文学の世界「鴨長明と方丈記~波乱の生涯を追う」
講師 浅見 和彦(成蹊大学名誉教授)
161201⑨「数寄人鴨長明」
前回は長明の方丈の庵について話した。解体可能で持ち運び自由。小さくて簡素な庵の伝統は、
後の茶室に取り入れられていく。また長明は数寄人であった。
数寄 言葉の元は「好き」である。
現在は「すうき」と読み、数奇な運命(予想もつかない、大きな変動のある)の様に使われる。
「すき」と読むと、熱心に、ひたすら打ち込むという意味となる。→好き
「長明の琵琶」
音楽好きな長明が庵に持ち込んだのが、琵琶と琴。特に琵琶を愛し名手でもあった。伏見の庵からは現在は埋め立てられて無くなって巨椋池が見えた。
大きさはかって芦ノ湖程度であったが、秀吉の頃より始まり昭和の干拓によって消滅した。
石清水八幡宮の展望台からは、現在でも池の規模を示す痕跡を見ることが出来る。この巨掠池の事を長明は方丈記で以下の様に言っている。
「もし、跡の白波と歌に詠まれたようにはかない世の中に身を寄せていることを思い出すような朝には、宇治川東岸の岡の屋に行き交う船をながめて沙弥満誓の歌を思い出し、もし桂に吹く風が葉を鳴ら夕べには、
白楽天の「琵琶行」の出だし「尋陽江頭夜客を送る」を思いやり、大宰府で亡くなった桂大納言源経信の行いと自らをなぞえらてみる。
もし余興あれば、しばしば松の葉の響きに雅楽の「秋風楽」を弾き、水の音に琵琶の秘曲「流泉」を
弾き鳴らす。芸はつたないものだが、人の耳をよろこばせるために弾いているのでもない。ひとり
調べ、ひとり詠じて、みづから心をやしなうばかりである。」
・跡の白波→「世の中を何に例えむ朝ぼらけ漕ぎ行く舟の跡の白波」 万葉集 沙弥満誓
・白楽天の漢詩「琵琶行」 友人を送りに行くと琵琶の音が聞こえてくるという、琵琶の名場面
・「秋風楽」「流泉」
長明が方丈の庵で弾いていたのは、名曲「秋風楽」「流泉」。琵琶には秘曲という思想が
あって、師匠の教えと許可があって初めて演奏できる。長明は以上の二曲は演奏しても
良いものであったが、許可されていない、
秘曲「啄木」を弾いて大問題となる。最後は後鳥羽院にまで届き、呼出を受ける。大事に
至らず済んだ様子。
「発心集に見る数寄のエピソ-ド」
発心集 長明著 仏教説話集
数寄天聴に及ぶ事
音楽家の市正時光と、茂光という人が、共に声を揃えて歌を歌いながら碁を打っていた。そこへ時の堀河天皇から
御呼び出しが有った。しかし二人は参内せずに歌いながら碁を打ち続けた。使者はお咎めを心配したが、天皇は
素晴らしいことだ、数寄人とはそうしたものだ。私も聞きに行きたいと仰った。
笛の名手「永秀法師」が親戚の石清水八幡宮別当の笛を無心したこと
別当がこの永秀に「何でも上げるのでおいでなさい」と言った。しかしいざ来るというと別当は法外な要求をするのではと心配した。しかし、永秀は筑紫で作られる漢竹の笛が一本欲しいという。別当はお安い御用と安心する。
永秀は、俗世には興味がなく笛のことばかりの数寄人であった。
ある琵琶奏者は、仏にお経を読むのではなく毎日、琵琶の演奏を手向けた。
長明は数寄に徹する人を尊敬していた。数寄人というのは人の交わりを好まないで、桜が咲く・散る・月が昇る・沈むという事に心を澄ませている人である。こういう人は世の中の濁り、俗世間の醜いことから遠い所に居る人で彼らは執着から解放されているのだという。数寄という振る舞いは、世俗的なことから距離を置いて、心を澄ます理想的な生活である。長明は月に遊ぶという人を尊敬し、心惹かれていた。
「コメント」
こんな心境からほど遠い所にいる身として、この心境は自己研鑽の結果なのか、生まれつきなのか聞いてみたい。
生まれつきなような気がしてならないが・・・・。