250524⑧「第ニ段(西の京)、第三段(ひじき藻)

今回は「伊勢物語」の第二段 西の京 と、第三段のひじき藻 を話す。最初に現在の時点での解釈を話し、次に解釈に至るまでに長い試行錯誤の歴史があったことを話す。文学の複合遺跡を掘り下げながら、この物語の古びない魅力を追う。第二段 西の京 を読む。

朗読①

むかし、男ありけり。奈良の京ははなれ、この京は人の家まだ定まらざりける時に、西の京に女ありけり。その女、世人(よひと)にはまされけり。その人、かたちよりは心なむまさりたりける。ひとりのみもあらざりけらし。それをかのまめ男、うち物語らひて、かへり来て、いかが思ひけむ、時は三月(やよい)のついたち、雨そほふるにやりける。

 おきもせず 寝もせで夜を 明かしては 春のものとて ながめくらしつ

 解説

現在の解釈を説明する。

むかし、 今は昔 と同じ物語の書き出しの決まりである。男ありけり。ある男がいた。この段にある

 おきもせず 寝もせで夜を 明かしては 春のものとて ながめくらしつ の歌は、「古今和歌集」に入っている。作者名は在原業平朝臣である。けれども「伊勢物語」を読む時には、業平とは特定しない立場が主流である。

奈良の京ははなれ、この京は人の家まだ定まらざりける時に 桓武天皇が都を奈良の平城京から移そうと、長岡京の造営を始めたのが784年。そして平安京に都が経ったのが794年である。業平が誕生したのは、それから31年後の825年。

この京は人の家まだ定まらざりける時に とあるので、都移りの混乱が続き、新しい都の造営がなされていた時期である。

西の京に女ありけり。 平安京は碁盤の目のように規則正しく作られている。中央に南北に通っている朱雀大路、大路の東側が左京、西側が右京である。西の京はこの右京の事である。天皇から見て右側が右京で平安京の西半分である。西の京には湿地帯が多く開発が遅れた。そこに女が住んでいたのである。この女の名前は特定しないのが現在の解釈である。

その女、世人(よひと)にはまされけり。 世人 は世間の人、普通の人という意味である。西の京に住んでいる女は、普通の人以上に優れていた。何が優れていたのであろうか。語り手は読者に期待させて

から、種明かしをする。

その人、かたちよりは心なむまさりたりける。その女は容貌も優れていたが、それ以上に心が優れていた。

ひとりのみもあらざりけらし。 その女には主人公の 男 以外にも通ってくる男がいたようであった。

それをかのまめ男、うち物語らひて、 ほかの男が通っている女を、主人公の 男 は好きになった。まめ男  まめ は、真面目という意味である。かの とあるが、この段は「伊勢物語」の第二段なので、この前には第一段があるだけである。第一段の  は春日の里 で狩りをしていて、偶然目に

した美しい姉妹に恋歌を贈るような男である。だからまめ というのは道徳的にまじめであるというのではない。自分の心に忠実である、自分の恋に誠実であるということである。自分の心に忠実であろうとする男は、時として人妻や后と過ちを犯す。でもそれは純然たる恋心の発露である。

本居宣長ならば、もののあはれ を知っている人間の振る舞いだと高く評価するであろう。

うち物語らひて、 とあるので、男と女は直接に会って、沢山話を交わし契りも交わした。

かへり来て、いかが思ひけむ、 挿入句である。語り手が男の心を推測している。男は女と契った

のち、どんなに思ったのであろうか。

時は三月(やよい)のついたち、 何年のことかは、特定できない。三月(やよい) は晩春である。

雨そほふるにやりける。 そほふる は、しとしと、しょぼしょぼと細かい雨が降り続く春雨である。

おきもせず 寝もせで夜を 明かしては 春のものとて ながめくらしつ 男が女に贈った歌で

ある。

ながめ は晩春に降る長雨と、ぼんやり物思いにふける ながめ との掛詞である。

小野小町の 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに という歌に、ながめ の部分に同じ掛詞が使われている。男の歌の意味を取る。

