25006⑭ 須磨の巻(1)

今日と次回、須磨の巻を取り上げる。光源氏最大の危機がこの巻で語られる。須磨の巻の冒頭で光源氏は、既に大きな決断を下したらしいことが明らかになる。右大臣家の人々に睨みをきかされながら、これまでと同様な生活を続けることにどれ程の意味があるのだろう。花散里の巻でもそうした自問自答を繰り返していたように見えたし、既にその予兆はあったが、何と彼は生まれ育った平安京を離れる決心をした。

 

その場面を見てみよう。須磨の巻(1) の冒頭部分。

朗読① 光源氏にとって居心地の悪い事になった。あの辺鄙な須磨に住むことも考え始めた。

世の中いとわづらはしくはしたなきことのみまされば、せめて知らず顔にあり経ても、之よりまさることもやと思しなりぬ。かの須磨は、昔こそ人の住み()などもありけれ、今はいと里離れ心すごくて、海人の家だにまれに、など聞きたまへど、人しげくひたたけたらむ住まひはいと本意(ほい)なかるべし。さりとて、都を遠ざからんも、古里おぼつかなかるべきを、人わるくぞ思し乱るる。

 解説

光源氏が都を捨てて赴く先はどこか。須磨という地名が出てきた。「源氏物語」のストーリ-を知らない人でも、何となく光源氏という主人公は物語の中半で、都を離れ須磨に流れて暮らしていたらしい位の事は聞いたことがある人は多いであろう。しかしそうした予備知識なしにこの物語を手にした読者の為を考えた時、まさか物語の主人公、帝の子供である光源氏ともあろう人が平安京を離れて片田舎の須磨の地になどと言う展開は考えても見なかったことであろう。そうなった光源氏は大丈夫だろうか。物語はその後、どう展開していくのだろうか。

若紫の巻で病気療養の為に北山に赴く位の事はあったが、そうした特別なこと以外で、平安京を出たことなどない。

父帝の最愛の皇子にして東宮の後ろにいる近衛大将という身分。しかも赴く先は須磨。今でこそ開けているが、当時は

今はいと里離れ心すごくて、海人の家だにまれに と書かれた通りである。

その様に人の気配のない地に、都生まれの都育ちの光源氏のような人が、これまでの生活を捨てて自ら赴くと言うので、これは真に驚くほかはない展開である。この時代、公卿と言われる貴族たちは都で生まれ、都に育ちそこで役職に着き、そして都で果てるというのが普通である。光源氏のような人物が辺鄙な地方に自ら下っていくなどと言うのは前代未聞である。読者としても葵の巻、賢木の巻、花散里の巻まで読んできて、段々と光源氏の都での立場が悪くなってきている、活躍の場が小さくなってきていると語られ始めているが、まさか都を捨ててしかも草深い片田舎に退去するとは虚を突かれた思いであろう。そんなところで光源氏はどうなってしまうのであろう。しかしそう思わせれば作者の勝ち。

須磨の巻前半は、光源氏が都落ちするまでの経緯。掛け替えのない人々との別れを惜しむことに費やされる。

 

その別れの風景の幾つかを今回は取り上げる。まず、描き出されるのは左大臣家の人々との別れの場面である。

朗読② 左大臣は病気を理由に引きこもっていたが、光源氏が須磨に行くことを知り、長生き

      が辛くなりますと言う。

大臣(大臣)こなたに渡りたまひて対面(たいめ)したまへり。「つけづれに籠るらせたまへらむほど、何とはべらむ昔話も、参り来て聞こえさせむと思うたまへれど、身の病重きにより、朝廷(おおやけ)にも仕うまつらず、位をも返したてまつりてはべるに、(わたくし)ざまにも腰のべてなむとものの聞こえひがひがしかるべきを、今は世の中憚るべき身にもはべらねど、いちはやき世のいと恐ろしうはべるなり。かかる御事を見たまふるにつけて、命長きは心憂く思うたまへるる世の末にもはべるかな。

