260125㊷若菜下の巻(6)
今回は若菜下の巻の第6回である。前回は、光源氏が紫の上と共に作り上げた六条院世界の粋とも言っても良い、華やかで典雅な女楽。人々がまだその余韻に酔いしれている中、紫の上が倒れた。彼女の身は子供のころから長く親しんだ二条院に移される。当然光源氏も二条院で紫の上に付き添い続ける。そして六条院を留守にすることが多くなる。
その隙をつくように一人の男が姿を現す。柏木である。その父は元の頭の中将、今の太政大臣家の嫡男にして、音楽にも蹴鞠にも格別の腕前を見せる、この青年は周囲の信頼も厚い。彼は今も女三宮を忘れられずにいた。あの六条院の蹴鞠の場で見た袿姿の麗しい姿。あれから何年もたとうとしている。彼にもここ数年の間に一つの変化があった。柏木は結婚したのである。
朗読① 柏木は中納言になり帝の信任も厚い。更衣腹の身分の低い女二宮を妻に迎え、
多少軽んじながら扱っていた。
まことや、衛門督は中納言になりにきかし。今の御世にはいと親しく思されて、いと時の人なり。身のおぼえまさるにつけても、思ふことのかなはぬ愁はしさを思ひわびて、この宮の御姉の二宮をなむ得たてまつりてける。下﨟の更衣腹におはしましければ、心やすき方まじりて思ひきこえたまへり。
解説
彼は中納言になって、出世街道である。我が身が出世し、世の覚えが厚くなればなるほど、彼の自らの心にぽっかりと空いた穴を誰にも話せないことなので、じっとしているしかない。その中で彼は妻を迎える。妻は女三宮の姉、腹違いの女二宮であった。
まだ柏木は女三宮を忘れ兼ねているのではないか。それは的中する。前回話したように、ある夜、
柏木は六条院にいた。人影もまばらな六条院春の町寝殿の西側、女三宮の住まい。柏木の側には手引きした小侍従がいた。以前にも出ていた、女三宮の乳母である。柏木の執拗な要請に小侍従も困り果てていた。しかしある夜、柏木の姿は人影もまばらな六条院にあった。
それは王朝貴族たちが一年に一度の事として心待ちにしている、葵の巻でも出てきた四月の賀茂祭。その賀茂祭に若い女房達は出かけて行ってしまった。いつも張り巡らされている女房達の監視の目が、その日の六条院にはなかった。女三宮の寝所に柏木が。小侍従には、物を隔てて対面すると約束していた柏木。しかしそうはならなかった。部屋に入った柏木は女三宮を抱きかかえる。驚く女三宮。
朗読② 女三宮は無心に寝ていたが、男の気配がするので光源氏かと思う。見ると別人で
ある。何かわけのわからぬことを言い立てている。
宮は、何心もなく大殿籠りにけるを、近く男のけはひのすれば、院のおはすると思したるに、うちかしこまりたる気色見せて、床の下に抱きおろしたてまつるに、物におそはるるかとせめて見開けたまへれば、あらぬ人なりけり。あやしく聞きも知らぬことどもをぞ聞こゆるや。
解説
光源氏不在の折、女三宮はいつものように寝んでいたら、近くに男の気配がする。光源氏かな思うが、その男は自分を抱き上げる。見上げると光源氏ではなかった。何か訳の分からないことを言っている。恐怖である。そして柏木は無我夢中で女三宮を我がものとする。ここまで来て、女三宮はこれは柏木なのだと気付いた。小侍従から彼のことは聞かされていたし、また今柏木の口からあの数年前の蹴鞠の庭で、宮様の姿を見た と聞かされて、わが姿が柏木に見られていたことを知り、自分の軽率さを今更ながら思い知らされた。
柏木が去った時、女三宮は心身ともに不調を来した。このことはすぐに光源氏に伝えられたので、光源氏は六条院に帰ってくる。その折、光源氏にわが耳を疑う知らせがあった。
朗読③ 光源氏は女三宮の不調が自分の無沙汰のせいと思うので、すぐには二条院に帰れないで気もそぞろの所に、「今、紫の上が息をお引き取りになった」という知らせ。すぐに二条院に戻るが、人々は大路や邸内で騒ぎ立っている。
大殿の君は、まれまれ渡りたまひて、えふともたち帰りたまはず、静心なく思さるるに、「絶え入りたまひぬ」とて人参りたれば、さらに何ごとも思し分かれず、御心もくれて渡りたまふ。道のほどの心もとなきに、げにかの院は、ほとりの大路まで人たち騒ぎたり。殿の内泣きののしるけはひいとまがまがし。
その後、状況は続く。
朗読⓸ 女房達が「急にこうなられました」という。僧たちも帰り支度をしている。光源氏は
「無暗に騒ぐな。物の怪の仕業ということもあろう。」と新たに大願を立てさせる。
