250419 ③「伊勢物語という作品名の謎」

今回は「伊勢物語」というタイトルについて考える。物語の名前には命名の由来が分かりやすいものがある。「竹取物語」は、竹取の翁が竹の中からかぐや姫を見つけて育てたという書き方なので納得できる。「落窪物語」は実の母親に先立たれたヒロインが継母から冷遇され、家の中の落ち窪んだ部屋の住まわせられたことから命名されている。「源氏物語」は主人公の光る君が源氏だからであろう。それでも「伊勢物語」のタイトルの由来は、現在でもよく分かっていない。

「源氏物語」の若紫の巻では、「伊勢物語」のことを「在五が物語」と言っている。すなわち阿保(あぼ)親王(平城天皇の五男、母伊都内親王・桓武天皇の皇女)の五男で、在原業平のことである。この物語は「伊勢物語」というタイトルでの方で広まっている。

 

戦国の混乱期を生き抜いた細川幽斎が著した「伊勢物語闕疑(けつぎ)抄」は江戸時代に「伊勢物語」研究の決定版として広く読まれた。その冒頭部分を読む。

朗読①

凡そ文を講ずるにはまず大望の心を述ぶること定まれるひなり。これぞ伊勢物語には、いざなぎいざなみの命、天の浮橋の下にて、まぐわいとたまひしより、男女交会(こうかい)の事始まりしかば男女の物語とす。男女という字のある本あれば、かくの如くという。法立に一行用いざることなり。

 解説

幽斎は次のように述べている。そもそも書物について講義する際には、最初にその書物のタイトルについて述べることが定まった順序である。だからここでも「伊勢物語」というタイトルの解説から始める。古い注釈書は「伊勢物語」は男女の交わりの物語という意味であると書いてある。神代の昔にはいざなぎいざなみ、二人の神が男女の交わりを結んで以来、男と女は情交を結び続けてきた。「伊勢物語」もまた男女の性愛がテーマとなり、この物語を「伊勢物語」と呼ぶのである。

伊勢の 伊 という字には女とか陰陽の陰という意味がある。伊勢の 勢 という字には、男とか 陽 という意味がある。

だから「伊勢物語」は女と男が陰陽和合する物語という意味である。但しこの考えは私、細川幽斎が受け継いできた「古今伝授」の教えでは、まったく顧みられず論外とされている。

 

細川幽斎は強く否定しているが「伊勢物語」に男女の恋愛性愛というテーマが含まれていることは事実である。細川幽斎がここで否定している古注釈は「冷泉家流伊勢物語抄」である。そこには「陰陽記」という書物が引用されている。それによると 伊 という字には 万象を孕む 世界のすべてを生み出すという意味がある。勢 という字には万種を撒く 世界のすべての種子を撒く という意味が

あるというのである。一理ある解説である。

 

細川幽斎の「闕疑抄」はタイトルの由来として、二つ目の説を紹介している。 また曰く 伊勢が必作なり 「古今和歌集」を代表する女性歌人 伊勢が書いたものである。伊勢が書いたので「伊勢物語」というタイトルがついたという説である。鎌倉時代の最も古い注釈書である「和歌()(けん)集」にもこの説が紹介されている。但しすぐに思い浮かぶ疑問がある。

紫式部が書いた物語は「紫式部物語」とは呼ばれない。歌人の伊勢は正確な生没年は不明。但し875年に生まれ939年に没したとする説もある。一方業平の生没年ははっきりしている。825年~880年。業平が死去した頃に、伊勢はまだ56歳。彼らの活躍した時期とは重ならない。

 

ところが業平と伊勢が夫婦であったとする伝承がある。

「和歌知顕集」の一節を読む。

朗読②

この物語は(じょう)(がん)七年に業平、長岡の篭居の時書かむと思い始めて書きたりしを、元慶(がんぎょう)三年に清書(きよがき)おうせて、時の才女伊勢に語りて曰く 我今年心弱き年にあい当たりたり。老生(ろうしょう)定めなければ、身罷(みまか)ることあらば、かかる物語ある

