詩歌を楽しむ「馬のいる風景と恋」 慶応大学教授 藤原 茂樹
④140131 馬のいる風景と恋
日本在来馬の原郷は、モンゴル高原であるとされる。遺伝学的解析によれば、日本在来馬の起源は、古墳時代に家畜馬として、モンゴルから朝鮮半島(高句麗)を経由して九州に導入された体高130cm程の蒙古系馬にあるという。また、秦氏が生駒で遊牧したのが記録にある。次第に貴人が乗るようになる。 (生駒の語源は-駒が行く)
(在来種) 8種
道産子(北海道)・木曽馬(長野)・対州馬(対馬)・野間馬(愛媛)・御崎馬(宮崎 都井岬)・トカラ馬(沖縄)・宮古馬(沖縄)・与那国馬(沖縄)
「馬を題材とした歌」を中心に並べてみる。
(日並皇子の命の馬並めて御猟(みかり)立たせし時は来向かふ) 柿本人麻呂
日並皇子(草壁皇子)が馬を並べて出猟されたかつての時刻がもうすぐやって来る。そして同じように今度はその子である軽皇子(文武天皇)が出猟するのだ。草壁皇子が亡くなってから3年あまり、持統天皇は皇子の遺児、軽皇子を皇位継承者として印象づけようとしていた。
(馬並めて み吉野川を 見まく欲り うち越え来てぞ 瀧に遊びつる)
馬を並べて吉野川を見たいと来たよ、離宮のある宮滝まで。
(馬並めて多賀の山辺を白栲ににほはしたるは梅の花かも)
馬を並べて、手綱を手繰り寄せながら、多賀の山際を真っ白に彩るのは、美しき梅の花であることよ。
(秋風は 涼しくなりぬ 馬並めていざ野に行かな 萩の花見に)
大津皇子薨ぜし後に大伯皇女伊勢の斎宮より都に戻りし時作らす歌2首。弟の死を痛む悲痛な歌。大伯皇女は大津皇子の姉、早くに母をなくし姉弟と二人。父天智天皇の死後、謀反の罪で大津皇子は死刑。13歳で斎宮となって13年、大津皇子死後斎宮を解かれる。
(神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに) 大伯皇女
伊勢にでもいたほうがましなのに、どうして来てしまったのでしょう。あの方(大津皇子)はいないのに。
(見まく欲り我がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに) 大伯皇女
会いたいと思う君(大津皇子)ももういないというのに、どうして帰ってきたのでしょう。馬も疲れるというのに。
(衣手葦毛の馬のいなく声心あれかも常ゆ異に鳴く) 飼い主の死の時の馬の様子
葦毛の馬のいななく声。主を慕って悲しんでいるのであろうか。いつもとは違う声で鳴いていることよ
(今日もかも都なりせば見まく欲り西の御馬屋の外に立てらまし)
今日あたりでも、都にいるならばあなたに逢いたくて西の厩の外に佇んでいることでしょう。
人妻に恋して、佐渡に流された男の嘆きの歌。
以下は東歌。名も分からない歌い手だけど、情熱的で奔放である。東国の人々にとって歌は生活の必需品で生活のなかにあった。
(馬柵越し麦食む駒のはつはつに新肌触れし子ろし愛しも)
柵越しに馬が麦を食べるようにちらっとだけ触れたあの子の肌がいとおしい。
(あずの上に駒を繋ぎて危ほかど人妻子ろを息に我がする)
崩れた崖の上に大事な駒を繋いでいる様な危うい恋だけど、人妻を息の様に深く命懸けで愛するのだ。
万葉集に歌われている歌の数
(哺乳類) 馬(88)・鹿(63)・猪(15)
(鳥) ホトトギス(155)・雁(66)・ウグイス(54)