第130回 奈良学文化講座 平城京の政変 皇位継承の悲劇、揺れ動く王権
日時 平成25年6月8日(土)13時~16時30分
場所 よみうりホ-ル
講師 倉本 一宏 国際日本文化研究センタ-教授 総合研究大学院大学教授
「持統天皇の皇位継承思想-その破綻が生み出したもの」
瀧浪 貞子 京都女子大学名誉教授 「怪僧 道鏡、その功と罪」→記録省略
「日本には何故皇室が今もあるのか」
これは外国人と50歳以下の日本人の殆どが持つ疑問。持統天皇が天皇制とその皇位継承のあり方を作った。
「この国が世界に例のない国になった原因」
島国 米作 万葉仮名 実力のない人も天皇になれる体制・太上天皇制
「今の間の日本の現状」 これは全て持統の皇位継承方式から来ている。諸外国から見たら極めて奇異に映る。
・実力のないリ-ダ-を周囲で支える構図。→どこの組織でも見られる
・リ-ダ-引退後、会長・顧問・相談役として影響力を発揮
・リ-ダ-不在のぬるま湯集団、蛸壺社会。→激しい権力闘争がないため。真のリ-ダ-が育たない。
「天皇制の変革」 持統天皇の改革 皇統プラン
・従来は天皇崩御のあと、長期間の殯宮(もがりのみや)で死を悼む。この間、関係者で後継者を話し合う。
ここで争いが起き、以後の紛糾の種が播かれる。
・天武、持統天皇時にも後継者問題が発生。なぜならば天武天皇の即位は天智天皇の意に反しており、いわば
皇位簒奪者。この為天武天皇の崩御のあと、持統天皇は自分たちの皇統を正当化するために大苦労。また天智天皇、
天武天皇の皇子も多数存在した。
・結局有力候補は 天武・大田皇女の皇子「大津皇子」と天武・鸕野皇后(大田の皇女の妹)の皇子「草壁皇子」
大田皇女は早くに逝去。これが継承問題に影響。資格には母の素性が資格要件となる。
・鸕野皇后 後の持統天皇は息子の草壁皇子に皇位継承させようといろいろと画策。
最大のライバル「大津皇子」を川島皇子の密告で天武崩御の直後、謀反の罪で死罪とする。
・人物としては大津皇子は豪放磊落、文学的素養、健康も充分。草壁皇子は病弱で線が細い。
・ここで鸕野皇后は「国家の支配システムを作って、誰でも天皇になれる制度とした。皇太子を天皇生存時に決定し争いを回避。」自分は太上天皇となって影響力ほ発揮する。
・持統天皇の立場 ①天武天皇の皇后 ②天智天皇の娘 ③蘇我氏の血を濃く引く
この立場をその後の皇統にするべく計画。
「持統のプランの破綻」
・誤算は草壁皇子の早世。よってその子軽皇子を皇太子として、15歳で譲位(文武天皇として、自分は太上天皇となる) 聖武即位まで元明天皇(草壁皇子の妃)、元正天皇(草壁皇子の娘)で繋ぐ。
・文武天皇の妃は藤原不比等の娘(宮子)と、蘇我氏系の娘。しかし蘇我氏系の娘が生んだ子供たちは、藤原氏によって葬り去られる。残るは藤原氏の宮子が生んだ「首皇子(おびとおうじ) 後の聖武天皇」。
その間藤原氏は有力皇族長屋王と蘇我氏のつながる人々を粛清する。これで持統天皇プランは完全に破綻した。
・自分の血の続く天皇が続くのだが、持統天皇の狙いはやはり自分の出身の蘇我氏の隆盛だったのか。
(大津皇子)
天武と大田皇女(持統天皇の姉、大伯皇女の母)の子。文武に長じ、詩は当代有数とされ漢詩集「懐風藻」に多数。歌も万葉集に多数、恋の歌が多い。天武死後、持統天皇によって謀反として処刑された。
ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
あしひきの山のしづくに妹待つと 我立ち濡れぬ山のしづくに