ほどけて後、我書きたるものと知らせずして、人の書きたるようにてこの「伊勢物語」を取り出して、世に(あまね)く広めたまへ。おうようは見たまひしことなり とそれを選して書き集めたるなりと言いけれども、伊勢は(まこと)とも思わず、あらましのようにおもうほどに、あくる五月に業平失せにけり。

 解説

清書(きよがき) は清書のこと。この説では業平は長岡京に蟄居していた時に、物語を書き始めている。

おうようは見たまひしことなり とある。この たまひ は、謙譲を表す。物語の内容は、自分が体験した恋愛の記述だったのである。業平は最後の妻であった歌人の伊勢に遺言を残した。私の人生の終わりは近い。私の死後、少し時間が経ってから、私が書いたということを隠して、この物語を世間に広めなさい。その翌年に業平は死去したというのである。

伊勢は後に宇多天皇の寵愛を受ける。業平が書き残した物語には、伊勢に関する内容も混じっていた。それで天皇を憚り、自分が登場する場面を消し、かわりに自分に無関係な女性を書き加えて世間に広めた。世間では伊勢が書いた物語だと受け取られ、伊勢が書いた物語、「伊勢物語」と呼ばれるようになったと言うのである。

この説は先ほど言ったように歴史的には成立しない。けれども注目すべき点がある。

業平は自分が経験した恋愛を日記のように書き残したという点である。「伊勢物語」には何人もの后との密通など、業平本人でなければ知りえない、秘密の恋愛が書かれている。そうしてそこには強いリアリティが感じられる。業平本人が自分の恋愛体験を物語風に書き示していたという伝説が、それなりに説得力がある。「源氏物語」と並び称される「狭衣物語」も「伊勢物語」のことを「在五中将の日記」と呼んでいる。

 

所で「和歌知顕集」はさらに興味深いことを書き記している。死去した夫の遺品整理をしていて「伊勢物語」を見つけた妻の伊勢は、それを改作したうえで世間に広めたのであるが、その後暫くしてもう一つ別の「伊勢物語」を見つけた。何と各段の配列順序が大きく違っている。最初の見つけた方が推敲の途中にある中間形態であり、後から見つけた方が完成形態であったというのである。初冠(ういこうぶり)から始まる、現在わたしたちが読んでいる「伊勢物語」の配列であった。最初の方では、現在 第六十九段 

狩の使 が冒頭に置かれていたというのである。

 

これが「伊勢物語」のタイトルについての三番目の説を生み出す。「和歌知顕集」を読む。

朗読③

在原業平、勅として東へ下りたりし時、かの伊勢の斎宮安子親王を犯し奉りしこと、ひたの不思議にて上皇にも聞こえず、末代にも有難かるべきことなれば、このことをよのなかの期待に書きとめんとて、書きし物語なれば、その本意について「伊勢物語」とは申すなり。

 解説

業平は天皇の勅使として伊勢の国に下向した時に、伊勢神宮に奉仕する斎宮と男女の仲になった。前代未聞の斎宮とのことを書きたくて業平は物語を書き始めた。それで「伊勢物語」というようになったというのである。

それなりの説得力はある。けれども「和歌知顕集」でこの説を聞いた人が、既に反論している。

いや、私はその説には納得できない。「伊勢物語」の中で最も大切なもの、「伊勢物語」の本意は二条の后と呼ばれた藤原高子(たかいこ)との恋愛ではないかという反論である。これまた説得力がある。

 

そこで「和歌知顕集」四番目の説を持ち出す。

伊勢や日向の物語 という ことわざ、慣用句のような物が当時は存在していた。それを短く縮めて「伊勢物語」というようになったというのである。伊勢は現在の三重県、日向は現在の宮崎県。その最初の部分を読む。

