250608⑩ 葵の巻 (3)
今回は葵の巻の三回目である。前回に引き続き、遂に六条御息所は光源氏の前に姿を現した。かといって幽霊のように現れたのではない。前回の最後に詠んだ様に、光源氏は葵上をいたわるように顔を覗き込む。すると彼女の表情も顔も雰囲気もすっかり変わってしまって、
なげきわび 空に乱るる わが魂を 結びとどめよ したがひのつま
わが身を離れて彷徨っている私の魂を結び留めて下さい。
と光源氏に訴えたのである。葵上がそんなことを訴えるはずがない。そんな風に訴える葵上に名を名乗るように言うと、それっきりいつもと様子が変わった葵上が、元に戻って体が少し楽になった様子である。その瞬間に男の子が生まれた。左大臣家は喜びに沸く。桐壺院はじめ方々からお祝いが届く。しかしながら、そのように祝福できない人物がいた。
六条御息所である。
朗読① 御息所は男子誕生を聞いて心穏やかでない。危篤と聞いていたのにと妬ましく思う。
かの御息所は、かかる御ありさまを聞きたまひても、ただならず。かねてはいと危うく聞こえしをたひらかにもはたと、うち思しけり。
解説
あの御息所は、この様な様子を聞くにつけても心穏やかではない。女君が危篤と聞いていたのにと、よくまあ無事でと妬ましく思われる。
しかし「源氏物語」は六条御息所を鬼のような、恨みの念の凝り固まった人としては描いていない。彼女は常に思索的で繊細で優しい人。そうであれば何故今わが身が、こんな憂いの中にいるのかひたすら考える。そこで六条御息所が辿り着いた結論は、どんなものであったか。こんな目にあうのはあの人のせいだ、あの人が悪いのだとは彼女は考えなかった。賀茂祭にわざわざ出かけてしまった、
あの日の事件からすべては始まっていて、責められるべきは自分自身。それが六条御息所の結論であった。六条御息所が光源氏、葵上、その他を責めることが出来る人だったら、話は違っていただろう。しかし彼女はそうした心を持っていなかった。自らを責める。その結果、逃げ場を失った彼女の心は彼女の心から彷徨い出すことになる。それが六条御息所の悲劇であり、生霊事件の真相である。
葵上が大きなお腹を抱えて苦しめられていた時間は、六条御息所も体調不良に悩まされていた時間であった。魂が体から彷徨い出してしまうことは、普通の事ではないので、そうした状態が長く続けば六条御息所も心身ともにおかしくなってしまう。六条御息所の悩みと苦しみが遂に頂点に達する。
朗読② 不思議な事に着物に護摩に使う芥子の香りがついて洗っても落ちない。世間の人が
どういっているか気になる。
あやしう、我にもあらぬ御心地を思しつづくるに、御衣などもただ芥子の香にしみかへりたり。あやしさに、御泔まゐり、御衣着かへなどしたまひて試みたまへど、なほ同じやうにのみあれば、わが身ながらに疎ましう思さるるに、まして人の言ひ思はむことなど、人にのたまふべきことならねば心ひとつに思し嘆くに、いとど御心変りもまさりゆく。
解説
何とも不思議な事が起こった。六条御息所の体に身に覚えのない香りが染みついている。それは芥子の香り。それは仏事の際に僧が仏に祈りを捧げ、その際に焚く護摩に用いられた。そのもうもうたる煙の中、僧達は祈りを捧げる。その芥子の煙が何故か、六条御息所の衣に髪に染みついて離れない。勿論、御息所には何の覚えもない。身の回りで護摩を焚いたことも、仏事に参加したこともない。何故であろう。今物語の中で盛んに護摩を焚いている所と言えば、葵上の左大臣家である。彼女のお産に憑りついた物の怪退散の祈りがささげられ、濛々たる煙の中で芥子が焚かれている。
その匂いが染みついたということは、六条御息所の魂が彷徨い出し、葵上を苦しめていた動かぬ
