210722④「神がなければ、すべてはゆるされている」

講師は15歳で、「罪と罰」でドストエフスキ-に出会い、17歳で、「カラマ-ゾフの兄弟」を読んで、ドストエフスキ-への興味が高まり、大学でドストエフスキ-研究会を立ち上げた。

しかし、現実には「白痴」「地下室の記録」を読んで、解散した。1968年の大学紛争の結果である。

その後はひたすらドストエフスキ-と共に、毎日を過ごしていた。大学三年の夏、50日かけてロシア語で、「罪と罰」読みとおした。卒業論文は、「悪の系譜」と題して、主に「悪霊」を中心に論じたが、

今思い返しても、余りにも稚拙過ぎて卒業後ドストエフスキ-を封印して、ドストエフスキ-文学の対極にある、ロシアの前衛芸術やスターリン時代の文化の研究に没頭していた。

「作者の中でのドストエフスキ-への回帰の切っ掛けは、ニュ-ヨ-クの9、11事件である。」

そんな私が再び、ドストエフスキ-への関心を持つきっかけは、20年前の9、11である。私はロンドンのホテルに居て繰り返し映し出される、ニュ-ヨ-クのビル崩壊を見ていた。

その中で言葉が湧いてきた。「神は死んだ」「体は死んだ」「僕らは神になった」。
そして神が存在するなら、決してこんな光景を見せることはしない。そんな風な思いから、こんな言葉が出てきたのであろう。しかし「体は死んだ」という言葉が出て来たのか、自分でも理解できなかった。

所が、その時ロンドンのホテルで、思いがけない連想が湧いてきた。

(スタブロ-ニンの告白)  「悪霊」 神は存在しない。

ドストエフスキ-の五大長編の一つ「悪霊」の一場面である。正確には、スタブロ-ニンの告白と呼ばれる一節である。
主人公スタブロ-ニんは、少女を凌辱して、その数日後自殺する少女を覗きに行く。その時の精神状態をこう告白する。

「私は長い事、隙間から覗いている。納屋の中は暗かった。だからといって、真っ暗ではない。遂に私は必要なものを見極めた。」

ではスタブロ-ニンがこの時見た、必要だったものは何だったのだろう。全ての物とは、神は存在しない、神は不在であるという確証だったのだ。

9、11の8年後の2009年の事。私は日本近代文学を牽引する作家の一人と、対談していた。その時、資料の画面に、航空機がビルに激突する場面が、ビルの内側からグラフィック化した映像が現れた。画面に見入るうちに、あの日ロンドンのホテルで、自分が何故「神は死んだ」と感じたか、直感のもつ意味が分かったような気がした。つまり、もしこの世界に神が存在し、それが善意ある神だったら、

現に私たちが見ている光景は起こらなかっただろう。

この光景は、善意ある神が存在しないからこそ、見る事の出来た光景、敢えて言うなら悪魔が自分一人の為に用意した光景なのだ。

ドイツの作家 レマルクが言ったとされる有名な言葉「一人の人間の死は悲劇だが、100万人の死は統計である」私は9、11の映像を再度見て、本格的にドストエフスキ-の研究をしようと考えた。大学卒業後、30年が経っていた。

(神の存在とドストエフスキ-)

さて19世紀のロシアに生まれたドストエフスキ-は、59年の生涯を通じて、9,11に匹敵する大規模な

惨禍に遭遇したことは無い。唯一、見聞できたのは、クリミヤ戦争である。両軍で20万人以上の戦死者が出た悲惨な戦争であった。

しかし、ドストエフスキ-は、死刑判決・流刑・国境警備隊勤務・・・個人的体験を介して、神の存在と不在を巡って問を発し続けている。

当初、ドストエフスキ-において、神の存在と不在をめぐる問題は、革命か神かの二者択一の形を

取っていた。

ロマノフ王朝の誕生以来、300年にわたる農奴制が続く中、ロシアの民衆を貧困と無知から救うのには、神か革命か、願わくば神による救い、ロシア正教による救いであって欲しい。
しかし、宗教界の堕落を見るにつけ、そこに望みを託せないことに苛立っている。しかも、前提になるはずの神の存在
そのものにさえ、疑っている。
当時彼は監獄から手紙に書いている。「私はこれまで、そして棺が閉じられるまで、不信と懐疑の