朗読④

伊勢や日向ということは、さる因縁あり。その故は、昔推古天皇の御時にや、日向国に佐伯つねもと というものありけり。病をして寿命なりければ四十一にて死するなり。また同じ世にありて、伊勢国の五十鈴川の(ほとり)に住みける ほんやのよしかず というモノり。ある時道を行きけるに災いをなす荒ぶる神にあいて四十一歳。同じ年、同じ月、同じ日、同じ時に死しぬ。

さてかの二人、前世の宿執(しゅくしゅう)やありけん、同道して閻魔(えんま)王宮に至りぬ。今一人はあらざるほか荒ぶる神の仇にあいてきたけり。これは、はや娑婆に返すべし とあれければ、起請人札をささげて曰く、この召人(めしうど)は一人は日向也とも、今は上毛のものなり。その故は、娑婆に残る(むくろ)、灰に焼き失いつる故なり。魂入れ返すものなきといえば、閻魔王のたまう。この召人、かれこれ同じ年同じ生なり。早く

伊勢のものの魂を上毛のものの骸にいれ、娑婆に返すべしと言いけれど、起請人その時、ほんやのよしかず を傍らの連れていきぬ。

さて後、佐伯つねもと が娑婆に残り留めるからに、ほんやのよしかず の魂をいれかえしけり。

 解説

「和歌知顕集」が「伊勢や日向の物語」について説明している冒頭部分であった。日向国に佐伯つねもと という人がいた。41歳で定まっている寿命が尽き死亡した。一方伊勢国に ほんやのよしかず という人がいて、これまた41歳。

同じ日の同じ時刻に死亡した。こちらは寿命が残っていたのに、道で災いをもたらす荒ぶる神に出会って命を落とした。

二人の男は同時に死んだので、閻魔大王の前に同時に召し出された。閻魔大王は日向国の男は寿命が尽きたので問題はないが、伊勢国の男はまだ寿命が残っている。すぐに魂を体に戻すように言う。すると 起請人 が 現れた。

死んだ人がどれだけ良いこと悪いことを下かを記録するのが仕事である。ぐしょう人 ともいう。

伊勢国の男の体はすでに火葬されているという。閻魔大王は ならば伊勢国の男の魂を、まだ火葬されていない日向国の男の体に戻すようにと命じた。朗読したのはここまでである。こののち話また複雑になる。

日向国の男は土葬されていたが死んで四日目に蘇る。家族は大喜びであるが、男は自分は伊勢国の生まれで御前たちなど知らんと言う。この話を伝え聞いた伊勢国の男の家族は日向国を訪れた。日向国に辿り着いた伊勢国の家族を見た男は、自分はお前たちの夫であり、父親だという。それでも伊勢国の家族は、男の顔つきが整然と全く違っているのでしっくりこない。日向国の家族は男の心は変わっていても、顔かたちが夫、父親なので、これまた不思議な気持ちがしていた。心は伊勢国の男、体は日向の男である人物は、伊勢と日向の二つの家族の夫、父親として皆で一緒に暮らすようになった。

これで「伊勢や日向の物語」である。伊勢の家族にとっても、日向の家族にとっても、蘇った男がだれであるかは、結局分からなかったのであった。真実なのにわけのわからないもの、これが「伊勢や

日向の物語」ということわざの意味であるというのである。

 

ここから「伊勢物語」の話になる。「伊勢物語」は実際にあった出来事を描いているが、全部で125段の配列を見ると、もっと前にあるべき話が前の方にあったり、今あることを昔のことのように書いていたりする。まるで真偽不明の「伊勢や日向の物語」のようだというわけで、「伊勢物語」というタイトルがつけられたというのである。

荒唐無稽な説なので細川幽斎の「和歌知顕集」では言及すらされていない。けれども室町時代にはかなり知られた話である。

 

