230219⑦「兄弟姉妹アマテラスとスサノヲ」

古代の家族関係のまとめとして、神話の中で兄弟姉妹というのはどのように描かれているかを考える。まずアマテラスとスサノオの話をする。イザナキの禊によって生み出されたアマテラスとスサノオという神、その中でアマテラスはイザナキから高天原を治めるように言われて、スサノオは海原を治めるように言われる。スサノオは嫌だと言って泣き騒いでイザナキに追放される。その後のスサノオについてみると、古事記では次のように語られている。

古事記 要約 アマテラス とスサノオ スサノオが高天原に上る場面

さて父に追放されたスサノオはそれならばアマテラスに訳を申し上げてお暇をすると言って、すぐさま天に舞い上がる時に、山川はあまねく轟き渡り国や土は悉くに揺れた。するとアマテラスはその音を聞いて驚き恐れ、我が汝背(なせ)の命が上がってくるわけは、必ずや良い心からではないはずである。我が国を奪おうと思っていると言って、すぐさま結っていた髪を解き御角髪(みずら)に束ねて、男の姿になり左右の御角髪(みずら)にも頭に被った冠にも、また左右の手にも大きな勾玉を500個の玉飾りにして巻き付けて、その背中には千本入りの矢筒を背負い、500本入りの矢筒を付けて、
また左の肘には威力のある強い高々と音を立てる鞆を巻き付けて、左手で弓の腹を握りしめ、左の足は固い土を踏みしめて、その力の余りズブズブと太股までめり込ませ、その土を泡雪のように蹴散らかして、雄たけびを上げ、踏みしめながら待ち受けたと思うと いかなる訳で上りきたるや と問うた。

  兄弟姉妹の関係の反映 まずは親密な関係

この様に語られる。スサノオは挨拶するだけだと高天原に昇っていくが、アマテラスはそれを信用しない。この素晴らしい高天原を奪いに来たのではないかと疑う。この場面を見ると原文では、「我が汝背(なせ)のみことの上り来る故は」とあって、スサノオのことを 我が汝背(なせ) と呼んでいる。汝 は親愛の気持ちを表している。背 というのは兄弟姉妹の間で、女性から男性の兄弟を呼ぶ時の呼称である。年齢の上下という関係は、汝背という呼び方には含まれておらず、親愛なる男兄弟よ という意味である。それに対して、女姉妹のことを男の側から呼ぶ時には、ナニモ(親愛なる妹よ)という

言い方になる。だから 背 という言葉、妹 という呼び方は、歌などを見ると兄弟姉妹の間のだけではなく、恋人同士とか夫婦など親密な関係の中で用いられていた。我が背、我妹子。

そこから見ると先ほど読んだ神話の場面、アマテラスが上ってくるスサノオに対して、親密な 我が背 という呼び方をしている。そこには年上の姉と年下の弟との間にみられる庇護し守る者としての姉と、守られる弟という関係が成り立っている。

  対立的な関係

それに対して武装した時のアマテラスを見ると、その態度は全く変わってしまう。すぐさま髪を御角髪(みずら)に束ねた途端に女から男に変身するのである。その行為は単に姿を男にしたというだけではない。姿が男になったというのは、すべてが男になったことを意味する。例えばクマソタケル兄弟を倒そうとして、少年であったオウスが、叔母ヤマトヒメからもらった衣を身に着けて、乙女の姿になり、熊襲兄弟の宴席に紛れ込むという場面があった。

高天原の場面に戻ると、迎えたときは姉であったアマテラスが弟の心を疑って、対立的な関係に入った時には、姿を男に変じたのである。

その関係は兄 アマテラス と 弟 スサノオ の対立に展開したことになる。この場面では親密な姉と弟との関係から、対立的な兄と弟との関係に変化しているのだ。これでアマテラスのいささか強引で乱暴な行動が理解できるのである。

アマテラスは男の姿になったと言っても、扮装、仮装しているだけではないかと思われるかもしれないが、しかし身なりを女から男にするというのは、上辺の事だけではなく、存在そのものまで男になるのだと考えなければならない。これはオウスを例にして話した通りである。

さてこうした関係性の転換が可能になるのは、兄弟姉妹の関係に対する、古代の人々の考え方によっていると見るべきであろう。そこで兄弟姉妹がどのような関係として認識されていたかということを考える。まずは古代における兄弟姉妹の呼称と関係について整理する。

一派的な原則化から言うと、両者は大変親しい関係にある親和的な性格を帯び、しかも姉アマテラスは 弟 スサノオに対して母或いは叔母と同様な庇護者の立場に立つはずである。だからアマテラスは最初に発した 汝背の命 という感情をスサノオに対しては抱いている。これがごく普通に考えた姉と弟との関係である。ところが高天原に上ってきた目的が挨拶ではなくて高天原を奪おうとしているのだと思ったので、アマテラスは男になって武装し弟スサノオに向き合う。

それは アマテラス と弟スサノオという関係を生じさせてしまうから、当然二人は対立的な関係に置かれてしまう。

  両者の立場を 宇気比(うけひ) で判断する それぞれが子を産む

その結果、スサノオが言っている挨拶のために来たというのが正しいかどうかを、宇気比(うけひ)によって判断することになる。宇気比(うけひ) というのは、結果が二つに分かれる事柄を選んで行為し、その結果がどちらになるかによって神の意志を判断する占いの一種である。このアマテラスとスサノオの場面でいうと、子を産んで男か女かによって、スサノオの心の正邪を判断することになった。そして天の安の河を挟んでそれぞれが宇気比(うけひ)をし、まずアマテラスがスサノオの剣を三つに折って口に含み噛んで、それを吐き出して三柱の女神を産む。そして次はスサノオが

