230226⑧「黒・白・青・赤」古代人の色

現代の私たちは色彩豊かな、時にはけばけばしいと思える様な作られた色に囲まれて生活している。ところが古代の人たちは自然に中にある色しか持っていなかった。衣を染めるにしても草木の汁を擦り付けなどとか、植物や鉱物などから色の成分を抽出したりとか、灰汁(あく)を混ぜて発色や定着を工夫したりとか、色々な事が行われていたが、限られた方法しか知らなかったので、色の種類としては限られていた。
今回は古事記に載せられた色彩が興味深く表現された歌といってもよい歌謡であるが、その歌を取り上げて古代の人々の色彩感覚について考える。

 ヤチホコとスセリビメ

大国主が ヤチホコ という名前で登場する神話が古事記にある。その前半は高志(こし)の国・北陸方にすむ ヌナガワヒメ という翡翠の女神に求婚する話。後半は正妻である スセリビメ の嫉妬に翻弄される物語になっている。その中で今回取り上げるのは、後半のスセリビメとヤチホコのやり取りである。スセリビメはスサノオの娘で大国主の正妻である。

スセリビメはスサノオの娘だけあって、なかなか嫉妬深く手強い。この場面では大国主はヤチホコと呼ばれるが、それはたくさんの鉾をもった神という勇ましい勇者の名前である。しかしこの勇者は妻には頭が上がらない。

この二人の関係が長い歌で語られる。その歌の前に散文で説明がついているので読む。

「神の正妻 スセリビメはとても嫉妬深かった。そこで神は困り果て、出雲から大和へ行こうとして、装束をして出発する時、馬に乗ろうとしながら歌を歌った」

その歌を紹介するが、前半では外に出ていくための見繕いの様子を歌う。
出かける前に色の違う衣を三回着替える場面である。似合わないので、あれはダメこれはダメと後ろに捨てて、三回目に鮮やかなあかね色の衣を身に着けて、これは似合うと言って満足している。そうした情景を表現する時に、今日のテ-マの色が出てくる。黒・青・赤と三回変わっていく。

 歌の概要 色の表現

歌の冒頭 ぬばたまの くろきみけし→ぬばたまの 黒い衣を と 歌われているぬばたまは、枕詞で黒とか、夜にかかるヒオウギ という植物の実である。

その次に選んだのが そにどりの あをきみけしを→かわせみ色の 青い衣を。
そにどり というのは特に美しい鳥として知られているカワセミの事である。古代でも奇麗な鳥として出てきて、その青という色を象徴する鳥として選ばれている訳だが、古代の青という言葉であるが、ここではそにどり カワセミの色の事である。勿論黒と青という色も絵具のように造られた色ではないが、ヒオウギ とか カワセミ 、自然に中にある植物や鳥の色によってその黒なり青なりという色を浮かばせるのである。

ヤチホコは ソニドリ の青もだめだ。最後には山の畑にまいたアカネを搗いて作った染め汁に漬けて染めた衣を選ぶ。

山がたに まきしあかねつき そめ木がしるに しめころもを 「山の畑に蒔いた茜を臼で搗き 染める木の汁に染めた衣を」

茜色の染料というのは栽培した茜という植物の根っこから紅い染料が取れる。その根っこを乾燥させて、臼で搗いた汁に灰汁それを定着させていくと茜色の鮮やかな色が取れる。ここは茜の染色の過程が歌われている。そのようにして作った大事な茜色の衣、大変時間の掛かった染色法で染められたヤチホコの一張羅であったのだろう。それを身に着けて出発しようとする。このヤチホコの気持ちが黒、青、茜と着替えていく中で、とてもうまく表されていて、色がこれだけ巧みに使われている物語は古事記以外にはない。

 古代の色 黒・白・青・赤 と黄色

古代の色という問題について改めて考えてみたい。

古事記を含め神話の中で色彩がどのように表されているかを考えると、先ほどのヤチホコの歌のように中々効果的に色を用いた例はない。神話の中に古代の歌や伝承の中にはいろいろな色が出てくるが、その色の表現は黒、白、青、赤の四色が出てくるだけである。