室町時代に正徹という歌人がいた。書かれてから百年ほど、忘れられていた「徒然草」のすばらしさを発見した人である。

正徹の弟子が連歌師の(しん)(けい)、その弟子が宗祇(そうぎ)。宗祇は古今伝授を東常(とうのつね)(より)より初めて受けた人物で、それが細川幽斎、北村季吟へ受け継がれる。この正徹に「正徹物語」という作品がある。和歌について述べた評論書である。そこに興味深い文章がある。

朗読⑤

人が吉野山はいづれの国ぞと尋ねはべらば、ただ花には吉野山、紅葉は竜田を詠むことと思いつきて詠みはべるばかりにて、伊勢国やらん日向国やらん知らずと答えはべるべきなり。いづれの国という才覚は覚えて用なきことなり。覚えんとせねども自ずと覚えらるれば、吉野は大和と知るなり。

 解説

正徹の言葉は大胆である。吉野山は花の名所である。雪の名所でもある。歌を詠む人が他の人から、歌によく詠まれる吉野山は実際にはどこにあるのですかと質問されたら、次のように答えるのが良い。「さあ、私もよく知りません。ただ花の歌を詠むだったら吉野山、紅葉の歌を詠むのだったら

竜田山や竜田川を詠むのだとしかしらないのです。」

実際には伊勢国にあるのでしょうか、日向国にあるのでしょうか。私は何も知りません。吉野山がどこの国にあるのかということは、覚えていても何の役にも立たない。覚えようとしなくても、自然と吉野山は花の名所で大和国にあることは分かってくる。

歌枕は実際の風景ではなく、言葉が作り上げるイメ-ジなのである。この正徹の言葉であるがなぜ伊勢と日向が出ているのであろうか。それは正徹が「伊勢や日向の物語」ということわざの存在を知っていたからである。正徹はこのことわざをあやふやなこと、とりとめのないこと として理解していたと思われる。

 

「伊勢物語」は在原業平の実人生をもとにしているが、辻褄の合わない箇所が沢山ある。けれども

本物の感動を与える真実の物語である。同じように和歌を空想や想像で詠んだとしても、その根底に作者の心の真実が存在すれば、感動的な和歌になりうると正徹は考えている。

 

戦後の古典文学研究に大きな足跡を残したのが、池田亀鑑(きかん)である。彼は「伊勢や日向の物語」ということわざから、「伊勢物語」というタイトルがつけられたという「和歌知顕集」の説を詳しく紹介している。池田亀鑑(きかん)には、自分にはこの説を支持する気持ちはないが「和歌知顕集」という鎌倉時代の古い書物の中に、この説が載っているのに注意を喚起したいと述べている。正しい説ではないとしても、わが国の文学史に影響を与えた事実は無視し得ないというのである。講師も同感する立場である

 

ここまで「伊勢物語」というタイトルの由来について様々な説を紹介してきた。

第一に、男女の恋愛を描いた物語だとする説。

第二に、業平の書き残した自伝的な恋愛記録を、妻であった歌人の伊勢が完成させて世に広めたという説。

第三に、現在は第六十九段にある、伊勢斎宮が登場する段が、かつては伊勢物語の冒頭に位置していたとする説。

第四に、「伊勢や日向の物語」ということわざを縮めて「伊勢物語」と名付けたという説。

室町時代までに存在していたのは、この四つである。

 

「伊勢物語」の本文を校訂し、百二十五段の配列を確定して現代まで伝えたのは、藤原定家である。その定家は「伊勢物語」というタイトルはどのように考えていたのか。細川幽斎は「伊勢物語闕疑抄」の中で、定家が書き記した「伊勢物語」の写本の奥書の文章を紹介している。つまり 書き入れ の文章を紹介している。

朗読⑥

そもそも「伊勢物語」の根源、故人の説々同じからず。あるいは曰く、在原の中将の時期と云々。これによってけんたい ひきょう との言葉とをあり。

解説

けんたい ひきょう の言葉が分かりにくい。現代語に訳す。

そもそも「伊勢物語」がどういう事情で成立したかについては、昔から理解の一致を見ず、様々な説が対立している。

その説の一つに、「伊勢物語」は在原業平が自ら書き記した文章がもとになっていると言われることがある。業平が自分で書いたからこそ、業平のことを見た目の良くない老人だと謙遜したり、笑いの対象としたりする文章が見受けられるのである。

