230608⑩幸若舞曲「敦盛」:人間五十年

今回は幸若舞曲「敦盛」から 人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり という一言である。縮めて言えば 人生は短い。

 一般に 人間五十年 というのは誤解されている

人間五十年 というのは誤解されている事の多い言葉である。今回は内容的な誤解を正すことを

目的とする。

 幸若舞とは

その前にまずこれは元々どのような文学作品に載っている言葉なのかを話す。

此の言葉は幸若舞曲の「敦盛」という曲の一部である。幸若舞あるいは曲舞(くせまい)である。室町時代から戦国時代にかけて流行した芸能であった。日本の古典芸能で語りに合わせて舞を舞うというと、能を連想する人が多い。
実際に能と幸若舞は近い時代に生まれた、類似した芸能である。幸若舞は題材として武士や合戦を取り上げたものが多く、武士には受けたが、舞や語りが単調で次第に飽きられていく。能がプロの能楽師によって現代まで続いているのに対して、幸若舞は専門的な芸能者がいなくなった。福岡県みやま市瀬高町大江に、民俗芸能として地元の人が保存する芸能として残っているが、重要無形民俗芸能となっている。

内容的には平家物語や曽我物語或いは義経を描く判官物(ほうがんもの 義経を扱った文学)など、軍記物語に取材したものが多い。その中に「敦盛」がある。

幸若舞 「敦盛」 敦盛を討ち取る

熊谷次郎直実が平敦盛を心ならずも打ち取って、発心出家する物語である。元々は平家物語の一の谷合戦の時の話である。一の谷合戦というのは平家物語最大の合戦で、木曽義仲を討って都に入った源氏軍が、福原(神戸)まで戻ってきた平家を討った戦いである。その時源氏の一員として戦っていた熊谷直実は平敦盛を見つけ打ち取ろうとするが、敦盛の兜を取り、顔を見ると討てなくなってしまう。その理由は二つある。

一つは敦盛がとても優雅で美しかったから。もう一つは16~17歳くらいで自分の息子の小次郎直家と同じ位であった。

武士は領地を安堵し息子に譲るのを目的に戦っているので、息子をとても大事にした。合戦で直家が少し怪我をしただけで、とても心配したとある位である。そこでもし敦盛を殺してしまうと、その父はどんなに悲しむだろうと想像してしまった。

討てなくなってしまうが、その時は遅く周囲には源氏の軍勢が大勢いて、仕方なく泣く泣く敦盛を打ち取った。

  直実の出家

その後敦盛が腰にさした笛を見つけて、その優雅さに感動した直実は終には発心し、出家したという物語である。

実際にはその後いろいろと紆余曲折があった後ではあるが。

平家物語には色々なバージョンがあって、はっきり出家したと書く本とそうでない本もあるが、直実が出家して浄土宗の開祖・法然上人の下で念仏の信者になったことは事実である。直実の一生については様々な物語があるが、敦盛の話はその一つである。平家物語の異本の中では、幸若舞「敦盛」は敦盛-直実に関して詳しい物語を作り上げている。

直実は敦盛の父 平経盛と手紙のやり取りをするが、それを読み返しているうちに仏門への志を起こす。この世は常の住処ではない、水に映った月より儚いものである。今は栄華を誇っている者たちもやがて滅んでしまうという 言葉に続いて、熊谷直実の思いとして語られるのが次の一言である。

 今日の一言

人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり 一度生を享け 滅せぬもののあるべきか これを菩提の種と思ひ定めざらんは 口惜しかりき次第ぞ

 当時の寿命の考え方 50歳とは思っていない

これは有名な言葉であるが、昔は寿命が短かったから、人間の寿命は五十年だったという風に思っている人が多いが、そういうことを言っているのではない。当時人間の寿命が五十歳位だという認識はあったことは事実であるが、一般的には六十歳位だと考えられていた。例えば幸若舞の「満仲(まんじゅう)」→多田満仲=源満仲を描いている。この曲では満仲が寿命を僅か六十年といっている。

又「甲陽軍鑑(こうようぐんかん) 武田氏の戦略、戦術を記した軍学書 によれば、武田信玄は人間は六十歳といっている。所が平家物語巻六 清盛入道死去には 今年は六十四にぞなり給ふ。

老死(おいじに)といふべきにはあらねど と語っている。 だから当時はだれもが五十歳で死ぬとは思っていない。

 人間五十年の意味

では人間五十年というのはどういう意味か。この言葉の解釈で重要なのは、往生要集という平安時代の仏教書に 人間の五十年を以て四天王の一日一夜となる。その命五百歳なり とある。

これはどういうことかというと、まず人間世界の50年という時間は、四天王が住む天上世界ではたった一日一夜でしかない。天上界の一年というと、この365倍で 365×50=18250  で18250年分ということになる。しかも天上世界の寿命は500歳なのでその500倍ということになる。我々の単位でいうと900万年以上となる。大仏の周囲を守っている多聞天とか持国天とかの四天王は長生きである。