証拠である。
御衣などもただ芥子の香にしみかへりたり
六条御息所の身にまとっている衣にも長い黒髪にも深くしみ込んだ芥子の香り。彼女は懸命に髪を洗う。今読んでいる文章に、あやしさに、御泔まゐり、とあった。髪の毛を洗うことである。泔 は髪の毛を洗う水。この時代、米のとぎ汁を使った。平安時代の女性があの長い黒髪を洗い、乾かすことは容易な事ではない。しかし続いて、
御衣着かへなどしたまひて 着物も着換える。
しかしいくらそんなことを続けても一向に落ちない芥子の香り。全く私にはそんな積りは無かったのだが、光源氏の妻・葵上を生霊として苦しめ、乱暴を働く、それは自分自身の魂の仕業だったのだ。
その事を突き付けられ、むせ返る芥子の香りの中で、六条御息所の精神は追い詰められていく。
いとど御心変りもまさりゆく。益々平常心を失くしていく。
芥子の香りの中で錯乱していく六条御息所を、ドラマチックに演出した紫式部オリジナルである。
このように六条御息所の様子を描いて、語り手の視点は再び葵上の様子に戻る。光源氏は我が子の誕生に喜色満面である。
朗読③ 生まれた子が春宮とあまりに似ているので、参内してお会いしようと思う、
若君の御まみのうつくしさなどの、春宮にいみじう似たてまつりたまへるを見たてまつりたまひても、まづ恋しう思ひ出でられさせたまふに忍びだかくて、参りたまはむとて、「内裏などにもあまり久しう参りはべらねば、いぶせさに、今日なむ初立ちしはべるを、すこし近きほどにて聞こえさせばや。あまりおぼつかなき御心の隔てかな」と恨みきこえたまへけば、
解説
生れたばかりの子を見て、光源氏がすぐに思ったのは、ああこの子の目元は春宮にそっくりだということ。当たり前である。春宮 は光源氏と藤壺の子であるから。今度の子と春宮 が似ているのは当然。
光源氏はここの所、葵上に掛かりきりだったので、何処にも出かけていない。そこで葵上の容態も落ちついたので春宮の下に参上しなければと思う。
朗読⓸ 少し元気回復したがやつれている葵上をおいて、光源氏は参内する。葵上はじっと
見送る。
いとをかしげなる人の、いたう弱りそこなはれて、あるかなきかの気色にて臥したまへるさま、いとらたげに心苦しげなり。御髪の乱れたる筋もなくはらはらとかかれる枕のほどありがたきまで見ゆれば、年ごろ何ごとを飽かぬことありて思ひつらむと、あやしきまでうちまもられたまふ。「院等に参りて、いととうまかでなむ。かやうにて、おぼつかなからず見たてまつらばうれしかるべきを、宮のつとおはするに、心地なくやとつつみて過ぐしつるも苦しきを、なほやうやう心強く思しなして、例の御座所にこそ。あまり若くもてなしたまへば、かたへは、かくもものしたまふぞ」など聞こえ起きひて、いときよげにうち装束きて出でたまふを、常よりは目とどめて見出だして臥したまへり。
解説
我妻は何と美しいのだろうとは、光源氏は思わなかった。そこが紫式部のリアリズム。むしろ美しかった葵上はお産の疲れで損なわれて、かなりやつれて横たわっているその様は、いとらたげに心苦しげなり。 いかにもいじらしく痛ましく感じられる。
御髪の乱れたる筋もなくはらはらとかかれる枕のほどありがたきまで見ゆれば、
枕の辺りに彼女の髪の毛が掛かっている。それを見るにつけても光源氏は自分を責める。
年ごろ何ごとを飽かぬことありて思ひつらむと、
長年こんなにすばらしいひとを妻にしながら、どうしてその魅力に気が附かなかったのだろう。光源氏は今やっと気が附いたのである。
あやしきまでうちまもられたまふ。 どうした事だろう。不思議なほどに葵上を見守っている。これに対して葵上は、