「伊勢物語」の最も重要な部分には、業平本人の手が入っているという説である。

 

次に進む。定家の考えである。

朗読⑦

 

また曰く、伊勢が作なり。あるいは曰く、少年十三、いとけのうしてこれを書く。かの家の文体に似たり、ゆえに「伊勢物語」と号す

 解説

また女性歌人の伊勢が13歳で「伊勢物語」を書いたという説もある。伊勢が詠んだ歌を集めた「伊勢集」という歌集の冒頭部分が印象的である。そこには いづれの御時(おおんとき)にかありけん 大御息所と聞こえける みつもりに 大和に親ある人侍いけり とある。

「伊勢物語」は在原業平のことを書くのに敢えて 昔男ありけり とほのめかして書いてある。「伊勢集」と「伊勢物語」の文体は確かに似ている。だから「伊勢物語」の作者は伊勢であると言われるのである。

 

「伊勢集」の いづれの御時(おおんとき)にかありけん という書き出しは、「源氏物語」の書き出しとして有名な

いづれの御時(おおんとき)にか女御更衣あまた・・・・ とおなじである。但し定家は、業平と伊勢が夫婦だったので業平自身の恋愛日記を夫である業平の没後に、伊勢が書き直して世間に広めたという説には触れていない

「伊勢物語」の第百十四段は、光孝天皇が仁和二年 886年 に 芹河に行幸したことを記しているが、業平はその6年前に死去している。だから「伊勢物語」のすべてが、業平の書いた文章ではありえないというのである。定家はさらに言う。

業平の没後の事が含まれているので、業平自作説は不利である。かといって業平の以外の人物が

作者であると考えれば、業平が自分自身を謙遜したり卑下して笑いの対象としていることを説明できない。また業平でなければ知り得ない秘密の恋愛の心理描写は説明できない。伊勢の個人歌集の

表現と「伊勢物語」の文体が似ていると言っても、それは伊勢が「伊勢物語」を書いたことの証明にはならない。伊勢が「伊勢物語」を書いたから文体が似たのではなく、後の時代の人が伊勢の文体に

似せて「伊勢物語」を書いた可能性もないではない。

 

確かにそのとおりである。それでは定家はどのように結論したのであろうか。定家の奥書の、作者に関する結論部分を細川幽斎の解説で読む。

朗読⑧

この物語を定家卿の心には伊勢が書きたりというが,心寄せなりと聞こえけり。伊勢が書かずばなんぞ「伊勢物語」といわんやとなり。

 解説

幽歳が「伊勢物語」というタイトルの由来について、定家の考えを推測している部分である。意味を

説明しよう。この伊勢物語は歌人の伊勢が書いた作品であるという考えに、定家卿は心の中で賛成していたのであろう。伊勢が書かなかったとしたら、どうして「伊勢物語」と呼んだりするだろうか。伊勢が書いたから「伊勢物語」と呼ばれるのである。

 

幽斎は業平と伊勢が夫婦であったとする説は無視している。けれども「伊勢物語」は伊勢が書いた

物語であるという大枠は認めようとしていた。正確には 心寄せなり とある。「伊勢物語」の作者が

伊勢であると断定するわけではない。業平が自分で書いたという説と伊勢が説と比較すると、伊勢が書いた可能性が高いと判断したということである。

 

