230212⑥「父とむすこ・対立をはらむ親子」

今回は性を等しくする親子関係について考える。性の等しい関係には、古事記や伝承の中では父と息子の関係が強く表される。そこで父と息子との関係を取り上げ、どのように語られているかを考えてみる。

イザナキと三貴神

例によってイザナキの話から始めるが、死者の世界である黄泉の国から帰り、禊をして三柱の貴い神を生み出したイザナキの神話を見ると、アマテラスに対して極めて親密な態度を示していたイザナキだったが、三番目の子であるスサノオに対しては、素っ気ない感じで、「そなたは海原を治めよ」 と言い渡す。するとスサノオはそれを拒んで泣き騒ぐ。古事記の神話ではその場面を次のように語っている。

「それぞれの神は父神の仰せの通りお治めになる中で、スサノオだけは己が委ねられた国を治めようとはせずに、あごひげが長く伸びて胸のあたりまで垂れるほどになっても、いつまでも泣き騒いでいた。しかもその泣く様はと言うと、青々とした山は枯れ山のごとく泣き枯らしてしまい、河や海の水はスサノオの涙となって悉く泣き乾してしまうほど。このために、蠢きだした悪しき神々の声は、五月蠅(さばえ)のごとくに隅々まで満ち溢れ、あらゆるものの災いが悉くに起こった。そこでイザナキの大御神はスサノオに「いかなる訳があって、委ねた海原を治めもせずに、泣き騒いているのか」
と問うた。するとスサノオは答えて「私は、(はは)の国である根の堅洲の国に行くことを願っています。だからこうして泣いているのです」と答えた。これを聞いたイザナキはひどく怒って「そうであるならば、この国に住むことはならぬ」と言って、すぐさまスサノオを高天原から追放された。

 母のいる根の堅洲の国とは

(はは)という字であるが、これは生きている母と区別して死んだ母を表す。そして妣(はは)の国は根の堅洲の国と同格で同じ世界を指していると読める。ただ古事記を読む限りスサノオが父 イザナキが禊で鼻を洗った時に生まれたとされているので、生きているとか死んでいるとかは別に、母は存在しないと言わざるを得ない。

一方日本書紀では両神の交わりで、三人の貴神が生まれたと語っている。古事記ではイザナミは既に死んで、そして一人で黄泉の国から帰ってきたイザナキが、禊をして鼻を洗ってスサノオを生み出したとなっている。

だから(はは)の国を、イザナミのいる黄泉の国と見做す通説は成り立たないし、スサノオが妣(はは)の国に行きたいと言っている所から考えても、黄泉の国のことではないと考えるべきである。

 講師の考え方

古事記で語られる根の堅洲の国という所は、別の神話を見るとオオナムチ(大国主の幼名)が、紀国にいたオホヤビコの教えによって、木の俣を通って出かけたとされる異界(神の世界)で、根の堅洲の国だと語られていて、そこはスサノオが主として支配している世界だと語られている。前にも触れたが、根の堅洲の国というのは、もともとスサノオが支配していた根源の世界で、再生の力を秘めた海のかなたにある存在する世界であると考えている。

その世界がスサノオにとって泣きながら、母の国である根の堅洲の国だと呼ぶ世界だったのである。

元々の根源の世界に帰りたいと私は帰りたいと、スサノオは泣いているように見える。

 親子関係 アマテラスとスサノオの比較

親子関係に注目してみると、この神話にみられるスサノオに対するイザナキの態度は、前回話したアマテラスに対する態度とは全く違った印象を受ける。父イザナキはアマテラスに対しては首に掛けた首飾りをユラユラさせながら、高天原を治めるように命じて、首飾りをアマテラスに託す。まるで自分の後継を任命しているように見える。それに対してスサノオには何も渡すこともなく、如何にも残り物のような海原に行けと命じて、嫌だといったら出て行けと言って追放する。

二番目のツクヨミに対する態度も、スサノオに似ているが、ツクヨミの場合は、アマテラスとスサノオに挟まれている事もあって、話の定番として簡略にされているので、ここではひとまず置いておく。

イザナキの態度を見ると、どう見ても女神のアマテラスと男神のスサノオとは、向き合い方が違う。
その場面だけを読んで一般化する早とちり、拙速ではないかと批判されるかもしれないが、性の同じ男の子に対して、父親のイザナキは対立的な形で向き合っているように見える。この中の親子関係を見ると、性の違う親子、父とむすめ、母と息子と、性が等しい父と息子、母とむすめとでは、その描かれ方が全く逆立していて、前者は親和的、後者は対立的な関係として描かれる傾向がある。

 