アマテラスの左右のみずらやかずらを、左右の手に巻いた珠を口に含んで吐き出して五柱の男神を産んだ。

そしてその結果に対してアマテラスはそれぞれ物実(ものざね・スサノオの剣、アマテラスは珠)の持ち主を親として、子供の帰属を決定する。五柱の男神はアマテラス、三柱の女の子はスサノオの子供であると宣言する。するとスサノオは次のように行動に出る。
そのために高天原は大混乱に陥る。

 アマテラスは天の石屋に隠れる

スサノオは言う「我が心は清く明し。だから手弱女を産むことが出来た。だから私は宇気比(うけひ)に勝った。そういうと勝ちに任せて、様々な乱暴を働く。最初はアマテラスも取りなしていたが、スサノオの勢いは増すばかりなので、それを見てアマテラスは恐れ、天の石屋(いわや)にはいって戸を閉ざしてしまった。

 性の異なる、又は性の同じな兄弟姉妹の関係の差

こうして有名な天の石屋伝説が始まるのである。今までの話を整理しておくと、性が同じ親子が対立的で、性が異なる親子が親和的な関係を持ち易いという前回、前々回の話と同じ様に、兄弟姉妹の場合も性が等しい兄と弟、姉と妹の関係は対立的な形、競争的な関係に或いは競争的な関係になり勝ちである。逆に異なる性を持つ、姉と弟・兄と妹との関係は親和的傾向になり易い。もちろん現実的な兄弟姉妹の中では様々な現れ方をするので、これは一つの典型である。

神話の中、古代の伝承では、そうした典型的な関係というのをストレ-トにあらわす傾向がはっきり見て取ることが出来る。

    性がおなじ場合

例えば兄と弟、姉と妹という姓を等しくする関係でいうと、第四回で話した赤い血と白い血という話で取り上げたが、古事記の神話の中の八十神という兄たちに対して、弟のオオナムチが出てくる、出雲を舞台にした神話、あるいは釣り針を巡る話でよく知られる兄 ホデリ と弟 ホウリこれも海幸彦・山幸彦であるがその兄弟関係、或いは前回取り上げたヤマトタケルの物語の兄 オオウス と弟 オウス のような関係、そういう関係が兄と弟の対立的な関係として思い出される。

また女性の場合でいうと、第二回で 人は草である で取り上げた姉の磐長媛 と 妹 コノハナサクヤ媛 など、その二人の関係を思い出してみる。神話や伝承においてその競争というのは、年下の弟や妹が成功して、兄や姉は失敗するというのが、これが決まった形の中で語られることになる。兄と弟、姉と妹を語る話では主人公はごく普通の弟や妹であって、兄や姉は意地悪な人いう形で語られる。これは日本の話だけではなく、世界中の話に共通する構造である。

    性が異なる場合

一方、性が異なる兄弟姉妹の関係というのは、親和的な形で現れることが多い。姉と弟との関係については、アマテラスとスサノオの関係は話したが、ほかにも神話ではなく歴史の中で言うと、天武天皇の皇女である大伯皇女と大津皇子、
これは同母の姉と弟であるが、この二人の関係などにはっきりと見て取れる。二人は二歳違いの姉と弟という形で存在するが、現実の二人の関係がどうであったかは分からないが、万葉集の歌を読むと極めて親密な形で、謀反の罪で死を給う弟の大津皇子と、その庇護者である姉大伯皇女として二人は語られている。

例えば大津皇子は謀反を起こす前に伊勢斎宮である大伯皇女の所にでかけると語られているが、姉である大伯皇女は伊勢から大和に帰る弟を見送りながら、まるで恋人を送り出すのと同じ様に別れの歌を歌う。2-105 我が背子を 大和へ遣ると さ夜更けて 暁(あかとき)露に 我れ立ち濡れし 2-106 二人行けど 行き過ぎ難き 秋山を いかにか君が 独り越ゆらむ これらの歌に見出せるのは、恋人同士のような親密な二人の関係であり、性を異にした姉弟の親密性を象徴的に語っている。大伯皇女は姉というより、母のような存在だと言った方が良いかもしれない。このように弟を守る庇護者としての立場に、同母の姉というのは立っているのである。一方同様に親しい関係にある同母の兄と妹という関係を見てみる。この関係はたぶん、禁忌を侵した恋として語られることが多い。禁じられた恋の物語を生み出していく。性的に関係として現れることがある。一方年上の姉と弟という姉弟の場合には大伯皇女と大津皇子がそうであるように、姉が宗教な性格を秘めた庇護者になって、弟を見るという形になるのが古代では一般的である。そこには男にとって肉親である姉とか叔母は、母と同じ様な役割を期待されている。いろいろな形で歌や話に接する時に、こういう関係にある兄弟姉妹があるということを参考にして読むと新しい見方が出てくる。

 

「コメント」

 

基本的には理解していることであるが、人間誕生以来その集団を維持し発展させるためのアイディアが埋め込まれているのであろう。