真っただ中にいる。

私にとっては、信じたいという渇望にどれ程、苦しんできたか。その渇望が心の中で強まれば強まる程、それと反対の答えが大きくなっていく」

ではドストエフスキ-はこの解き難い矛盾からの解決をどこに見出したのだろう。ドストエフスキ-に

とって、キリストの実存と言う観念であった。ドストエフスキ-にとって、キリストが実存したという信仰こそが全てであった。

彼は同じ手紙に、次の様にも書いている。「誰が私にキリストが真理の外にあることを証明し、事実

真理がキリストの外にあったとしても、私は真理と共にあるよりむしろ、キリストと共にあることを

願う。」

一つの光景を思い出して貰おう。19世紀後半のロシアの田舎町。カラマ-ゾフ一家の主、フョードルが酒の勢いで息子二人に哲学論を吹っかけている。「神は存在するか」

「イワンの考え方」 神はいない、悪魔もいない。いるのは悪魔に似せた人間なのだ。

これに対して次男のイワンはこう答える。「神はいない。不死も悪魔も存在しない」
続いて三男の修道僧アリョ-シャが答える。「神は存在する。不死も悪魔も。」二人の息子の答えを聞いた父親は次男のイワンに軍配を上げてこう言う。「どうやら、イワンの答えが真実らしい」と。ロシア正教徒であり修道院に寄進し、
三男アリョ-シャ修道僧に送り出している父親がである。無信仰の人と違わない。

父親と次男の信仰心の喪失は何故か。当時ロシアにはびこった拝金主義である。19世紀後半の農奴解放以後、近代化を急ぐロシアは拝金主義に満ち溢れていた。

しかし父親の心から、不安が取り除かれることは無い。悪魔の存在である。次男のイワンは父親の

不安を取り除く為に悪魔の存在を否定したのであったのだが、その彼が、「カラマ-ゾフの兄弟」の終わり近くで
遂に悪魔の出現を経験する。そしてイワンは弟アリョ-シャにこう言う。「悪魔が存在しないならつまり悪魔は人間が
作ったのだとしたら、人間の形に似せて作ったということだ。」

彼が言いたいことは、次のようなのではないか。

・この世を神が創造したと言うのは正しくない。

・キリストの愛なんてない。従って悪魔もいない。

しかし、イワンの言動を注意深く見ると、神の存在と不在という二つのものに翻弄されている。悪魔の存在は認めないが悪魔的な人間の存在は認めるのだ。即ち悪魔は人間であるという事である。

だとすると、悪魔はイワン自身であるかもしれない。私の隣人かも知れない。

「悪魔とは」

イワンの考える悪魔は、実は人間の中にある。人間に備わっている意識そのものが、悪魔なので

ある。

「神がなければ、全ては許される」

神が無いのだから、人間の全ての行為は許されているのだ。何でも有りなのだという現状認識。これが提示されたのは、「悪霊」に登場する建築技師キリーロフが面白いことを言う。彼の哲学の基本を成しているのは、死か恐怖を克服したものが、神になるという事である。彼は、誇らしげに叫ぶ。「もしも神が無ければ、僕が神なのだ。」

「神になれる人」 死の恐怖を克服できる人・自殺できる人

既に述べた9、11のビル崩壊を見ながら、私が感じたことも、これと似ている。そのキリーロフが、神の観念について語っている説明を読んでみる。「生命と言うのは、痛みだし、生命は恐怖だし。人間は不幸である。でも、今はもう痛みと恐怖ばかりである。今、人間が生命を愛しているのは、痛みと恐怖を愛しているからである。

今の所、まだ人間は人間になっていない。いずれ新しい人間が出てくる。幸福で誇り高い人間が。痛みと恐怖に、打ち勝つ人間が自ら神になるのである。」

神とは死の恐怖と痛みの事を言う。克服すべき対象が、痛みと恐怖であり、それらを克服した者が、神となるというのであれば、人間にとって最大の恐怖とも言える死の恐怖を克服したものが、神となるはずである。その証として、自殺できる人間が神になるという発想に、切り替わるはずである。事実、キリーロフは自らの死をもってしか、神を実現できないと考え、自殺を決行する。

ドストエフスキ-は、キリーロフの最期をすさまじくリアルに、かつ滑稽味を加えて描いている。その描写には、キリーロフへの愛情と、冷徹な第三者の目が同居している。そこはいかにも、ドストエフスキ-らしい。

ではキリーロフの哲学から、何が生まれているのか。事実、神に代わる新しい人間の誕生を宣言したキリーロフを、どの様な運命が待ち構えていたのだろうか。結果として、残されたものは無である。

