161013②「安元の大火~五大災厄 その一」

 

「現代語訳」

私が物事の道理を理解する様になった時から、四十年以上の年月を過ごしてきた間に、この世の不思議な出来事を

見る事が、段々と増えてきた。さる安元三年四月二十八日だったであろうか。 風が激しく吹いて、静かではなかった夜の午後8時頃のこと。都の東南から出火して、西北の方角に火が広がった。最終的には朱雀門、大極殿、大学寮、民部省

などまで火がうつって、一晩のうちに灰となってしまった。

火元は、樋口富小路あたりという事だ。舞人を泊まらせていた仮小屋から出火したのだそうだ。吹き乱れる風に煽られて、

あちこちに火がうつっていくと、まるで扇を広げたかのように火が末広がりになった。遠くの家は煙でむせび、近くの家は炎を地面に吹き付けたようになっている。空には灰が風で吹き上がっており、それが炎の光を照り映えてあたり一面が真っ赤になっている中に、風の勢いに逆らいきれずに吹きちぎれた炎が、まるで飛ぶように、一町も二町も超えては燃え

うつっていく。火事の最中にいる人たちは、どうして正気でいられるだろうか、いやいられるはずがない。ある人は煙に

むせて倒れふし、またある人は炎に目がくらんで、あっという間に死んでしまう。またある人は、体ひとつでやっとのことで逃げ出したものの、資材を持ち出すことができない。様々な貴重な財宝も、ことごとく灰になってしまった。その損害は

どれほどだっただろうか。この火事で、公卿の家が16棟焼けてしまった。まして、その他の焼けた家については数えて

知ることもできない。都全体の3分の1が被害にあったとのことだ。亡くなった人は数十人。馬や牛などはどれほど被害にあったのか、数え切れない。
人の営みはみな愚かな物であるが、その中でもこれ程危険な都の中に家を作り財産を費やして、神経をすり減らす事は、この上なく、する甲斐のないことである。

「解説」

・物事の道理を理解するように・・・・→逆算すると17才くらいの頃の事。方丈記を書いたのが58才。

 この頃、下鴨神社禰宜の父を亡くし衝撃を受ける。次の和歌を詠んでいる。若者の感傷たっぷり。

 二男であった長明は父の庇護が無くなり、将来の希望を失くしていた。

  「住みわびぬ、いざさは超えむ死出の山、さてだに親の跡をふむべく」

   →もう住んでいるのも嫌だ、死出の山を越えて親の後を追って行こう。

  「春しあれば今年も花は咲きにけり散るを押見氏人はいずらは」

   →春になって今年も桜の花は咲いた。でも花の散るのを惜しんでいた父は何処へ行ったのか。

・安元の大火   

  安元3年(1177年)、平安京で起きた大火。太郎焼亡と言われる。翌年の大火を次郎焼亡と言う。

  京の1/3が灰燼と化し、朱雀門・大極殿も。多大極殿は以後再建されず(天皇親政の形骸化もあり)

・朱雀門

  平城京・平安京の十二門の一つ、南面中央の正門。

・大極殿

  宮中の正殿。ここで天皇が政務を取る。大礼を行った。

・「玉葉集」 

  藤原兼実(九条兼実)の日記。鎌倉初期の様子を詳述。

・藤原兼実(九条兼実)

  平安末期、鎌倉初期の公家。九条家の祖。この大火の時右大臣で、詳細に記録している。

  源頼朝と親しく、月の輪関白と呼ばれた。

「コメント」

ボンボンの長明が、後ろ盾の父を亡くして、うろたえている。幼いころから恵まれてきただけに、少しの逆境に耐えられない?さてどうなっていくのか。