第146回奈良学文化講座 「法隆寺 魅惑の仏像と聖徳太子」
講師 古市 晃 神戸大学大学院人文学研究科准教授 「聖徳太子の実像」
著書 「日本古代王権の支配論理」「聖徳太子をめぐる最新研究」他
小泉 恵英 九州国立博物館学芸部長 「百済観音の謎」
著書 「百済観音像」「ガンダ-ラ美術に見るカ-シャパ三兄弟の帰仏」他
日時 平成28年2月6日(土) 13:00~16:00
講演会場 よみうりホ-ル
「聖徳太子の実像」 古市 晃 神戸大学大学院人文学研究科准教授
○はじめに
ここ10年程、聖徳太子は実在の人ではないという説が有力になっている。戦前2回、戦後5回お札に登場し一万円札・5千円札に使われている。しかしその肖像は、後世の物で現実とは違うといわれる。この様に議論の多い
聖徳太子について見てみよう。
三つの視点から考える。
・名前の問題 上宮・豊聡耳・厩戸(ウマヤドではない)
・系譜上の問題 父 31代用明天皇 母 穴穂部間人
・蘇我氏との関係
○名前の問題 聖徳太子は没後の諡号で名前ではない
・皇族の名前の付け方には、二通りあって一つは住んでいる場所、もう一つは幼児期を育ててくれた人の名を取る
EX、 大泊瀬幼武尊(雄略天皇)→泊瀬の王宮があった。 大海人皇子(天武天皇)→乳母が海部族であった。
・日本書紀・古事記には「厩戸豊聡耳皇子」、「上宮厩戸皇子」とある
・「上宮」
用明天皇にとても可愛がられ、王宮の上殿に住んだので上宮厩戸豊聡耳皇子と呼んだ。「日本書紀」
・法隆寺金堂の釈迦如来像の光背銘文には「上宮法皇」とある。
・厩戸皇子の由来は、母(穴穂部間人皇女)が厩で出産したとの伝説があるが、これは後世に出来たもの。
飛鳥北の軽の地に厩坂=厩戸という地名があり、そこに王宮(厩坂宮)があり住んでいたからというのが、妥当
である。
軽の地とは、大和の「山田道」と「下ツ道」の交差する所。 例 軽皇子
・豊聡耳というのは、賢いという一般的な言い方。10人の話を一度に聞いたという故事も伝わっている。
○系譜上の問題
・母 穴穂部間人皇女は蘇我系、妻の蘇我刀自古女は蘇我馬子の娘、蘇我蝦夷の妹。 山背大兄王は息子。
・蘇我氏の婚姻政策の中にいる、蘇我系の皇族。皇位継承権がある。
・聖徳太子の子 山背大兄王は蘇我系の皇位継承権を持つが他に有力な蘇我系の皇位継承者がいる。
豊浦王、古人大兄王である。
・聖徳太子及びその子山背大兄王が唯一無二ではなかった。
○蘇我氏の位置づけ
蘇我氏は聖徳太子の子 山背大兄王への襲撃、馬子・蝦夷・入鹿と続く専横のイメージが、悪役の顔となっているが、実態は渡来人を重用した開明政策を取ったのである。
・王族との婚姻政策は継続し、権力基盤を固めて行く。
「コメント」
少しも聖徳太子の実像の話には入らず、名前の由来や蘇我氏の婚姻政策ばかり。タイトルとは違うのには失望。
講師のしゃべりたい話になってしまったのだ。でも、名前の由来、曽我系王族の系譜は、勉強になった。
「百済観音の謎」 小泉 恵英 九州国立博物館学芸部長
○はじめに
1988年の東博で、1997年のパリでの「百済観音」の展示会との関わりがあり、これがご縁となっている。
今の仕事はアジアの美術であるが、専門は奈良時代のである。百済観音のことは法隆寺の古い資料に出てこないことから、法隆寺にはなかったと言われている。
今日は、百済観音について七つのポイントから見て行く。
○いつから知られているか→不明。
・法隆寺の古い記録にはこの像に当たるものが見えないことや、作風の違いから、造像当初から法隆寺にあったもの
ではなく、後世、他の寺院から移されたものと思われる。いつ、どこの寺院から、いかなる事情により移されたかに
ついては諸説あるが、正確なことは不明である。
・一番古い記録は、元禄時代の「和州法隆寺堂社霊験幷仏菩薩数量等」に百済観音らしき話が出てくる。
「虚空蔵菩薩百済国より渡来。但天竺像也・・・・」観音ではなく、虚空蔵菩薩としている。
よって、法隆寺では百済観音のことを虚空蔵菩薩として扱っていた。
○どこから移されたのか→定説はない。
・元禄の記録では「インドで作られ、朝鮮経由で来た」とあって、日本で作られたものではないとしている。