  解説

物語に久し振りに左大臣が登場した。光源氏の妻であった葵の上の父親である。桐壺帝の信頼の厚かった人物である。

この左大臣家に須磨に立つ三日前に別れの挨拶に行く。そして我々をあっと言わせることがあるという。というのは左大臣は光源氏にこう話していた。

身の病重きにより、朝廷(おおやけ)にも仕うまつらず、位をも返したてまつりてはべるに、

病が重いので朝廷からの位を返上し、今は引退状態にある。しかしこれが口実であることが次の言葉から明白である。

いちはやき世のいと恐ろしうはべるなり。

いちはやき は、激しいとか、手厳しい、手がつけられないという意味である。即ち今の右大臣家によって牛耳られている世の中は、何が起きるか分からない、恐ろしい世の中になってしまったと左大臣は嘆いている。

 

そうした左大臣を慰めるかのように、光源氏はこんな風に返事をする。

朗読③ これから流罪などの大きな(はずかし)めにあわない内に、世の中を逃れようと思っています

     と光源氏は申し上げる。

「とあることもかかることも、(さき)の世の報いにこそはべるなれば、言ひもてゆけば、ただみづからのおこたりになむはべる。さしてかく官爵(かんしゃく)をとられず、あさはかなることにかかづらひてだに、(おおやけ)のかしこまりなる人の、うつしざまにて世の中にあり()るは、(とが)重きわざに外国(ひとのくに)にもしはべるなるを、遠く放ちつかはすべき定めなどもはべるなるは、さまことなる罪に当たるべきにこそはべるなれ。濁りなき心にまかせてつれなく過ぐしはべらむもいと憚り多く、これより大きなる恥にのぞまぬさきに世をのがれなむと思うたまへ立ちぬる」などこまやかに聞こえたまふ。

 解説

今の場面の光源氏のセリフに 遠く放ちつかはすべき定めなどもはべるなるは

流罪にされるかも知れないという噂があるというのである。やましい所は無いが、このまま都に居続けるとやがて思い罪に処せられ、恥辱を味わうかもしれない。そうなる前に自ら都を離れようと思う。このようにして光源氏は左大臣家に別れの挨拶をする。ここで一つ注意したいことがある。「源氏物語」は多くの読者を獲得して内容を知っている人も多い。そうした現在でも、物語の内容を次の様に誤解している人はいないだろうか。

光源氏は物語の途中で、都から須磨の地に流されることになった。そんな説明を受けたり、目にした人はいないだろうか。

光源氏は今、自分がいる場所はないと言って、このまま都にいたら大きな辱めを受け、場合によっては遠い所に流されることになるかも知れない。そうなる前に都を離れようと思う ということを語っていた。つまり彼は処罰されて都から須磨に流されたのではなくて、今の都に自分の居場所はない、このままいても何も良い事はないと考え、自ら自発的に須磨に退くことを決意したのである。弘徽殿の女御に、朧月夜との関係を口実に政治生命を完全に絶たれる前に、自ら手を打って都を離れることにしたのである。自発的退去であったことをここで確認する。

そして左大臣に話を戻せば、彼も 右大臣家から引導を渡される前に、舞台から引いたのは光源氏と同様であった。

 

左大臣は光源氏にこう話しかける。

朗読⓸ 亡くなった葵上が生きていたらどんなに悲しむでしょう。幼い孫の夕霧があはれですと

     左大臣は言う。

「過ぎはべりにし人を、世に思うたまへ忘るる世なくのみ、今に悲しびはべるを、この御事になむ、もしはべる世ならましかば、いかやうに思ひ嘆きはべらまし、よくぞ短くて、かかる夢を見ずなりにけると、思うたまへ慰めはべり。幼くものしたまふが、かく(よわい)過ぎぬる中にとまりたまひて、なづさひきこえぬ月日や隔たりたまはむと思ひたまふるをなむ、よろづのことよりも悲しうはべる。いにしへの人も、まことに犯しあるにてしも、かかる事に当たらざりけり。

