の目は吸い寄せられた。年の頃は10才位だろうかと見えるその少女は、白い下着の上に着なれた上着を着て、尼君のいる部屋の中に駆け込んできた。そして立ったままでいる。他に沢山いる少女たちとは比べようもない程、卓絶した雰囲気が漂って

いる。大人になったら絶世の美女になる事が予感され、とにかく可愛らしい顔立ちである。髪の毛は扇を広げた様に末の方が広がりユラユラしている。その顔は赤くなっている。泣きながら手でしきりに顔をこすったのであろう。尼君が少女に語り掛ける。

「何ことぞや。童べと腹立ちたまへるか。」とて、尼君の見上げたるに、すこしおぼえたるところあれば、子なめりと見たまふ。「雀の子を(いぬ)()が逃がしつる、(ふせ)()の中に()めたりつるものを」とて、いと口惜しと思へり

おぼえたるところあれば 尼君と少女の顔に似たところがあるという意味である。

座ってお経を読んでいた尼君が、走り込んできて立ったままの少女を見上げながら、どうしたのですか。気に入らない事があって誰かと喧嘩したのですか と尋ねている。尼君の顔と少女の顔は似ている所がある。光る君は母と娘なのであろうと推測した。この少女、後の紫の上は、雀の子供を(いぬ)()が逃がしてしまったの、伏籠の中に入れておいたのに と言って、逃げた雀を残念がっている。(いぬ)() は遊び相手の名前の事であろう。

(ふせ)() は衣服に薫物(たきもの)を焚きしめるための道具であるが、鳥籠のことである。

 

これが「湖月抄」の解釈である。最後の (ふせ)() について本居宣長は反論している。殺生を忌む寺に鳥籠などがあるはずがないので、その代用品として(ふせ)()に雀を入れていたのである。なる程である。

次回はこの垣間見の場面の続きから読み進める。

 

「コメント」

 

それで肝心の 瘧病 はどうなったの。何しに行ってるのか。お付きも大変だ。