あなたの家から帰った私の精神状態は自分でも不思議である。意識がはっきりしていて起きているのではない。かといって、眠り込んでわけでもない。そういうぼんやりした状態で夜を迎えた。昼間はしとしと降り続く春の長雨を、春につきものの情景とぼんやり眺めて家で一日を過ごしている。春のもの とあるが、俳句でも春の長雨、春霖(しゅんりん)は春の季語である。

先ほども言ったがこの歌は「古今和歌集」に入っている。

 

「古今和歌集」は四季すなわち春夏秋冬と恋が二つの柱である。恋の歌は一から五まで五巻ある。

そのうちの恋三の巻頭を飾っている。

朗読②

やよひのついたちより しのびに人にものらいひてのちに、雨のそぼふりけるによみてつかはしける 在原業平朝臣

 おきもせず ねもせでよるを あかしては 春の物とて ながめくらしつ

 解説

ものらいひて  ら は、複数を意味するが、ものをいひて とする本文もある。「伊勢物語」では

西の京に住む女について、形より心が優れているという描写があったが、「古今和歌集」では省略されて、業平の思いだけが語られている。「伊勢物語」の方が男に女の魅力が読者に伝わる。

男の理性を失わせる女の魅力である。

 

現在の解釈を確認した所で、「伊勢物語」第二段の解釈の歴史を振り返る。まず、最も古い注釈書である、「和歌知顕集」。鎌倉時代の成立である。5W1Hを特定する点に特徴がある。

朗読③

この西の京の女と申すは、左大臣良房の大臣(おとど)の女、(そめ)殿(どの)(きさき)なり。このことは承和九年二月のことと見えたるなり。その時、業平十八、女十七、東宮十六歳なり。このことは承和九年二月二十二日の夜、初めて会いりしことを書けるなるべし

 解説

(そめ)殿(どの)(きさき) は、(もん)(とく)天皇の后である藤原明子(あきらけいこ)である。承和九年 は、842年。確かに業平は18歳で、東宮皇太子であった文徳天皇は16歳であった。但し藤原明子(あきらけいこ)は、史実では14歳か15歳。承和九年 は嵯峨上皇が崩御し、(もん)(とく)天皇が東宮となったとしである。この年には二条后・藤原高子(たかいこ)も誕生している。二月二十二日 の出来事としているが、「伊勢物語」の本文には 時は三月(やよい)のついたち とあるので、食い違っている。「和歌知顕集」は后、正確にはと東宮の后と愛し合う物語を、この第二段から読み取ったのである。まめ男 については、まめやかな人であるとする説もあるが、間男のことであると述べている。高貴な后と密通する男というイメージである。

 

二番目に古い「冷泉家流伊勢物語抄」に進む。これも鎌倉時代の成立である。

人名と時代の特定が「和歌知顕集」とは違っている。 は無論、業平である。西の京 に住む女は、清和天皇の后である二条后・藤原高子(たかいこ)であるという。時は貞観13年、871年の3月1日であるとする。けれどもこの年、史実の業平は47歳なので、信用できない設定である。但し「冷泉家流伊勢物語抄」のユニークな点は、

春のものとて ながめくらしつ の解釈である。当時高子は東宮であった清和天皇の后である。

東宮は東宮の他に、春宮とも書く。春のもの は、東宮である後の清和天皇の后を指しているというのである。まめ男 は高子が東宮の后と知りながら密通する間男という解釈である。

朗読④

春のものとて ながめる とは、東宮の女御を遠よそに見るといへり。東宮の女御を心に掛けて、

ただ他所にて忍ぶことを、春のものとて ながめくらしつ とかりそめに寄せたるなり。

 解説

臣下である男が、高貴な后と密通するドラマを、「和歌知顕集」と「冷泉家流伊勢物語抄」は読み取った。第一段の初恋の後は后との密通である。室町時代に入る。応仁の乱の頃、合理主義者・一条兼良が書いた「愚見抄」が「古今和歌集」を根拠にして男の名前を業平とする。女の名は分からない。