・大正時代になって仏像研究が進み、「橘寺」から送られてきたという説が出てきた。根拠は不明。
橘寺は明日香村にあり、本尊は聖徳太子・如意輪観音で垂仁天皇の命で不老不死の果物を取に行った田道間守が
持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。橘寺の付近には聖徳太子誕生とされる場所があり、聖徳太子建立
七大寺の一つとされる。史実は不明。
・中宮寺からの移送説。14世紀に中宮寺荒廃による。
・元々法隆寺にあった説。法隆寺記録には、金銅仏しか、記録されていないという。
○百済観音の名前はいつから使われたのか→明治時代以降からの呼び方
呼び名の変遷
・台座のネ-ムプレ-トに「虚空蔵菩薩」とある。
・先述したが、法隆寺記録には「虚空蔵菩薩」とある。
・明治19年 岡倉天心・フェノロサが関わった時には「朝鮮風観音像」とある。
・明治25年 「韓式観音」
・明治30年 「観世音菩薩」百済作
・明治38年 法隆寺が、観音でなく虚空蔵菩薩とあると申請した。世間で観音と言っているので。
・学会では、水瓶を持っているので観音としたのであろう。
和辻哲郎の「古寺巡礼」、亀井勝一郎の「大和古寺風物詩」等の書物で、百済観音として紹介され有名になった。
・最終的な結論
明治44年に寺の土蔵から、この仏像の宝冠が発見され、その正面に阿弥陀仏の化仏があった。この事から寺側も、この仏像が観音菩薩であることを認めざるを得なくなった。これ以来、百済観音は宝冠を付けるようになった。
○百済観音の造形の特徴
(材質) クスノキ材で、乾漆仕上げ。金色ではなく、肌色。
(顔立ち) 丸みを帯びている。目は杏仁形。大きめの鼻。大きな耳。
杏仁形→仏像の眼の形式。杏仁とはアンズの種中肉のことで、その形をいい、飛鳥時代止利仏師の作った
仏像の眼が、上下瞼が同じ弧を描いているのを杏仁形という。この特徴は北魏に源を発している。アーモンドの眼。
(身長) 209Cmと長身、台座は70Cm。
(光背) 竹模様やパルメット唐草が付いており、「橘夫人念持仏」と同じ。これは制作年代推定に役立つ。
(側面観照) 夢殿の救世観音の様ないわゆる止利式の仏像とは異なっている。止利式は正面観照性が強く、側面観照
は考慮されていない。これに反して百済観音は側面観照がより自然になり、立体的な作りがなされている。
○どこで作られたのか
天竺(インド)、百済、日本で議論されてきたが、日本製であることは疑問の余地はない。
一つには、材質がクスノキであること。飛鳥時代の仏像は殆どクスノキであること、百済の仏像にはクスノキは
使われていない。
○様式の源流
・この像の作風の源流については、諸説あって定説を見ない。中国の南北朝時代の南朝の作風が影響したしたとする
説が古くからある一方、北斉・北周・隋とする説もある。
・法隆寺金堂の釈迦三尊、夢殿の救世観音の様ないわゆる止利式の仏像とは違う。止利式の仏像は、正面観照性が
強く、百済観音は側面観照性で立体的である。
・1996年中国山東省青州龍興寺で400体の北魏の仏像が発掘された。これらは百済観音に似ている。
・止利式とは、飛鳥文化に見られる止利仏師(鞍作鳥が作った仏像の様式。北魏様式の影響を受けて、アルカイック
スマイルや杏仁形の目などに特徴がある。
○いつ作られたのか
・記録では分からないので、法輪寺虚空蔵菩薩立像・中宮寺菩薩半跏像・法隆寺金堂四天王像・法隆寺金堂仏像など
に百済観音と近い造形を認め、制作時代を推定する。しかしそれぞれの制作時代が判然としないので難しい。
・結論でいうと天智朝末から天武朝末以前という事は言える。
「コメント」
こういう議論が、岡倉天心に見いだされて以降、ずっと続いて来たのだ。しかも結論が出ずに。今日の講座でも、結局
諸説あって定説なしとの言い方に終始した。歴史というのは、科学と違って具体的事実で論じていくことが困難なので
仕方ない事ではあろうが。我々は、そういう背景を理解し、飛鳥時代の人達の仏教への思いと、あの優美さを堪能すればいいのだろう。
新しく得た知識を元に、百済観音及びそのグル-プとされる諸仏をゆっくり見てみたい。