1704020③「大正期~ホトトギス黎明期と自由律が求めた真実の人生」

 

今日は明治から大正の俳句について。虚子が「ホトトギスに復帰した後の事、碧梧桐のラインから出てきた新しい感覚を持ったグル-プの事、この二つとも又違う流れを、三つ巴で話していく。

「虚子のホトトギスへの復帰」

子規曰く「季語があって五七五と字数が制限されている俳句はその内に滅びる。制約の為、表現の限界があるから。」しかし現実には、様々な変化の中で続いている。

●現代の句を紹介

 (ナスを焼く煙妖しや恋終わる)    柏柳 明子

 (白菜をきれいな水の過ぎてけり)  一瞬の水のきれいさに目を奪われている

 (寝冷えして花瓶のような体なり)   松本哲子 花瓶を自分の身体に見立てて女性らしい句。

この様な作品は俳句と言えば俳句。こういった詠み方を爆発的に広げたのが、大正時代に虚子が「ホトトギス」に復帰して作った(雑詠蘭)と呼ばれる投稿欄である。ここに色々なタイプの作品が出てきた。そして虚子は言う「平明にして余白のある俳句を鼓舞する。」そして「碧梧桐のいう新傾向俳句には反対、その作品は良くない。」虚子は小説家の夢も破れ、体調を崩し、目の前の俳句を黙々と

やるしかなくなったのである。→「ホトトギスは私の雑誌である」

「虚子の主張」

虚子の俳句論に若い人々が共感した。というより碧梧桐のいう「新傾向俳句論」は難解すぎて反発をされたというのが正しいのかも。季語を入れて緩やかな余白を持ち、何を読んでもいいという。今ならごく当たり前の考え方。何故かというと、江戸自体以来の俳諧宗匠と言われる人々は、テーマや題を決めて詠んでいたので。碧梧桐の難解で理屈の多い、何やら分かりにくい俳句に反発した人々は、「ホトトギス」に拠って自由な俳句を作ったのである。この主張に沿った大正初期の作品を紹介する。

()()息を破らじと踏む秋日かな)  渡辺水巴 人間が樹木に気を使っている

(高々と蝶越ゆる谷の深さかな)  原 石鼎   

(頂上や殊に野菊は吹かれおり)  飯田蛇笏

(かまど火カッとただ秋風の妻を見る)  妻を見ているだけだが、何か激しい情念を感じさせる。

雪解(ゆきげ)川名山削る響きかな) 前田 ()()  スケールの大きいが、どことなく不吉な予感がする。

初期の碧梧桐の(赤い椿白い椿と落ちにけり)のお茶漬けのようにサラサラとした作品と較べると、

脂ぎった洋食である。それに比べ、自分の情念や屈託、心情を叩きつけている。こういうのが俳句

だと信じた人々が「ホトトギス」に続々と集まり、盛り上がっていく。

「その頃の碧梧桐」

一方、碧梧桐の一派は分裂を重ねて、虚子との距離はドンドン離れて行く。

碧梧桐の理解者であり同調者であった荻原井泉水も碧梧桐と一緒に、新傾向俳句誌「層雲」を発刊。

しかし自然のリズムを尊重した無季自由律俳句を提唱した井泉水と意見を異にした碧梧桐が「層雲」を去る。

「荻原井泉水」  「層雲」 自由律俳句

荻原井泉水は、大正時代の文学者 武者小路実篤・志賀直哉などの白樺派の人達と共通した感覚を持っていて、個性を発揮して自然の命ずるままに自分の主張をした。俳句で言うと、自分のリズムに委ねるのであれば定形も季語もいらないとした。種田山頭火も加わる。この中から突如、異質な

存在が飛び出してくる。尾崎 放哉である。

「尾崎 (ほう)(さい)

種田山頭火と並んで、自由律俳句を代表する人。帝大出のエリ-トで風変わりな人であった。作品を紹介する。

(咳をしても一人)

(一日もの言わず朝の影射す)

(こんな良い月を一人で見て寝る)

(何もない机の引き出しをあけてみる)

(犬よちぎれるほど尾を振ってくれる)

人間関係が下手で酒好きで、社会生活がうまくいかなかった。「層雲」の人々が支援するが断って小豆島で一人で病没。自虐的に強がっていて、陰影のあるユ-モアが魅力である。甘え・開き直り・

孤独・・・。これが後の私達の知る自由律の俳句の例となる。

  この系列に繋がる現代の作品。

    (君に地平線があることを知る三月です)  福岡日向子(ひな)

出会いと別れがある三月。我々はこれを自由律俳句と言うのは、「層雲」の人々の歴史を知っているから。

大正時代に「ホトトギス」と全く違うスタイルで出てきた「層雲」の自由律俳句と言うのは興味深い。

碧梧桐は余り過激で自ら、袋小路に入ってしまったが、自由律を生み出したという事で、碧梧桐を

評価してもいいのではないか。

「その頃のホトトギス」  主婦層への誘い 女性俳人  帝大のエリ-トの参加

・女性俳人の出現

ホトトギスは有季定型を守っていた。虚子は情報力がありアンテナが鋭敏であったので、当時の

主婦に、文学の雰囲気への欲求があることを早くから気付いていた。現代教育を受けて、

何か自己表現欲求を持っている事を。小説ではなく、短歌でもなく、俳句はと勧誘した。

そして「ホトトギス」に女性投稿欄を作った。天才的女性俳人の誕生。

(花衣脱ぐやまつわる紐色々)  杉田ひさ女

花見の後のけだるさと。花見を思い出しつつ又、女性であることに満足している情景。色彩を感じ

させる。

・帝大でのエリ-ト

 虚子は次に帝大出のエリ-トに注目して、これを次の時代の現代俳句の人とした。飯田蛇笏・前田

 ()()等を発掘した後、彼らを俳句に誘い育てた。虚子は実作者としても優れていたが、経営者と

 しての才覚もあった。

この人たちが「ホトトギス」で切磋琢磨した後、大正末から昭和にかけて、近代感覚の作品を作って

いく。

「小説家の俳句」

全くこういう流れとは別に、大正時代の芥川龍之介、久保田万太郎・永井荷風と言った、小説で著名な人たちがいい俳句を作っていた。芥川龍之介は一時、「ホトトギス」に投稿していた。小説家の中では余技として俳句が流行っていた。

(アオガエルおのれもペンキ塗りたてか)  芥川龍之介  良い句かな?

大正時代の小説家の俳句趣味というのは、急速な近代社会の進展に、却って江戸情緒を求めようとしたのである。

 

「コメント」 面白かった。

動物の世界と同じで、変化しないものは滅びる。俳句も色々な人の葛藤の中で色々な歴史があるのだ。そしてリーダ-には時代を見る目が求められる。我説にしがみつき消えて行く人、

変化しながら人々の共感を得て生き延びて行く人。