211021③「悲運の皇子に捧ぐ挽歌」

前回までの事を纏めておく。

第二回では、妻を悼む歌として天平11年に、最初の妻を亡くした時の挽歌が、大きな転機となった。

妻が亡くなった後、立秋を迎え、秋が深まっていく中で歌っている。更に妻が亡くなったことを、反芻しながら、季節、風物と、無常感とを結びつけて、時の過ぎる連作を作っている。これは家持の父・旅人も挽歌を連作している例がある。

その前に、旅人の友人・山上憶良が奉った歌には、挽歌と言われる連作の作品がある。更にその前には、柿本人麻呂の挽歌もある。これらはいずれも、連作である。家持は先人たちに繋がる形で連作を作って、やがて歌日誌の時代へと移っていく。

 

今日は「悲運の皇子に捧ぐ挽歌」ということで、亡妻挽歌と同じく、巻3にある、安積皇子に対する挽歌を読む。これは家持の転機となった作品の一つであると思う。

(聖武天皇の第二子  安積皇子の死去→家持の挽歌)

安積皇子は、聖武天皇の第二皇子でとして生まれるが、皇太子の基皇子が死亡したので、皇太子の有力候補となった。

しかし光明皇后を母に持つ、阿倍内親王(孝謙・称徳天皇)が立太子される。しかし安積皇子は天平16(744)に、恭仁京から難波京に行く途中に脚気で没した。これを悼んで、家持の挽歌を読む。

 

この人を語るには、皇位継承の歴史を話さねばならない。元々、当時の天皇位で、継承については明確でなかった。

有力な皇子の中で、豪族の支持が大きな力となっていた。皇位継承の争いは多くあった。

天武天皇、草壁皇子、大津皇子、持統天皇、→文武天皇、元明天皇、元正天皇→聖武天皇→孝謙天皇
壬申の乱で、兄天智天皇の遺児・大友皇子と争って勝利し、即位したのが。天武天皇は、皇太子を定めるに先立ち、吉野に皇子たちを集めて、争わない誓いを立てさせた。皇后との皇子である草壁皇子を皇太子に撰ぶ。

天武が没すると、皇后の姉の子・大津皇子の謀反が発覚し刑死。しかし草壁皇子は3年後に没。その代りに皇后が即位し、持統天皇となる。天武の遺児の一人・高市皇子が太政大臣となり、准皇太子となった。これは中継ぎで、草壁皇子の遺児・軽皇子(文武天皇)へと繋ぐもの。しかし、持統天皇位から苦労して文武天皇即位となったが、文武天皇は景雲4(707)25歳で没。文武没後、文武の遺児・首皇子を即位させるべく、元明天皇(草壁皇子の正妃)、元正天皇(軽皇子の姉、元明天皇の子)と中継ぎが又続き、聖武天皇即位となる。霊亀元年(724)

(聖武天皇)  安積皇子、阿倍内親王(孝謙天皇)

皇子が神亀4年藤原夫人(光明子)に誕生、即時皇太子とする。前代未聞のことである。しかし翌年に没。その年に県犬養広刀自が男子誕生・安積皇子。

藤原氏は奈良時代になり、強大な権力を持ち、別の氏の天皇を忌避した。729年に、藤原氏出身の光明氏立后に反対する長尾王の変(高市皇子の子)で排除。

その上に天平10(738)に光明氏から生まれた阿倍内親王を皇太子とする。初めての女性皇太子。この為、藤原氏に圧倒されていた古来よりの豪族大伴氏は、安積皇子に期待した。

(安積皇子)

阿倍内親王は女帝、子供ができないので、その次を期待していた。しかし17歳で没したので、期待は外れた。25才の家持にとって、ショックだったはずである。そして挽歌を二度作っている。

 