まめ男 は「源氏物語」の用例に照らし合わせ、真なる心を持った男だと褒めていると解釈する。好色の人を真面目とほめるのは、恋愛に関して 真があるからだという。ここで間男説は否定している。

 

連歌師の宗祇は、文章の背景にある登場人物の心を、精緻に読み取る鑑賞力に優れていた。宗祇の説を弟子の島田宗長がき聞き記した「宗長聞書」を読む。

朗読⑤

世人(よひと) には優れり。姿は 世人(よひと) にまさる。心はまたその姿よりまた優れはべることなり。業平、心を惑わせはべるの(ことわり)なり。まめ男、人の妻などに心かけはべらむは、大方(おおかた)のこころざしなどにてあるべからず。まことのこころざし深くなるべし。さて、まめ男と云えり。この段などはいかにも心をつけて思はるべし。

 解説

宗祇の解釈である。女は姿も優れていたが、心はそれ以上に素晴らしかった。人妻を好きになるのは、普通の心の持ち主ではなくよほどの恋心の持ち主である。宗祇はその背景を詳しく読み取っている。

 

そして細川幽斎の闕疑抄(けつぎしょう)」になる。関ヶ原の戦の直前である。細川幽斎は、男は業平とするが女には名を当てはめていない。世人(よひと) は世の人というように、間に の を入れて発音すべきだという。

また、そほふる は そぼふる と発音すべきと述べている。この辺りの読み癖は現在では踏襲されていない。細川幽斎は業平の歌を絶賛した藤原定家のコメントを紹介している。

「歌人が恋の歌を詠もうとするときには、自分という平凡な人間を離れて、業平がこの歌を詠んだ時の心に没入し、業平に成りきって、自分の恋の歌を詠むといへり。それほど業平の恋の歌は純粋であったし、それが まめ と表現されているのだ。」

 

さて業平の歌には激しい恋心が秘められているが、歌の表面上は春雨を詠んだ季節の歌の体裁である。この点を江戸時代の北村季吟は見逃さなかった。北村季吟の「伊勢物語拾穂抄(じゅうすいしょう)」は、紫式部はこの第二段に影響を受けて「源氏物語」を書いたと推測している。例えば夕顔の巻で、光源氏は自分の素性正体を隠すために、普段とは筆跡を変えて夕顔に歌を贈っている。また若菜下の巻では、柏木が普段の筆跡で女三宮に恋の歌を贈った手紙を、光源氏は発見して柏木の未熟な心を非難している。「伊勢物語」第二段で本当は恋の歌なのに、表面上は恋の歌と見えない歌を業平が詠んだのは、万一この歌が人の目に触れても大丈夫なように配慮したからである。そのことを紫式部は印象深く記憶して、「源氏物語」に生かした。

 

それでは第三段 ひじき藻 に進む。

朗読⑥

むかし、男ありけり。懸想(けそう)じける女のもとに、ひじき藻といふものをやるとて、

 思ひあらば むぐらの宿に 寝もしなむ ひじきものには 袖をしつつも

二条の后の、まだ帝にも仕うまつりたまはで、ただ人にておはしましける時のことなり。

 解説

この第三段は物語の語り手が、女の実名は二条后・藤原高子であると明言している。まずは現在の解釈を説明する。

名前の種明かしは最後になされているので、それ以前はある男と、ある女の物語として読める。

むかし、男ありけり。 むかし、ある男がいた。

懸想(けそう)じける女のもとに、ひじき藻といふものをやるとて、 その男はある女を好きになった。ひじき藻 は海草。

 思ひあらば むぐらの宿に 寝もしなむ ひじきものには 袖をしつつも 男の歌である。むぐらの宿 は、やえむぐらが生い茂る荒れ果てた家。初句の  思ひあらば は、もしも女の側に男を