「伊勢物語」を読んでいると、登場人物に行動に対して、別の人物が批評している場面がある。例えば第三十二段である。

朗読⑨

むかし、ものいひける女に、年ごろありて、

いにしへの しづのをだまき くりかへし 昔を今に なすよしもがな

といへりけれど、なにとも思はずやありけむ

 解説

詳しい解説はすべての段を順に進めていく際に説明するので今は簡単にする。

むかし、ものいひける女に 昔 男と女が愛しあったことがあった。その後二人は別れた。それから何年か経って、男は女に歌をよこした。

 いにしへの しづのをだまき くりかへし 昔を今に なすよしもがな古今集にも載っている歌。

をだまき は布を織るために紡いだ麻糸を、何度も繰り返し巻きつけて玉のようにしたもの。この 

をだまき  のように時間の流れを昔のように巻き戻して、あなたとの関係を復活させたい。あなたはどうですかと男が女の心を探ったのである。

といへりけれど、なにとも思はずやありけむ。

男は女に歌を送ったけれども、女の方は何とも思わなかったのであろうか。この後、女が男に返事したのか、しなかったのかはっきりとは書いてない。だから二人がよりを戻したかどうか、定かではない。この なにとも思はずやありけむ。 に注目しよう。女の気持ちを推測しているのは誰なのか。

現在は登場人物の二人の男女のそれからについて、この物語の語り手が読者に判断を委ねた文章であると説明する。

 

細川幽斎の伊勢物語闕疑抄」はこのことについて次のように述べている。

朗読⑩

女は何とも思わずありけむ。また思いてはありけむの心なり。これは作者の批判の詞なるべし。

解説

細川幽斎の考えを訳しておく。女は男からもう一度やり直しませんかと誘われて、まったく心が動かなかったのだろうか。それとも、この歌の力でここが動いたのであろうか。この文章は、この物語の作者のコメントである。

批判 とあるのは批評とか論評の意味である。否定ではない。これは作者の批判の詞なるべし。

伊勢物語闕疑抄」 には作者のコメント と書いてあった。ここでも作者には限りなく伊勢のイメージがあった。

細川幽斎が守り伝えたのは古今伝授の教えである。この古今伝授は藤原定家の教えが源流である。定家の子孫である二条家が伝えてきた教えを復活させたのが古今伝授である。最初の古今伝授は宗祇が受けた。細川幽斎宗祇の流れである。その宗祇が「伊勢物語」を講義した記録がある。弟子の牡丹花肖柏 が記録した「肖聞(しょうもん)」抄」がある。

 

「肖聞抄」では「伊勢物語」第三十二段について次のように説明している。

朗読⑪

伊勢が詞なり。この人々の行方死なねば、かく書けるにや。

 解説

本文の なにとも思はずやありけむ の部分は、伊勢が書いた言葉である。この男女がその後どうなったかわからないので、伊勢はこのように書いたのであろう。宗祇は「伊勢物語」の作者を伊勢と考えてこのように講義したのである。

今回は「伊勢物語」というタイトルをめぐって、様々な説を説明してきた。現在では、紀貫之が作者であるという説まで出てきているが、歴史的には伊勢が作者だから「伊勢物語」というのだとする考えが最も有力である。「伊勢物語」は江戸時代を代表する古典のベストセラ-の一つであった。その結果、

「伊勢物語」は生きた古典として読み続けられた。

「伊勢物語」というタイトル自体も本歌取りされた。

江戸時代の初期には仁勢(にせ)物語」という仮名草子が書かれている。「伊勢物語」全百二十五段のすべての表現を逐一、パロディに仕立てている。読んで楽しい作品である。昔 男ありけり という書き出しを、おかし男ありけり ともじっている。作者不明だが才能豊かなものである。

また江戸時代の後期には、秋田秋成が 癇癖談(くせものがたり) という本を書いている。やはり「伊勢物語」のパロディである。
「伊勢物語」「仁勢(にせ)物語」「癇癖談(くせものがたり)」と、タイトル自体が良く似た発音である。「伊勢物語」のタイトルをパロディにした作品は現代にもいくつかある。ソ毛ほど「伊勢物語」の生命力は強いのである。

「コメント」

 

名前には意識しなかったが、すごい名作だったのだ。単なる遊び人の物語ではなかったのだ。