黒し・白し・青し・赤し という形容詞になった言葉があるが、古代であるのはこの四色だけである。この四色の色概念というのはとても古く、この形容詞が存在するところからもいうことが出来る。この四色は日本人だけではなく、世界の多くの民族がこの四色を基本の色彩として持っている。五行思想とか仏教とか道教とかの中国の宗教や思想の中で、現れてくるのは、赤、白、黒、青、黄の五色が基本の色彩になっている。例えば奈良の寺に行くと、幡 という 旗が立っていて、その色がこの五色になっている。それに対して日本では、古いのは四色、黄色という色も、黄という漢字もない訳ではない。例えば古事記では黄泉国、それから万葉集の歌を見ていくと、黄葉という語が大和言葉ではモミチ モミツという形で用いられる言葉がある。さらに黄泉国と呼ばれる死者の世界は、もともと黄色の泉が湧くところで死の世界をいう中国で使われている、地下の死の世界を表す言葉を借りてきて、古事記で使ったのである。

別に古事記では黄色い泉が湧いている意識はなく、ヨミという日本語にこの字を当てているだけである。

日本語の ヨミ という言葉には黄色いという意味はなく、ヨミ というのは ヤミ という意味と共通しているとか、夜という言葉にかかわるとか、いくつかの説があるが暗いという事柄を表す言葉が ヨミ だという訳で、黄色という概念はない。

万葉集で、もみぢは黄葉・紅葉と呼んでいて全く区別されていない。秋になって葉が色づいて赤になるのも黄色になるのも、どちらも古い日本語ではモミチと呼ばれていない。黄色という概念は今では赤と区別しているが、古代では 赤し という概念に中に包括されるものであった。

 赤 と 黒

因みに 赤し は、明るいというのが元々の意味で。朝太陽が出てくる朝焼けの鮮やかな太陽の光、
そのイメージが 赤し ということになる。その反対が暗し、日が落ちていくという概念で、その暗しがドンドン色彩が無くなって真っ黒になってそれが黒となる。

 白 と 黒

一方で白という言葉であるが、白というのは鮮やかという意味で、しるし はっきりしているという意味の言葉で、その しるし が白と関わっている。それは黒と対になっている関係である。

ただし黒と白というのは色彩概念で言うと無彩色で、色がないということなので彩度のある色というと結局 赤・青 という二つの色によって彩度のある色が示され、対になって存在する。限られた色概念の中で古代の人は物を見ていたことになる。

 青

青というのは植物の葉の色からきている。それは生命を象徴する色である。だから人間を青人草と呼んでいるのも、まさに日の生命力と関わっていることが分かる。

日本語の青はブル-系統の青よりは緑系統の青が強く意識されている。瑞々しさとか生命力の塊ということなのではないか。古代で最も重んじられた宝石の一つが翡翠だが、緑系統の色が特別な力を持つのだと考えられていた。

 赤 紅

これら四色の中で、神話を読んでいて最も重要な色が赤で、その色も沢山ある。

ヤチホコの歌の中に出てくる茜であるが、例えば天の岩屋戸の前で踊るアメノウズメという女神は、裳を付けていたとあるが、これは赤裳である紅系統の赤で、紅というのはベニバナで染めた赤の色である。
また、少女の淡い染めた頬の美しさを、膨らみかけた橘の花の蕾に例え「花橘は、中つ枝の ほつもり 赤ら嬢子(おとめ)」が古事記にある。花の蕾をここでは ほつもり と表現している。赤ら嬢子 は、少女の頬がピンク色に近いさまを言っている。

赤は素晴らしい色であると共に、強い力を持っていて、それは魔除けの 丹()と呼ばれる。赤土や水銀である。

自然の中に見出せるあらゆる赤系統(茶系統を含む黄から紫までの広い範囲)の色が、神話に描かれた赤だと見られる。古代の人々はそこに生命力に溢れた呪力を感じるとともに、畏怖も感じていたであろう。

 白

白は神聖なものであるが、白い動物などは聖なるもの、神の動物として現れてきたり、赤が持っている力強さから暴力的な部分を抜くと、白い鮮やかな色が聖なる色として貴ばれた。

 

現代の我々の中では色は作られる物と考えられるが、最初に挙げたヤチホコの歌った歌謡の中に歌われていた黒い色というのは、黒い衣は ぬばたまの くろきみけし 、青い衣は そにどりの あをきみけし、紅い衣は 山がたに まきしあかねつき そめ木がしるに しめころも という風に表現されていた。古代の人にとって色というのは自然の中で見出されたものであり、植物や動物と重ねられ存在していたのである。現代から見ると、古代の人々は見ていた色は大層控え目なものであった。しかしそういう色の中で古代人を刺激する豊かな色相は目立ったに違いない。

 

「コメント」

 

冗長な語り口、接続詞の多い口調には毎度ながらイライラ。でもそれには負けずに。