 解説

今日まで私は平穏に暮らしてきましたが、しかし考えてみれば命を長く保つことは決していいことばかりではない。長生きをしたからこそ、こんな目にあう。つまりこうして自らも政治の世界に居場所を失う。光源氏が都を離れることにも、直面しなければならない。左大臣はこう嘆く。そして思い起こされるのは、目の前の光源氏の横にお雛様のように並んでいた我が娘・若くして亡くなった葵の上のことであった。あの娘を失くした時私は、こんな悲しいことがこの世にあるのかと思った。があの娘は良い時に死んだのかもしれない。よくぞ短くて、かかる夢を見ずなりにけると、この事を意味している。

まことに犯しあるにてしも、かかる事に当たらざりけり。

本当に罪を犯した人でもこんな目にあうことはなかった。以上が左大臣邸での左大臣と光源氏の別れの場面であった。

 

さて藤壺との別れの場面をよむ。

朗読⑤ 光源氏は亡き院のお墓に参拝し、藤壺の所に行く。藤壺は春宮(とうぐう)の事が心配という。

     互いに深い思いである。

明日とての暮れには、院の御墓拝みたてまつりたまふとて、北山に(もう)でたまふ。暁かけて月出づる頃なれば、まづ入道の宮に(もう)でたまふ。近き御簾の前に御座(おまし)まゐりて、御みづから聞こえさせたまふ。春宮(とうぐう)の御事を、いみじううしろめたきものに思ひきこえたまふ。かたみに心深きどちの御物語はた、

よろづあはれにまさりけんかし。

 解説

光源氏は都を離れるに際して、桐壺院の眠る御陵に参拝する。その前に藤壺を訪れる。久し振りの対面である。ここで読者を驚かせることがさりげなく書かれている。平安時代の貴族関係で身分ある女性が、男と直接顔を合わせるなどあり得ない。女の人は奥まったところで、御簾の中にいる。自分の声をきかせるという不用意な事もしない。そこには女房が控えて、代わりに応対をする。藤壺も御簾を隔てて、光源氏とやり取りをするが、しかし今の文章にあったのは、

近き御簾の前に御座(おまし)まゐりて、御みづから聞こえさせたまふ

藤壺自ら返事をしたのである。この様な事は今までなかったことである。彼女は何故この様なある意味でははしたないことをしたのか。出家した藤壺は既に現世とは一線を画した人になったことが、彼女にこうした行動をとらせた原因なのである。しかしその事以上に大切なのは、藤壺にとっても光源氏と言葉を交わすのは、今日が最後になるかも知れないということ。そうした思いが働いたのであろう。二人が同じく気になるのは春宮(とうぐう)の事である。場合によっては右大臣家によって廃位され兼ねない事である。藤壺は 御みづから聞こえさせたまふ。

藤壺は自分で返事をした。この様な事は初めてである。(さか)()の巻で出家した藤壺は、一人の女性である前に現世と一線を画した者であるということである。そういう環境の中で、春宮の事を話す時には対面が必要である。藤壺は自ら言葉を掛ける

 

彼女は 春宮(とうぐう)の御事を、いみじううしろめたきものに思ひきこえたまふ

藤壺は一にも二にも春宮(とうぐう)の事が心配で、不安で仕方がないという。対する光源氏はこう返す。

その場面を読む。

朗読⑥ 光源氏も「この身は諦めるとして、春宮だけでも安泰なら」とだけ言う。

[惜しげなき身は亡きになしても、宮の御世だに事鳴くおはしまさば」とのみ聞こえたまふぞことわりなるや。宮も、みな思し知らるることらしあれば、御心のみ動きて聞こやりたまはず。大将、よろづのことかき集め思しつづけて亡きたまへる気色、いと尽きせずなまめきたり。

 解説

自分がどうなろうと、惜しげなき 全く惜しいとは思わない。わが身がこのまま亡き者になったとしても、春宮(とうぐう)の身が安泰であればそれで十分です。春宮(とうぐう)はそのまま即位して下されば、私は都を離れられる。