我にもあらで入りたまへれば、「日ごろはいささか隙見えたまへるを、にはかになむかくおはします」とて、さぶらふかぎりは、我も後れたてまつらじとまどふさまども限りなし。御修法どもの壇こぼち、僧なども、さるべきかぎりこそまかでね、ほろほろと騒ぐを見たまふに、さらば限りにこそはと思しはつるあさましさに、何ごとかはたぐひあらむ。「さりとも物の怪のするにこそあらめ。いと、かく、ひたぶるに
な騒ぎそ」としづめたまひて、いよいよいみじき願どもを立て添へさせたまふ。
解説
光源氏の目の前に繰り広げられている情景は、「死んだ者は仕方ない」と、帰ろうとする 御修法 の姿。騒然としている二条院。光源氏はこういう。
「かく、ひたぶるにな騒ぎそ」としづめたまひて、 「無暗に騒ぐでない。大丈夫だ、私がいるから」と
動揺する女たちを静めようとする。
光源氏は僧たちを引き留め、「諦めてはならない。物の怪の仕業ということもあろう」と数々の大願を新たに立てさせる。
朗読⑤ せめてもう一度、目を開けて私を見ておくれ。臨終の間際に会う事が出来なかった
のが悔しいのです。
ただ、いま一たび目を見あはせたまへ、いとあへなく限りなりつらんほどをだにえ見ずなりにけることの悔しく悲しきを、
解説
「紫の上よ、もう一度目を開けて、この私の目を見て下され。これが今生の別れになって良かろうか」
光源氏の願いが天に届いたと言ってよいであろう。光源氏の思った通り、紫の上に取りついた物の怪が正体を現す。
朗読⑥ 天が光源氏の願いを照覧されたのか、物の怪が童に乗り移って現れ、紫の上は息を
吹き返す。
いみじき御心の中を仏も見たてまつりたまふにや、月ごろさらにあらはれ出で来ぬ物の怪、小さき童に移りて呼ばひののしるほどに、やうやう生き出でたまふに、うれしくもゆゆしくも思し騒がる。
解説
紫の上に取り付いた物の怪が正体を現し、自らについて語りだす。この辺りのことについては、葵の巻の解説の時にも話した。人に取り付く物の怪は調伏されると、もはやこれまでと近くにいる子供の体などに乗り移り、そしてその口を通して自らの正体を名乗って、なぜ人に取り付いたかの事情などを語るのである。今の場合もそうである。
物語りの文章の中に 物の怪、小さき童に移りて呼ばひののしるほどに、 とあったが、そのことを
示している。物の怪が紫の上の体を離れて 小さき童 に乗り移る。それをもって、紫の上は
やうやう生き出でたまふに、 どうにかこうにか息を吹き返す。
やがて物の怪は苦しそうにその正体を語り始めた時、光源氏と読者は思わず言葉を失う。ここは
物の怪の言い分を聞いてみよう。
朗読⑦
いみじく調ぜられて、「人はみな去りね。院一ところの御耳に聞こえむ。おのれを、月ごろ、調じわびさせたまふが情なくつらければ、同じくは思し知らせむと思ひつれど、さすがに命もたふまじく身をくだきて思しまどふを見たてまつれば、今こそ、かくいみじき身を受けたれ、いにしへの心の残りてこそかくまでも参り来たるなれば、ものの心苦しさをえ見過ぐさでつひに現はれぬること。さらに知られじと思ひつるものを」とて、髪を振りかけて泣くけはひ、ただ、昔見たまひし物の怪のさまと見えたり。
解説
物の怪は見事に調伏されて、小さき童の口を借りて訴える。「光源氏様一人だけに申し上げたいことがある。他の物は去れ」光源氏は一人で物の怪に対峙する。その光源氏に対して物の怪は言う。
「わが執念を聞いておくれ と思ったが、紫の上のことで悲嘆に暮れているそなたの様子を見て、見過ごすことが出来ずついつい姿を現してしまった。今でこそ、こんなあさましい姿に身をやつしているものの、いにしへの心の残りてこそかくまでも参り来たるなれば、
昔々あなたに抱いた私の思いは、私の心に残っていて、こうしてここに姿を現すことになってしまった。ああ無念だ。」と言って泣く様子は全く昔見た物の怪そのものと見えた。この情景を光源氏はかつて見たことがあった。
ただ、昔見たまひし物の怪のさまと見えたり。 光源氏が昔に見た光景と同じ。葵の巻。
昔、光源氏が葵の上を亡くした時、同じことを経験しその目で見た。あの時と何もかもが同じである。
次に物の怪は恐ろしい表情を一変させて、光源氏にすがるように言う。
朗読⑧ 泣いて「私は変わり果てた姿になったが、空とぼけたあなたは昔のままです。恨めしい
恨めしい」という。どこか恥じ入っている様子は昔の六条御息所に変らず、実に
気味悪く厭わしいので光源氏はこれ以上言わせまいとする。