ヤマトタケルの語られ方 古事記による 父と子の相克

そうした父と息子の関係が鮮明に浮かんでくる話があるので読む。それは古事記の天皇たちの物語が語られている中巻に出てくる。ヤマトタケルの物語である。ヤマトタケルのという人物は、中世に活躍した源義経とともに悲劇のヒ-ロ-として知られている人物だが、その時の形で存在したと考えることは出来ない。また日本書紀では、日本武尊という名で同じように語られているが、筋立てでもよく似て同じような形で描かれながら、父と息子との関係を見るのは全く別の人物のように見えている。ここでは古事記のヤマトタケルという人物と、父親であるオホタラシヒコ(大帯日子命・景行天皇)との親子関係について本文の展開に即して考える。

古事記に描かれているヤマトタケルの父との間は、どうにも埋めることのできない溝が生じて、最後まで修復することの出来ない父と子として語られていく。

この物語のそもそもの発端であるが、ヤマトタケルがまだ オウス という名であった少年時代の頃からの話として語られている。

父とオウスとの間には、兄である オオウス とが出てくる。父と兄との間にまずトラブルが生じる。

古事記の概略 オオウスの事件

「父天皇は美濃国に兄比売(えひめ)、弟比売(おとひめ)という美人がいると聞いて、オオウスに命じて召し上げさせた。ところがオオウスは召し上げた二人の比売を己のものとし、天皇には別の女を差し出し献上した。しかし天皇はそのことを知っていた。」

既に兄は成長し大人になっていることが分かる。父の代理として派遣された美濃国で父の命令で召し上げるはずの女性を自分のものにして、子供を産ませてしまう。これでこの事件をきっかけにして生じることになった弟オウスとの修復できない父と子の関係を描いていくためのプロロ-グだと見做すことが出来るからである。因みに日本書紀には今読んだエピソ-ドは描かれていないし、天皇とヤマトタケルとの関係もとても親密だったことが語られるばかりである。

古事記と日本書紀ではいろいろな話が少しずつ違うが、特にヤマトタケルの描き方には大きな違いがある。そして古事記では一人前に成長したオウスの兄に対して、まだ少年のオウスという形でオウスの位置をはっきりとここに示している。

一方のオオウスと父との関係からは、成長した息子が父親の競争相手になりうるということ、そして父はそこにある種の妬みとでもいえるような感情を抱いてしまうのだということを読み取ることが出来る。

ここで語られる兄のオオウスの事件、そこからいくばくかの時間が経過したのちに、話は次のように展開する。

古事記の概略 
天皇がオウスに言うには「お前の兄は朝夕の食事に出てこない。お前は 教え諭せ 」といった。それでも出てこないので、天皇は重ねてオウスに「まだ教え諭してないのか」と問うと、オウスは「すでに教え諭しました」というので更に「どのように教え諭したのか」と問うと、「朝、厠に入るのを待ち構えて、手足をバラバラにし、薦に包んで捨てました」と答えた。

ここで天皇は、ヤマトタケルの猛き情を恐れて「 西の方にクマソタケルが二人いる。これを討伐してこい」と命じた。

そして、オウスは叔母のヤマトヒメから御衣、御裳、剣を賜り出かけて行った。

 

その少年オウスがクマソタケル討伐に出かけることになったのは、兄であるオオウスを殺したためである。しかもその切っ掛けは、父の言葉 「泥疑(ねぎ) 教え諭せ」と言われたことである。父の命令は、兄が食事に出てこないことが理由であったのである。

このことをきっかけとしてオウスは兄 オオウスを殺してしまったのである。

この様に語りだすためには、先ほど読んだ兄 オオウス に対して、天皇が美濃の女を召し上げよといったのに、その女を自分で奪ってしまったという行為が必要で、その行為があったために、兄は父の前に顔を出せなくなった。

そこから物語は展開していく。

 兄オオウスの処置についての父とオウスの認識の違い

しかしオウスは少年なので父と兄の軋轢を意識できる立場にはない。そのような少年オウスに父は「泥疑(ねぎ)教え諭せ」と命じる。この場面は、泥疑(ねぎ) という言葉が三回出てくる。この泥疑(ねぎ)という言葉は、この場面を解釈する上で、大変重要なキ-ワ-ドになっている。他の話では出てこない言葉なので、よく分からないところがあるが、例えば辞書でネギ を引くと、神官をいう禰宜とか、慰労する意の「ねぎらう」という動詞の語幹の ネギ と共通すると見ていい。