しかし21世紀の現代に、キリ-ロフの思想を反映した事実がある。9、11の事件を仕組み、自らの命を捨てた人々がそうである。彼らには、アッラ-・アクバルが存在していた。彼らには、その唯一神に対するキリーロフ的冒涜、つまり神が無ければという前提そのものは、許されない。

しかし、痛みと恐怖に打ち勝つことの出来る人間が、神になるという思想の様式そのものが、自らのミッションを実現しようとする彼らの自意識を、甘くくすぐり、そして彼らのインスピレ-ションに導いた

可能性がある。

「トランスヒュ-マン・ポストヒュ-マン」

或いはキリーロフの思想に、現在におけるトランスヒュ-マン・ポストヒュ-マンの構想を見ることが

可能である。

トランスヒュ-マン・ポストヒュ-マン、これは超人間とも呼ばれ、新しい科学技術を求めて、人間の身体能力・認知能力を、飛躍的に進化させようとする思想である。超人間と呼ばれ、バイオテクノロジ-を制覇した、ごく少数の人間が支配した下では、人間の多くが無用者階級となり、アルゴリズム支配の下に置かれるであろう。アルゴリズムこそが、新しい神という事になるのかもしれない。人類を二つの不均等な部分に分化することが予想されている。

1/10が個人の自由と、残りの9/10に対する無制限の権利を獲得するということである。

「神のない世界=サルトル 実存主義」・社会主義→イワンの考え方

言葉を理解するうえで大きなヒントとなるのが、この言葉を実存主義の出発点とみなしたサルトルの言葉である。「積極的に果敢に、神なき世界に立て」 実存主義にとって全てが許されているという

前提こそ、理想的な事はない。

人間は自由意志の存在として、未来に向かって行くことが出来るからである。しかし、ドストエフスキ-は人間にとって、自由が如何に重荷であるかという現実を理解していた。

しかし、この問題については、今は触れず、いずれ触れることにする。

現在ロシアの作家ヴィクトル・エロフェ-エフが面白いことを云っている。

「神が無ければ、全てはゆるされる。しかし、その実全ては許されていない。ということは、神は存在しているという事だ」

そこで整理する。

神が存在しなければという条件には、二つの異なるレベルが示されている。一つは、キリスト教世界にあって、なお神の不在が意識された状況。
二つ目は非キリスト教世界ないしは、唯物論を奉じる世界に於ける神の不在が意識された状態。

ては物語の中で、実際に神のない世界を、イワンはどのように考え、思い描いていたのだろう。

神なき世界、端的に人間が一切の規範から解き放たれ、全てがその自由意志に委ねられている

世界である。
サルトル的状況である。イワンは、そこに希望と絶望の光を見出している。彼にとって、神の不在のイメ-ジは、
ロシアの言に直面している混沌と不可分である。逆の見方をすれば、ロシアの現実を念頭に置かなければ、イワンはもう少し楽天的になれたかもしれない。

では全てを許されるという答えに、混沌の次に来るポジティブな何かを想定することは無かったのか。

無論、社会主義であったことは言うまでもない。しかし、その結論は見えていた。
万人の平等どころか、
「悪霊」のシガリョフが導き出した圧倒的な二極化社会である。無神論者のイワンには、この神なき世界を確実に生きていく自信はあった。引用する。

「例え、人生が信じられなくなり、大切に女性にも、世の中の秩序にも幻滅して、それどころか、全てが無秩序で呪わしくて、ひょっとして、悪魔の混沌そのままだとまで、確信して、人は色々な恐怖に打ちのめされても、やっぱり俺は生きていたい。人生の大きな盃に、一旦唇をつけた以上、最後までこれを飲み干さない限り、手から離さない。」

そしてイワンは、この生きたいという無目的な願望こそが、「カラマ-ゾフの兄弟」に流れる生命力だという。イワンは父親の奔放ぶりを、念頭に置いているのは、間違いない。

イワンはカラマ-ゾフ家の血を肯定することよって、父親フョードルをも肯定している。カラマ-ゾフはどんな苦境の中でも、耐えていく力はある。これをイワンは、カラマ-ゾフの下劣な力と言い切る。
思うに、この言葉はまさに、人間の生命力の賛美という事が出来る。

 

「コメント」

 

苛烈な環境の住む人々ほど、強い生命力をもつ。古来からの真理。