ほろほろといたく泣きて、「わが身こそ あらぬさまなれ それながら そらおぼれする君はきみなり いとつらし つらし」と泣き叫ぶものから、さすがにもの恥ぢしたるけはひ変らず、なかなか疎ましく心憂ければ、もの言はせじと思す。
解説
私は変わり果てた姿になっているが、あの時だって今だって、私のことは知らぬ存ぜぬとでも言わんばかりの顔をなさる、光源氏様。今も昔のあの時のままです。
光源氏はここに至ってすべてを受け入れざるを得なかった。物の怪の正体は六条御息所。彼女は葵の巻で生霊となって葵の上を取り殺し、そして若菜下の巻では死霊となって紫の上を絶命させた。
光源氏にとっては恐怖そのものであったはず。いにしへの心の残りてこそ 彼女はこうして姿を現す
ことになったと白状する。光源氏への深い思いと愛情。裏返してみれば、激しい執着の心を捨てられず、彼女の魂は光源氏の周りを彷徨っていたのである。愛する余り、光源氏の愛するものを奪おうとする六条御息所。そうすれば疎まれることは分かっていても、そうすることによって初めて光源氏に存在を思い出して貰う六条御息所。不気味な場面である。
そしてそれは いとつらし つらし」と泣き叫ぶものから、次に さすがにもの恥ぢしたるけはひ変らず、
それでどこか恥じらっている様子は昔と変わっていない。しかし光源氏は気味悪く厭わしいのでこれ
以上何も言わせないようにと思う。
朗読⑨ 娘が中宮になったのは嬉しかったが、別の世界に生きると娘のことは深く考えなく
なった。恨めしいという執念はいつまでもこの世にとどまるのです。
「中宮の御事にても、いとうれしくかたじけなしとなむ、天翔りても見たてまつけど、道異になりぬれば、子の上までも深くおぼえぬにやあらん、なほみづからつらしと思ひきこえし心の執なむとまるものなりける。
解説
澪標の巻で死を前にして六条御息所は一人残される娘の事ばかり思っていた。その娘は光源氏の世話で、冷泉帝の中宮となった。斎宮女御と呼ばれる人。その娘の事だけが心配であったはずだが、今の六条御息所は違う。娘を中宮にしてもらったのは有難いことだが、今となってはもうどうでもよい。
道異になりぬれば、子の上までも深くおぼえぬにやあらん、
死者の世界の人になった私には娘の身の上などもはやどうでもよいのだ。その後に残ったのは 心の執 つまり、死んでこうして彷徨い出たわが心にあるのはただ一つ、光源氏よ、お前への激しい執着であるという。このような物語を作り出す作者の創造力に驚くしかない。この場面でまた、六条御息所がこのような形で登場してくるとは。六条御息所は亡くなって二十年の時が経ったというのに。六条御息所の死霊はこんな言葉を残している。私はどうしてこんな無様な姿を晒すことになったのか。
朗読⑩
思ふどちの御物語のついでに、心よからず憎かりしありさまをのたまひ出でたりしなむ、いと恨めしく。今はただ亡きに思しゆるして、他人の言ひおとしめむをだに省き隠したまへとこそ思へ、とうち思ひしばかりに、かくいみじき身のけはひなれば、かくところせきなり。
解説
六条御息所が長い沈黙を破って物語に再び現れた理由は、女楽が見事に終わり、光源氏は紫の上に対してこれまでの人生についてしみじみと語った。前回話した通りである。その中で光源氏は、これまで出会った女君たちのことを話したあの夜。葵の上のこと、六条御息所のこと、等について紫の上に話した。
思ふどちの御物語のついでに、光源氏と紫の上との御睦言の折に六条御息所のことが話された。
その事自体が一人の女性として いと恨めしく それで今こうして姿を現し、紫の上に取り付くことになったのだ。このことは講義でも何度も話して来た。葵上や六条御息所のことを話題にすることは、
今までの女君たちの中で紫の上が一番の優位にあることを意味すると同時に、他の女君からすれば他の女性との話の中で話題に出され噂されること時代が屈辱侮辱である。プライド高く自らを頼むところの大きかった六条御息所には、それが許せなかったのである。このことを言って六条御息所の
死霊は消える。紫の上は息を吹き返すが、後味の悪い幕切れである。
女三宮と柏木の密通、紫の上の絶命と蘇生。六条御息所の死霊の出現。次々と驚くべき話題を繰り出してくる紫式部には圧倒される。そして女三宮と柏木にも過酷な運命が待っている。
「コメント」
講師の予告にふさわしい波乱万丈である。ここにも六条御息所が出てくるとは。多くの読者は、ここ若菜の巻まで到達出来ずに終わると聞くがまことに惜しいこと。