文学の世界「鴨長明と方丈記~波乱の生涯を追う」
講師 浅見 和彦(成蹊大学名誉教授)
161110⑥「歌人鴨の長明」
当時は後鳥羽院が宮中の主であった。この人は才能豊かで、政治家としても芸術家としても傑出していた。特に和歌には積極的に取り組み、勅撰集「新古今和歌集」。
院の主催でしばしば歌会が行われ、鴨長明も参加していた。
「鴨長明の和歌の発展段階」
・「千載和歌集」に入集
「おもひあまりうちぬるよひのまほろしも浪ちをわけてゆきかよひけり」
→恋しさのあまり、ふと眠り込んで見た宵の夢で、私のまぼろしも波を分けて行き、海の向うの
恋人のもとへ往き通うのだ。
・「百首歌」のトップ31人に入る
勅撰和歌集を出す時の基礎資料として主要な歌人に100首を単位として読ませるもの。
・和歌所の13人に入る
後鳥羽院に和歌所寄人を命じられる
後鳥羽院主導の和歌の世界で順調に、地位を高めていく。当時は藤原俊成・定家が主導的な
立場にいた。
「作品」 例
「夜もすがら一人み山の真木の葉にくもるもすめる有明の月」 新古今和歌集
→一晩中、一人深い山でマキの葉の向こうに、有明の月が浮かんでいて時々曇ったり晴れたり
するのだなあ。
この歌は、歌合せでトップスタ-定家に勝った歌である。判者(審判官)の俊成に、月を動的に
捉えているとして下線部分を褒められた。
「雲さそう天つ春風香るなり高間の山の花ざかりかも」
→雲を誘い寄せて空を吹く春風が、ほのぼのと薫っている。高間の山は今や桜の花盛り
だろうな。
「旅衣たつあかつきの別れよりしほれしはてや宮城野の露」
「大内の花見」 宮中の花見の意味
建仁3年(1203年)、紫宸殿での花見。(左近の桜)
和歌所の主要メンバ-での花見。歌は残っていない。
この頃が鴨長明の一番希望に燃えて幸福な時期。この後に様々な挫折が待っていた。
「コメント」
落ちぶれて乞食坊主的な境遇かと思っていたが、小さいながらも牛車のある家に住む。
又後鳥羽院はじめ有名な人々の交友もある。歌三昧の結構な身分だったのだ。そして歌の世界で順調に出世していく。少し意外。