思う気持ちがあるのなら という意味になる。

 寝もしなむ 寝ることも出来るでしょう。主語は男でも女でも出来る。男と女両方を主語としているとも考えられる。

あなたに私への深い愛があれば、私たちはどんな貧しい生活にも耐えられる。あなたも裏切ることはないでしょう。荒れ果てた家で暮らしていても、私たちがこのまま生きられるのならどんなに幸福でしょう。

ひじきものには 袖をしつつも  眠る時に体の下に敷く夜具を ひしきもの という。この ひしきもの という言葉の中に、男が女に贈った海草の ひじき藻 が掛詞になって含まれている。こういう和歌の技法を、物の名 あるいは物名 という。

言葉遊びの歌に深い真心を込めるのは、業平の得意とする所である。この歌は ひしきものには 袖をしつつも と発音するのが良いかも知れないが ひじきものには と発音することが多い。

二条の后の、まだ帝にも仕うまつりたまはで、ただ人にておはしましける時のことなり。

ここからは作者あるいは語り手の解説である。今語ったばかりのエピソ-ドの女は、実は二条后であるというのである。ならば男は在原業平である。二人は愛し合っていた。但し后がまだ清和天皇に入内する以前で、普通の身分であった頃の出来事であるという。藤原高子が清和天皇の女御となったのは、貞観8年 866年。時に業平 42歳、高子 25歳。業平と高子のスキャンダルは文学作品や説話でしばしば語られており有名である。但し事実として現実に二人が愛しあっていたという確証は

存在しない。

 

所で、第三段と同じ歌が「大和物語」第六十一段にもある。朗読をする。

朗読⑦ 百六十一 小塩の山 の一部

在中将、二条の后の宮、まだ、帝にも仕うまつりたまはで、ただ人におはしましける世に、よばひたてまつりける時、ひじきといふ物をおこせて、かくなむ、 

 思ひあらば むぐらの宿に 寝もしなむ ひじき物には 袖をしつつも 

となむのたまへりける。返しを人なむ忘れにける。

 解説

百六十一段の前半である。「大和物語」では最初から男と女の実名が、業平と二条后であると明記している。

返しを人なむ忘れにける。 とあるのが面白い。二条后からの返事もあったはずだが、それは伝わっていないということである。二人は相思相愛の関係なので、后は必ず返事したはずである。けれども ひじきも という言葉を織り込んで、女が返しの歌を作るのは至難の業だと思う。

 

それでは第三段がどのように解釈されてきたかの話に移る。「和歌知顕集」を最初に取り上げる。

鎌倉時代の注釈書である。ひじき藻 については、海の中に杉の葉のような形をした海草があると

説明している。愛する人と暮らすのであれば、むぐら が生い茂る家であっても、心は全く寂しくない。逆にどんなに立派な屋敷で暮らしていても、恋心が報われないのは苦しく悲しいと解説している。

「冷泉家流伊勢物語抄」を見てみよう。業平はひじき藻 を鉢に入れて后に贈ったと説明している。紙に包んだものではないという解釈である。次に室町時代の合理主義者一条兼良の「愚見抄」である。

一条兼良は二条后・藤原高子の人生を紹介した後で、この第三段 ひじき藻 彼女が貞観八年に

清和天皇の女御となる以前のことだと説明している。

 思ひあらば という部分について一条兼良は、女を深く愛する気持ちが男にあるのならば、貧しい家に一人で寝ていても満足だという理解としているようである。但しこの解釈はその後に、受け継がれていないように思われる。古今伝授の源流に位置するのが、連歌師の宗祇である。宗祇は  