常よりは目とどめて見出だして臥したまへり。
優しい言葉を掛けて出て行く光源氏の後姿を、葵上はいつもとは違って、じっと目を注いで見送りながら横になっている。
この様にして光源氏は左大臣家を離れる。左大臣家の人々も無事なお産にホッとしている。
その後の出来事である。
朗読⑤ 葵上は激しく苦しんで亡くなる。これまでにも似た状態があったのでニ三日様子を
見たが、やはり駄目であった。
殿の内人少なにしめやかなるほどに、にはかに、例の御胸をせきあげていたうまどひたまふ。内裏に御消息聞こえたまふほどもなく絶え入りたまひぬ。足を空にて誰も誰もまかでたまひぬれば、除目の夜なりけれど、かくわりなき御さはりなれば、みな事破れたるやうなり。ののしり騒ぐほど、夜半ばかりなれば、山の座主、何くれの僧都たちもえ請じあへたまはず。今はさりともと思ひたゆみたりつるに、あさましければ、殿の内の人物にぞ当たる。所どころの御とぶらひの使など立ちこみたれどえ聞こえつがず揺すりみちて、いもじき御心まどひどもいと恐ろしきまで見えたまふ。御物の怪のたびたび取り入れたてまつりしを思して、御枕などもさながらニ三日見たてまつりたまへど、やうやう変りたまふことどものあれば、限りと思しはつるほど誰も誰もいといみじ。
解説
葵上は突然苦しみだしてそのまま息絶えてしまった。これまでにも最早これまでと言った瞬間があったが、その度に生きを吹き返していたので、今回も物の怪などが騒いだだけかも知れないと、祈る思いで見守っている。しかし蘇生しなかった。大臣家の娘として東宮から入内の話もあったが、断って光源氏と結ばれた人である。長く心の交流が持てず、光源氏も接し方が分からぬ様であったが、子供の誕生で親しく感じるようになった所であった。結婚して10年、光源氏は20代前半、葵上は20代後半。
49日が来て、それまでは光源氏も葵上の思い出をそこかしこに感じ、左大臣家に留まっていたがいつまでもという訳にはいかない。
光源氏は桐壺院の所を訪れる。父・桐壺院はすっかりやつれた光源氏を心配したが、光源氏はそこに長居することはなく、直ぐ退出して二条院に。喪に服していたので既に数か月経っている。
二条院では紫上はじめ人々が待っていた。紫上が待っている様子はこんな風に描かれている。
朗読⑥ 光源氏は成長した紫上があの藤壺にそっくりなのを見た。
姫君、いとうつくしうひきつくろひておはす。「久しかりつるほどに、いとこよなうこそおとなびたまひにけれ」とて、小さき御几帳ひき上げて見たてまつりたまへば、うち側みて恥ぢらひたまへる御さま飽かぬところなし。灯影の御かたはら目、頭つきなど、ただかの心尽くしきこゆる人に違ふところなくもなりゆくかな、と見たまふにいとうれし。近く寄りたまひて、おぼつかなかりつるほどのことどもなど聞こえたまひて、「日ごろの物語のどかに聞こえまほしけれど、いまいましうおぼえはべれば、しばし他方にやすらひて参り来む。今はと絶えなく見たてまつるべければ、厭はしうさへや思されむ」と語らひきこえたまふを、少納言はうれしと聞くものから、なほあやふく思ひきこゆ。
解説
姫君は実に可愛らしくきれいに身繕いしている。光源氏が「お会いしない内に随分と大人びて見えるようになりましたね。」というと、恥ずかしそうに顔を横に向けるようになった。そんな紫上に光源氏は思う。
灯影の御かたはら目、頭つきなど、ただかの心尽くしきこゆる人に違ふところなくもなりゆくかな、と見たまふにいとうれし。
灯火に照らされた横顔、髪の形など、あの藤壺に何と似ていることかと思うと真に嬉しい事である。
留守にしている間のことなど話などした。