要するに我々の想像を超えた長生きであると言っている。つまりそもそも時間の流れ方が人間世界と天上世界とでは違う というのが色々な物語に出てくる。

例えば浦島太郎の物語では、浦島は竜宮城で3年だけ過ごしたつもりであったが、人間社会に戻ってきたら300年経っていたという。竜宮城の時間は我々の100倍である。それと同じ様に天上世界では我々世界と時間の流れが違っていて、寿命が途方もなく長いのである。

幸若舞の「敦盛」の場合、人間世界と比較する対象は 下天のうち 天上界である。我々人間の50年は天上では一日分にしかならない、短いものであるというのが人間五十年の本来の意味である。

 

往生要集 

比叡山横川(よかわ)の恵心寺に隠遁していた源信が寛和元年985年、浄土宗の観点より多くの仏教の経典や書物から、極楽往生に関する文章を集めた仏教書。

下天

天井に中でも一番劣っている天。上天もある。

 

 一言の意味

直実はこう思った。

「人間世界の50年は天上世界の一昼夜程度の短いものだ。ということは我々の人生は夢や幻の様に儚いものだ。一度この世界に生まれた者はすぐ終わりが来るのだ。だとすればこんな短い命にしがみついても仕方ない。私の様に辛い悲しい思いをした者には、それを仏道を志すきっかけに出来ないことは悔しいことである。仏道を志そう。」

こう考えた直実は法然上人の下で出家して、高野山に籠って修行して83歳で大往生した。立派な人であると結んでいる。

 この一言が有名になった理由 桶狭間の合戦

ここまでは本日の一言の典拠である幸若舞「敦盛」によって話してきた。しかしこの一言が有名になったのは、多くの人が若舞曲を知っているということではなくて、織田信長か桶狭間の合戦の直前に、

この一節を歌い舞ったという記事に拠っている。織田信長の伝記的書物というのは幾つかあるが、

現在最も信頼されているのは、信長の旧臣太田牛一が書いた「信長公記」である。この第一章に桶狭間のことが書いてある。永禄3年1560年駿河国の今川義元が、尾張領内に侵入したのを打ち取った戦いである。この合戦に対する歴史家の見方は、近年色々と変わってきた面もあって、かつては愚鈍な今川義元の大軍を信長が奇襲攻撃で打ち破ったと言われてきた。最近は義元はそんなに

愚鈍ではなく立派な大将であったし、織田の攻撃は必ずしも奇襲攻撃という訳でもなかったのでは

ないかともいわれている。

色々と今までと違った説明がなされるようになってきている。

いずれにせよ今川義元は有力な大名であったので、信長は出陣に際して相当な覚悟を強いられているはずである。

そんな合戦にいざ出陣するという時の信長の振舞いについて、信長公記を読んでみよう。

夜明け前に「織田方の鷲津、丸根の城を守っている佐久間大学、堀玄葉から今川勢が攻めかけてきた」という報告がなされる。いよいよ決戦である。その時信長はどうしたか。「すでに敵が攻めてきた。緊迫した状況の中で、信長は悠々として「敦盛」を謡いながら舞を舞った。人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり 一度生を享け 滅せぬもののあるべきか これを菩提の種と思ひ定めざらんは 口惜しかりき次第ぞ

ここで舞を止め、ほら貝を吹かせ、鎧兜を持ってこさせ、鎧を身に付けながら立ったまま食事をして、最後に兜を被って出陣した。とても印象的な場面である。

悠々と歌いながら舞を舞っていたかと思うと、急にほら貝を吹かせて、鎧兜を持ってこさせて、立ったまま食事をした。
そんなに急ぐなら、舞なんか舞っていないで準備をすればいいではないかなんて言ってはいけない。

信長は 人間50年 と歌いながら意識を戦いに集中させ、戦闘意欲を高めていたのである。それが極点に達してさあ行くぞとなった所で、一気に出陣したということなのである。

幸若舞「敦盛」の直実は、大事な残りの人生を仏道に懸けた。これは残りの人生の総てを来世に投資し、極楽浄土に生まれ変わることを期待したのである。

この信長の姿勢は、短い人生だからこそ、今この時を思い切って生きようと思う潔い覚悟が見える。どうせ短い人生なのだから、命を惜しむよりも思い切り戦って、それで駄目なら死ねばいいではないか。どうせいつかは死ぬのだから というわけである。

 例えば徒然草

徒然草137段に (つわもの)の 軍(いくさ)に出づるは 死に近きことを知りて 家をも忘れ 身をも忘る という言葉がある。

武士が戦場に出る時はいつ死ぬか分からない。死が間近にある事を知っているからこそ、自分の

家族の事も自分自身の事も忘れて、思い切り戦うのである。

 

この様に人生の短さ、死の近さを意識することも却って、目の前の生きることに集中するエネルギ-を産むこともあるのだと言うのが面白い所である。勿論、命は大事にすべきであるが、人間はいずれは死ぬのだということも、疑いのない事実である。限られた時間をどう生きるのか、そういう意味で死を意識するというのも有意義なことであるであるかもしれない。

 

「コメント」

大将は単に勇猛果敢なだけではなく、教養も無ければならないし、人間心理にも詳しくなければならない。思い切りも良くなくてはならない。まあそういう中で、運のいいのが最後に天下を取るのである。どれもないな。でも後世が都合よく書いたり、また書き換えたことはないのかな。