安積皇子薨ずる時、内舎人大友家持の作る歌六首

3-475

かけまくも あやに畏し 言はまくも 由々しきかも わが大君 皇子の命 万代に見したまはまし 大日本 恭仁の都は うち靡く 春さりぬれば 山辺には 花咲きををり 川瀬には 鮎子さ走り いや日異に 栄ゆる時に およづれの たはこととかも 白栲に 舎人よそひて 和束山 御輿立たして ひさかたの 天知らしぬれ 臥いまろび ひづた泣けども 為むすべもなし

心に掛けるのも恐れ多く、言葉に出すのも勿体ない、我が大君(安積皇子)は、萬代を治める筈だった、この大和の国の恭仁京。草木もうち靡く春になると、川には鮎が走りまわる。日増しに栄えていく折に、空言というのか。私達舎人は白装束で、和束山に御輿を立てて天界を支配することになった

皇子に対して、大地を転がり周り、涙を流したけれど、どうしようもない。

3476

我が大君 天知らさむと 思はねば おほにぞ見けむ 和束杣山

お亡くなりになるとは、思ってもいなかったので、他所の山と見ていただけの、和束山だったのに。

3-477

あしひきの 山さへ光り 咲く花の 散りぬるごとき 我が大君かも

光輝くように咲いていた山の花が、我が大君がお隠れになったので、一斉にに散ってしまったことよ

3-478

かけまくも あやにかしこし 我が大君 皇子の命の もののふの 八十伴の君を 召し集へ 率いひたまひ 朝狩に 鹿猪踏み起こし 夕狩りに鶉雉踏み立て 大御馬の 口抑えとめ 御心を 見し明らしめし 活道山 木立の茂に 咲く花も うつろひにけり 世間は かくのみならし ますらをの 心振り起こし 剣太刀 腰に取り佩き 梓弓 靫取り負ひて 天地と いや遠長に 万代に かくしもがもと 頼めりし 皇子の御門の 五月蠅なす 騒ぐ舎人は 白栲に衣取り着て帯なりし 笑ひ振舞ひ いや日異に変らふ見れば 悲しきろんも

心に掛けるのも恐れ多い我が君は、多くの強者を召し集めて、引き連れて朝の狩りに出で給い、鹿や猪を追い立てる。

又、大御馬の手綱を引いて辺りを眺め、御心を晴らされた。その活道山の木立の茂みに咲く花も、時移り色褪せて散っていく。世の中はこんなに儚いものか。ますらおの心を奮い立たせ、剣太刀を腰に帯び、弓を携え、箙を背負って、末永くお仕えしようと頼みにしていた皇子。その御殿に五月蠅い蠅のように仕えた舎人達。今では白装束で、喪に服す日々。

かっては笑い合っていた彼らだったが、日毎に変わっていくのを見ると悲しくて堪らない。

3-479

はしきかも 皇子の命のあり通ひ 見しし活地の 道は荒れにけり

愛おしい皇子様が通っておられた活道(いくぢ)の道は、すっかり荒れてしまった。

3-480

大伴の 名に負う靫帯びて 万代に 頼みし心 いづくか寄せむ

大伴の名に掛ける靫を負うて、末永く頼みにしていた皇子をなくして、我らはどこに心を寄せたらいいのか。

 

安積皇子の挽歌6首は、皇子への思いを述べると共に、一方では皇子を無視していた藤原氏への批判とも取れる。藤原氏の毒殺説もある。

 

長歌に共通しているのは、かけまくもあやにかしこし~。これは柿本人麻呂の高市皇子追悼歌と同じ作り。

そして途中に休みしし我が大君の天の下~

しかし人麻呂は高市皇子を、皇太子としては扱っていない。それに対して天武の皇子・草壁皇子には、次に皇位に着く人として歌っている。

 

家持は皇太子にこそなれなかった高市皇子の歌への挽歌を借りて、安積皇子を皇太子として歌っている。皇子の命と言う言葉を使っている。これは皇太子を指すのだ。

家持は安積皇子を皇太子にはならなかったたが、皇太子となるべき人として描いている。

 

「コメント」

大伴氏衰退の序章である。この講座は万葉集に引かれたが、家持から始まる大伴氏の斜陽の歴史なのだまさに万葉集は歴史本である。