二人を見つめる乳母の少納言はああよかったと嬉しく聞きながら、やはり不安を感じていた。どういう事なのか。今は、光源氏は正妻の葵上を失った。だから今は二条院にいるかも知れない。しかし世間は光源氏に正妻がいないことを知っている。
是非我が家の娘をと思う家はある。あの右大臣家でも次の動きがあった。
朗読⑦ 右大臣の娘・朧月夜は光源氏に心を寄せているので、父・右大臣はそれもあるかなと
言うと、母・弘徽殿の女御は絶対反対。入内させようと懸命である。
今后は、御匣殿なほこの大将にのみ心つけたまへるを、「げに、はた、かくやむごとなかりつる方も亡せたまひぬめるを、さてもあらむになどか口惜しからむ」など大臣のたまふに、いと憎しと思ひきこえたまひて、宮仕もをさをさしくだにしなしたまへらば、などかあしからむと、参らせたてまつらむことを思しはげむ。
解説
この場面の御匣殿 は朧月夜のことである。御匣殿 は帝の装束を調進する所、朧月夜がこの役に就いていたのでそう呼ばれる。右大臣家が天皇家に入内させようとしていた大切な箱入り娘である。しか彼女は花の宴で思いがけず、光源氏と関係を持つことになったことは話した。以来朧月夜は光源氏に心を奪われてしまい、忘れられなくなった。すると娘に甘い右大臣は、娘が本当にそう思うなら、光源氏を婿にしても良いかと思ったりする。
かくやむごとなかりつる方も亡せたまひぬめるを、
大切な奥方を亡くされたようだからそれも良いかもしれない。光源氏は貴族社会の中で、申し分なく
身分の高い人である。そんな風にもらした右大臣に、「とんでもない。この子には将来天皇の后になってもらわねばなりません」弘徽殿の女御は光源氏を朧月夜の婿になどというのは考えられない」と
意見するので、その話は沙汰止みとなった。しかし光源氏の反対勢力の右大臣家でさえ、光源氏と何とか婚姻関係を結ぼうと考えて居るのである。少納言の乳母が、このまま光源氏が紫上の所にいてくれて一安心。しかしこの先はどうなるのか分かったものでないと思ったのは、無理からぬことである。
この葵の巻の最後で、光源氏と紫上がついに結ばれるのにはこうした背景があったのである。作者紫式部は光源氏が葵上を失った、このタイミングを逃さなかった。葵の巻の最後の所で、葵上が死によって物語から退場し、六条御息所という世間から評判の高い夫人が、おぞましい姿を光源氏に晒した以上、都から伊勢へと下っていくしかない。この葵の巻の最後で光源氏と紫上が結ばれることに
なったのは偶然ではないということである。それはこんな風に書かれている。
朗読⑧
つれづれなるままに、ただこなたにて碁打ち、編つぎなどしつつ日を暮らしたまふに、心ばえのらうらうじく愛敬づき、はかなき戯れごとのなかにもうつくしき筋をし出でたまへば、思し放ちたる年月こそ、たださる方のらうたさのみはありつれ、忍びがたくなりて、心苦しけれど、いかがありけむ。人のけぢめ見たてまつり分くべき御仲にもあらぬに、男君はとくに起きたまひて、女君は更に起きたまはぬ朝あり。
解説
ある一日の事、光源氏は寝所から早く起き出でてきたのに、女君紫上は何時までも起きてこない。
そうした朝があった。その様な書き方で、二人はこの日、結ばれたことを紫式部は示している。読者にさりげなくはっきりと印象付けている。この時に、紫上は光源氏から見ても世間から見ても、理想的な女性になっていた。二人が出会って4年が経っていた。
「コメント」
ここは一つのクライマックスで、役者がかなり交代する。しっかり覚えておかないと、ストーリが分からなくなる。
紫式部がちゃんと書き分けて行くのに驚嘆する。当方は筋を追いかけるのに大変なのに。