思ひあらば という部分についてどのように解釈していたのであろうか。これほどまでに自分の思いが苦しいのであれば、豪華な邸宅にいても何の甲斐もない。あばら家であっても、苦しい思いなどせずに、あなたと二人で暮らすのがずっと良いという風に解釈している。思ひ を男と女の愛を成就できない絶望感、苦しい思いと取るのである。后が相手なので自由な恋をすることが出来ず、苦しい思いに駆られるのである。

 

さらに最後の種明かしの部分についての、宗祇の解釈を読んでおく。弟子の牡丹花肖柏が書き留めた「肖聞抄(しょうもんしょう)」の朗読をする。

朗読⑧

二条の后のまだ帝にも、伊勢がかける言葉なるべし。業平の所業を助けて、只人(ただひと)にての時にかけると云々。また女御以前のことにもやはべらん。

 解説

宗祇の説であった。宗祇は、夫である業平が書き残した日記を業平死後に発見した伊勢が、内容を変更しつつ推敲して、世に広めたとする論に立っている。最後の種明かしは語り手のコメントだと、

現代では解釈されているが、宗祇は女性歌人・伊勢の言葉であるというのである。夫の業平が生前に、天皇の后と深い仲になっていたのでは、夫の好色な所業、振る舞いを悪く言う人が殆どだろう。

そのように心配した伊勢は、業平との恋があったのは后がまだ入内する前なので、道徳的問題はないと、亡き夫を庇ったのである。

 

それでは細川幽斎の闕疑抄(けつぎしょう)」に進む。

この段で登場する女性の実名が二条后であると明示されている理由について細川幽斎は、「業平、名誉な好色なればなるべし」と推測している。業平は恋多き男であった。その中でも最も名誉であるのが、二条后との恋であると位置づけているのである。

細川幽斎は、 思ひあらば むぐらの宿に 寝もしなむ ひじきものには 袖をしつつも 

の歌の背後に万葉集の歌があると言っている。闕疑抄(けつぎしょう)」が挙げている万葉集の二首を読む。

朗読⑨

 玉敷ける 家も何せむ 八重むぐら (おお)へる宿も 妹としあれば  万葉集巻11

 なにせんに 玉の(うてな)も 八重むぐら はへらむ宿に ふたりこそ寝め

 解説

玉敷ける 家も何せむ 八重むぐら (おお)へる小屋も 妹としあれば  万葉集巻11

 美しい玉を敷き詰めた大邸宅であっても、自分ひとりで暮らすとしたら、住んでいてまことに味気ない。それより八重むぐら が一面に生い茂っている粗末な家であっても、愛する女性と一緒に暮らすのであれば、どんなに幸せであろう。

 なにせんに 玉の(うてな)も 八重むぐら はへらむ宿に ふたりこそ寝め 古今和歌集六帖

これは万葉集ではなく、古今和歌集六帖にある歌である。豪華な屋敷で一人で暮らしても何になるだろうか。それよりも八重むぐら が茂っている貧しい家で愛する女性と仲良く生きるのであれば、これに過ぎることはない。

 

私が興味深く思うのは、細川幽斎が引用している歌が、「源氏物語」の世界と響きあっているという事実である。夕顔の巻である。光源氏は五条あたりの庶民のむさ苦しい家を見る。その中で夕顔が隠れ住んでいる家に関心を持った。その場面を読む。

 朗読⑩

すこしさし覗きたまへれば、(かど)(しどみ)のやうなる、押し上げたる、見入れのほどなく、ものはかなき住まひを、あはれに、「何処(いづこ)かさして」と思ほしなせば、玉の(うてな)も同ことなり。