天皇が我が子のオウスに対して「泥疑(ねぎ)教え諭せ」といったのは、食事の席に出てこない兄に対して、「懇ろに教えてやりなさい」といったと解釈する。
そしてオウスは父の言葉通りに、兄オオウスを、泥疑(ねぎ) したのだと考えられる。
命じられて何日かして、天皇に「まだ教えていないのか」と聞かれた時、オウスは「既に泥疑(ねぎ)つ」と答えている。ここには父と息子の間の言葉の行き違いが認められる。父が発した「泥疑(ねぎ)教え諭せ」→懇ろに教えてやりなさい」というニュアンスを、息子は受け取った泥疑(ねぎ)とはギャップが大きかった。そのことに互いに気付いていなかった。
それ故に父は「どの様に泥疑(ねぎ)たのか」と尋ねると、するとオウスは「夜明けに兄が厠に入った時、待ち捕らえて、
その手足をもぎ取って、薦に包んで投げ捨てた」と答える。いうまでもなくそれが、オウスが理解した泥疑(ねぎ) という行為だったのである。

 父はオウスの暴力性に気付いて怯える 父とむすこの対立

こうした暴力行為を引き出してしまうオウスの泥疑(ねぎ)について、神話研究者の 西郷信綱は、次のように説明している。「ねぐ は慰労するとか労わるとかの意味で、彼は兄の手足をもぎ取ったばかりかご丁寧にコモに包んで投げすてたのだ。父の言葉を逆手にとって、兄をこのように手厚く扱ったという訳である。」と言っている。

その結果、露わになったオウスの暴力性に気付いた父は、すっかり怯えてしまう。そこで九州への遠征、クマソタケル討伐という理由にかこつけて、息子オウスを追放したのである。

これはイザナキが泣き騒ぐスサノオを追い払ったのと同じ展開である。父と息子の対立というのは、

この様な形で一寸した行き違いから芽生えてきて、それが修復できない決定的な対立へと展開していく。このように父と息子の物語は語られていく。少年は誰でも横溢するエネルギ-を持っているもので、そう見ればオウスの行動も特別なものではなかったのではないか。物語だから特別にひどく描かれているが、ありうる行動である。しかし天皇である父にとっては、息子の有り余る力というのは自分の権力の座を危うくするものとして、追放の対象になってしまう。

その様に物語は描かれていく。

 オウスからヤマトタケルへ

この九州クマソタケル討伐に向かう段階では、オウスは父の心を知る由もない。というよりまだオウスは少年であった。何も分からない時に、父の命令に従って九州に行く。こののちクマソタケル討伐をして、そのクマソタケルからヤマトタケルの名を与えられる。これでオウスは、勇者のヤマトタケルへと成長する。都に戻ったヤマトタケルは、西での戦いを報告する。所がまさか息子が帰ってくるとは思っていなかった父は、ヤマトタケルの声を聴くや否や、今度は東の国々の遠征に出るように命じる。その場面と、その後の叔母 ヤマトヒメ とまた巡り会う。その場面は古事記では一つのクライマックスで

次のように語られている。

古事記要約

参上し報告をした。すると天皇はまた重ねて「東を征伐せよ」と命じる。統制の途中に、伊勢の大御神に参り、ヤマトヒメに「天皇は我に死ねと思っておられる。やっと西を征伐して帰ったのに、軍勢も給わずにすぐ東を征伐せよと命じられた。これは私に死ねと思っておられるのだ」と言うと、ヤマトヒメは草薙の剣、また何かあればこの御嚢(みふくろ)を開きなさい」と賜った。

 続いて東征に

天皇の再度の命令を聞いたヤマトタケルは天皇の前では口を閉ざしてしまう。もう二度と父と言葉を交わすことはない。そしてヤマトタケルは帰るあてのない東征に旅立っていく。悲劇の皇子の誕生である。そして父の前では発することのなかった言葉が叔母である伊勢大神に仕えていたヤマトヒメという叔母の前では自分の真情を吐露する。

それは父に見捨てられた息子の苦悩。もう父は自分のことは死ねと思っているのではないかといって泣く。

古事記のヤマトタケルの物語というのは、少年或いは青年にとって、父とはいかなる存在かということをとてもよく表している。

この物語から読めてくるのは、父と息子というのはしばしば対立的な関係として存在するということである。いつの時代でも、父と息子が本質的に抱え込む対立的関係性を、リアルにいつも通用する関係性を、形で語っているのではないか。

それに対して日本書紀は国家的な物語として語られているので、ヤマトタケルと父との関係はまさに、天皇と忠実な皇子という関係として描かれている。古事記はそういう関係ではなくて、ある種下世話な形で、父と息子の対立といったものが、描かれてしまう。そういう古事記の性格がこのヤマトタケルの物語を支えていると考えると、古事記という書物の性格も理解できる。

 

「コメント」

全体的にはまあ納得ではあるが、イザナキとスサノオの関係、黄泉の国と堅洲の国の違いがすっきりしない。

 

ヤマトタケルの話は成程である。日本書紀があり古事記がある古代日本の不思議を感じ、日本とは昔から表と裏のある社会だったと再認識。