 

光源氏は藤壺のもとを辞去して、桐壺院の眠る北山に向かう。この所は講師が音読する。

朗読⑦ ご生前の御姿が幻となってはっきり見えたのは、思わず寒気立つような感じであった。

ありし御面影さやかに見えたまへる、そぞろ寒きほどなり。

 解説

生前の御姿が幻となってはっきり見えたのは、面影であり空気だった感じであった。

 

さて光源氏は都に戻り春宮(とうぐう)に最後の挨拶を人を介して行う。その間に立ったのは、大命婦であった。彼女は余りにも光源氏が訴えるので、若紫の巻で藤壺のもとに光源氏を導いた女房である。光源氏と藤壺の関係、春宮(とうぐう)の実の父親を知る唯一の人である。彼女が春宮に伝える。

 

光源氏はこの命婦に  今日なん都離れはべる。 と春宮にお伝えくださいと言う。それを命婦から聞いた春宮の反応はどうであったか。

朗読⑧ 「光源氏がこういっております」と春宮に言うと、「遠くに去って淋しい事よ」と返事して

     くれと。心細いことである。

「かくなむ」と御覧ぜさすれば、幼き御心地にも、まめだちておはします。「御返り如何ものしはべらむ」とち啓すれば、「しばし見ぬだに恋しきものを、遠くはましていかに、と言へかし」とのたまはす。ものはかなの御返りやとあはれに見たてまつる。

 解説

春宮は言う。「しばし見ぬだに恋しきものを、遠くはましていかに、と言へかし」

「暫くの間会わずにいてさえ悲しく思うのに、まして遠くに行ったらどうであろうか。そう伝えてあげてください」ということであった。父と子が永遠の別れになるかも知れない時の言葉ではない。余りにあっさりした言葉である。しかし無理はない。この便りが本当の父親からとは思っていない、今8歳である。だから父へのメッセ-ジではなく、あくまで春宮(とうぐう)から臣下への言葉である。それに対してその言葉を取り次いだ、何もかも知っている大命婦はその言葉を仲介して

ものはかなの御返りやとあはれに見たてまつる。

何と淡白なとつぶやいたとある。

 

さて最後に紫の上との別れについて読む。別れを描く須磨の巻で、作者が一番多く筆を割いたのは最愛の紫の上との別れである。光源氏が例えば左大臣家に赴いて、左大臣や頭中将と別れを惜しむ。その後彼が帰ってくるのは、自分の屋敷の二条院。そこで待っているのは紫の上である。光源氏が残り少ない時間を紫の上と過ごす。自分がいなくなってからの彼女の身の上について話す。光源氏が彼女の身を案じる場面が繰り返し描かれるが。改めて紫の上が光源氏以外に頼る人がいない

孤独な人であることが示される。実の父の兵部卿宮が実に淋しい人であったことが、この須磨の巻で改めて次の様に知らされている。

朗読⑨ 紫の上の父は便りも寄越さない。光源氏の事を聞いて、継母は「ありついた幸運が

     逃げていくこと。そんなにうまくいかないのよね」と言っているのが聞こえてくる。これを

     聞いて紫の上は情けなくなる。

親王(みこ)はいとおろかに、もとより思しつきにけるに、まして世の聞こえをわづらはしがりて、おとづれきこえたまはず、御とぶらひにだに渡りたまはぬを、人の見るらむことも恥ずかしく、なかなか知られたてまつらでやみなましを、継母(ままはは)の北の方などの、「にはかなりし幸いのあわたたしさ。あなゆゆしや。思ふ人、んー方々につけて別れたまふ人かな」とのたまひけるを、さるたより漏り聞きたまふにも、いみじう心憂ければ、これよりも絶えておつづれきこえたまはず。

 解説

光源氏は葵の巻で紫の上と結ばれて以来、父宮にも知らせていた。父宮は光源氏が我が娘紫の上に暖かく接したことは知っていた。しかし娘の所にやってきたり何かしら文使いをしたりはしなかった。という父宮は紫の上に興味がないのか、光源氏に任せきり。そして光源氏の政治的立場が悪くなって都から離れるらしいことを知って、いよいよ紫の上からも距離を取って関りを断つようにしている。