 解説

ここに 玉の(うてな)も同ことなり。 とある。闕疑抄(けつぎしょう)」が引用していた歌 

 なにせんに 玉の(うてな)も 八重むぐら はへらむ宿に ふたりこそ寝め が引用されている。

「源氏物語」の注釈書はそのことを指摘している。夕顔の巻を江戸時代の北村季吟が読み取った

解釈で現代語訳しておく。

「光君は六条御息所との秘密にしておきたい恋のことでの外出なので、牛車を格式張らない車に乗っていた。身分を明かさないために、先払いもさせていない。この車に乗っているのが私であることは誰にも分らないと気を許した光君は興味深い家をチラッと覗き込む。門は蔀の様なものを上に押し上げている。中の様子は見えるが奥行きは殆どない。作りもちょうどもいかにも粗末である。余りの貧しさに光君は哀れを感じだが、ふと考えなおした。古今和歌集に 世の中は いづれかさして わがならむ 行きとまるをぞ 宿とさだむる 雑歌 下 38番という歌がある。

また古今和歌集六帖には なにせんに 玉の台も やえむぐら 覆へる小屋も 妹としあれば という歌もある。この二つの歌を心に思い浮かべるならば、今住んでいる二条院は豪奢な玉の台である。今、目にしている路上の家は、やえむぐら の茂る宿ではある。但しこの無常な人生で人が暮らすのは、仮の宿という点では同じことだ。大切なのは限りある人生を愛し合う男女が、二人で仲良く暮らせるかどうかである。この様に偶々目にしたことから、深い人生観を巡らすのが光君の人間性の素晴らしさである。」 北村季吟の「湖月抄」の解釈であった。

 

紫式部は「伊勢物語」第三段を読みながら、やえむぐら の歌を種として、夕顔の巻のアイディアを

紡ぎ出したのではないだろうか。北村季吟には「伊勢物語拾穂抄(しゅうすいしょう)」という本もある。季吟は業平の歌には、

  なにせんに 玉の(うてな)も 八重むぐら はへらむ宿に ふたりこそ寝め という歌が踏まえられていると解釈している。

業平は 玉の台 よりも むぐらの宿 で寝ようと歌っている。

 

面白いのはこの段が女の名前を二条后と明記している理由である。細川幽斎は、恋に生きた業平の名誉を称えるためであると説明していた。季吟はそれに反対している。この部分を朗読する。

朗読⑪

只人(ただうど)にておはします時と書きて、ほぼこの密通の罪を助くるように言ひて、その名をかく書き表す

こと、春秋の文公にて深き戒なり。この物語は七條后へ伊勢が書きて参らすとて、如何なる蜜々の

ことも世に隠れなくて、末代までもその浮名立ち申すことぞと知らせ参らせて、教戒しはべりしにや候ひけむ。

解説

北村季吟の考えである。季吟は「源氏物語」と同じように、「伊勢物語」を同じように教訓書、政道論として読んでいる。

作者が 只人(ただうど)にておはします時 と書いたのは、業平の罪を擁護するためではない。春秋の文公 は 春秋の筆法 ともいう。厳しい批評を加えることである。伊勢が亡き夫の恋の日記を書き直して広めたとする成立論を、季吟も信じている。伊勢は「伊勢物語」を、宇多天皇の女御である七條后藤原温子(おんし)に献上した。そして恋の過ちはどんなに隠そうとしても、末代まで言い伝えられるのだと、后を戒める教訓としたという。藤原温子(おんし)は関白基経の娘として生まれ、宇多天皇に入内。

「源氏物語」の世界を下敷きにしている時代を后として生き抜いたのが温子である。季吟の頭の中では、伊勢が「伊勢物語」を温子に献上したことと、紫式部が「源氏物語」を中宮彰子に献上したのを重ね合わせていたことだと思う。

業平の名誉の為ではなく、業平を反面教師として好色の戒めとする為に敢えて二条后の名前を明記したと季吟は考えたのである。「源氏物語」が中宮彰子を読者として設定した文章である様に、「伊勢物語」は藤原温子を読者としてものであるという理解である。

 

「コメント」

 

「万葉集」、「古今和歌集」、「伊勢物語」、「源氏物語」・・などとの関係が実に興味深い。