御とぶらひにだに渡りたまはぬ

父親がそうである以上、継母が近頃こういう事を周囲に話しているらしいことが伝わってくる。自分の夫が他所の女に産ませた娘、紫の上が光源氏に引き取られて何不自由なく過ごしていることを、元々苦々しく思っていたのである。それが

にはかなりし幸いのあわたたしさ

「やはり俄かにありついた幸運が慌ただしく逃げていくこと。世の中はうまくいかないものだ。」と継母は言っている。紫の上の不幸を喜ぶかのような言葉である。こんな継母なので、紫の上を可愛がっていた亡き祖母は光源氏にくれぐれもと頼んでいたのである。

 

光源氏が須磨に降ると、紫の上はもとの天涯孤独な身の上となってしまう。勿論光源氏は自分が都を離れた後の、紫の身の上が心配で堪らない。彼は次のような処置をしていた。

朗読⑩  光源氏は財産、使用人など紫の上が困らないように処置をしておく。

さぶらふ人々よりはじめ、よろづのこと、みな西の対に聞こえ私たまふ。領じたまふ御荘(みしょう)御牧(みまき)よりはじめて、さるべき所どころの券など奉り起きたまふ。それより外の御倉町(みくらまち)(おさめ)殿(どの)などいふことまで、しょうなごんをはかばかしきものに見おきたまへれば、親しき家司(けいし)ども具して、知ろしめすべきさまどものたまひ預く。

 解説

光源氏は全てを西の対に暮らして居る紫の上に

領じたまふ御荘(みしょう)御牧(みまき)よりはじめて、さるべき所どころの券など奉り起きたまふ。

荘園や牧場など然るべきところの地券などを紫の上に託した。今の言葉で言えば、所有者を自分から紫の上に書き換えたということ。光源氏は自分が都を離れても、紫の上が生活に困らないように財産を託したのである。その上で光源氏は自分達に長く使えてきた女房達の事も紫の上に託す。光源氏の細やかな心遣いである。紫の上はこの二条院は女主として切り盛りしていくことになる。

 

この少し前の場面になるが、頭の中将と光源氏の弟宮が二条院を訪ねてきた。光源氏は身なりを整え鏡を見るが、その横に紫の上がいて、その彼女にこう問いかける。

朗読⑪ 光源氏は鏡を見るとやつれて別人のよう。横にいる紫の上に私は鏡のように貴方から

      離れませんよという。紫の上は別れても鏡に残る姿を見て心を慰めますという。

(びん)かきたまふとて、鏡台に寄りたまへるに、(おも)()せたまへる影の、我ながらいとあてにきよらなれば、「こよなうこそおとろへにけれ。この影のやうにや痩せてはべる。あはれなるわざかな」とのたまへば、女君、涙を人目浮けて見おこせたまへる、いと忍びがたし。

  身はかくて さすらへぬとも 君があたり 去らぬ鏡の かけは離れじ

と聞こえたまへば

  別れても 影だにとまる ものならば 鏡を見ても なぐさめてまし

 解説

光源氏の歌 身はかくて さすらへぬとも 君があたり 去らぬ鏡の かけは離れじ

私はもうすぐ都をあなたのもとを離れるけれども、しかし鏡に写った私の影、姿だけでも鏡の中に収めて私は旅立ちます。紫の上は応える。せめて面影だけでもこの鏡の中に留まってくれるならば、私は何時でもこの鏡を覗き込んで心を慰めることが出来るでしょう。しかし人が鏡の前を離れてしまったらそこには誰の姿もない。

こうして光源氏が都から旅立ったのは三月二十日過ぎ。もう春が終わろうとしていた頃であった。

 

「コメント」

 

ある意味物語の山場で大いに盛り上がり光源氏の実像がはっきり見える場面である。

面白かった。