230319⑪「神話を楽しむ・高天原の神々」

 天の石屋の話

今回は今までと少し趣向を変えて、古事記の中から一つの神話を取り上げて、そこに見出される古代人の感性について考える。テーマは神話の中でも有名な話の一つで高天原における天の岩戸の話である。この話は前にも一部分取り上げたが、父イザナキの、海原を治めなさいと言う命令を拒んだ為に、出て行けと言われたスサノオが別れの挨拶をすると言って、高天原に上っていく。姉 アマテラスは自分が治めている高天原を奪いに来たのではないかと疑う。スサノオは疑いを晴らすために、誓約(うけい)という占いをして、子供を産むことになったが、スサノオが産んだのは女の子だと分かると、自分はかわいい女の子を産んだのだから誓約に勝ったと言って、高天原で乱暴な振舞いをする。スサノオの行動を見て、アマテラスも最初は庇っていたが、あまりの悪さに、高天原にある岩屋を開けてその中に籠って、戸を閉ざして隠れてしまう。太陽の神であるアマテラスが岩屋に隠れたために、高天原も地上も真っ暗闇になってしまったので、困り果てた神々は何とかしてアマテラスを岩屋から引き出そうとする。

 

今回考えてみたい神話は、そこから天の岩屋神話のクライマックスの部分で、よく知られた神話である。

まずはその神話を現代語訳したものを読んでみよう。 省略

この様な文体は書き言葉としては論外で、音声による語りの口調としても不自然である。この全体が長い一つの文章になっていて、最初から最後まで句点の切れた所のない一つの文として続いている。繋いでいるのが~して~してという接続詞である。これは聞いて変だと感じるが文体を神話学者の西郷信綱は「重層的列挙法」と呼んで、これはシャ-マニスチックな文体だと指摘している。つまりシャーマンが神憑(がか)りして語るような語り口を持った文体と言っている。確かにただの口調というのではなくて、そのシャーマンが神懸った時に、実際にどのように捉えるかは分からないが、この様な特殊な語り方に近いのではないか。

 オモヒカネの登場 脚本・演出

内容は夫々神が出てきて、オモヒカネ という神が、仕事を与えて、その仕事が順番に畳重ねるように語り出されることによって、祭りの準備をしている様子が生き生きとした臨場感で描かれている。恐らく、これは文字を目で見て読むという文章ではなくて、耳で音声を聞く神話であろう。そして内容を見ていくと、アマテラスが岩屋の中に籠ってしまって、世界は闇に覆われる。その結果として齎(もたら)されたのは、魑魅魍魎の跋扈する恐ろしい闇の状態であった。困り果てた神々は寄り集まって相談する。その結果、この窮地を救うために選ばれたのが、オモヒカネという神であった。この神は思いを兼ね備えている、思慮、考える力を持った神ということである。名前の通りに思いを巡らして、良いことを考える知恵の神である。このような抽象的な性格を持った神というのは日本神話の中では珍しい。

その知恵の神が色々と考えた末に思いついたのは、石屋の中に籠っているアマテラスを何とかして、だまして引っぱり出す作戦である。従ってここで描かれているのは、すべてオモヒカネの脚本による芝居である。様々な神を役者にして一芝居打って、アマテラスを騙してしまおうと考えている。

 鎮魂祭とのかかわり

ただ従来の研究の中で、この神話に対する解釈で強いのは、宮廷で行われる鎮魂祭という重要な祭があって、その祭りを元にしてこの神話が描かれていると説明する。鎮魂祭は旧暦11月中旬行われ、衰えた生命力、魂を復活させる祭である。地球の北半球の場合には、太陽の活動が最も衰弱する冬至の頃に行われるのがこの鎮魂祭である。

あらゆる生命力を復活させようとするのである。この神話に描かれているのも確かに鎮魂祭的な性格を持っている。

 この芝居を楽しんでいる神々

しかしここでは本当に祭を行っているのではなくて、祭をしているふりをしながら演じられるので、それはアマテラスを岩屋から引き出そうとするドタバタ喜劇なのである。

古代の人々が神をどのように考えていたかの一端を見ることが出来る。少なくともこの神話では、あくまで話であり、そして芝居をしている認識があって、それを楽しんでいるという所がある。もちろん古代の人々にとって、神というのは恐ろしいものであるが、一方で神を対象化して少し離れた所から、眺めて見るという余裕も持っていたとも思える。

 芝居の展開 アメノウズメ アマツマラ

その芝居であるが、まずは常世の長鳴き鳥つまり夜明けを告げるニワトリを鳴かせる。朝が来たと告げるのである。そして神々によって祭の準備が進められていく。その準備は、祭に使う道具の材料を集める所から始まり、道具作りへと進む。役割を割り振られた神々は夫々の役割を忠実にこなして、鏡・勾玉、そうした祭の道具を整えて、いよいよ祭の本番を迎える。そこに登場したのが、アメノウズメという女神で、演じたのは一種のストリップショ-的な滑稽な神憑りであった。
これはあくまでアメノウズメの演技と理解すべきであろう。何故かと言うとこの祭にはアメノウズメの踊り、神憑りを見ている多くの神々がいて、喜ばせて歓喜の声を挙げさせるというのが、演出家・オモヒカネの企みであったのだ。

アメノウズメによる尋常でない神憑りの描写というのは、芝居がかっている所作が他にもある。それは祭の道具を作る場面である。アマツマラ と イシコリドメ という女神が出てきて、鏡を作る場面がある。その場面の説明は品の悪い話となる。アマツマラというのは間違いなく男根を指している。これは有名な博物学者の南方熊楠が昭和9年に書いた「摩羅考について」で、詳細な分析を行っている。それによると、鏡は溶けた金属を固め鍛える鍛冶屋のアマツマラと、相槌(あいづち)のイシコリドメで作られる。この作業はアマツマラのマラが石の様に固くなることなのである。オモヒカネの演出では、その所作が舞台の上で演じられるのである。その様は、アメノウズメの神憑りと同様、観衆を沸かせたのである。

そして後半が展開していく様を見る。原文を話題にしたい部分があるので原文と訓み下し文を一部分載せる。

しかして、高天原動(とよ)みて、八百万の神、共咲(きょうしょう)。ここに天照大御神、怪しと以為(おも)ほし、天の石屋の戸を細く開きて、内より告()らさく、「吾()が隠(こも)り座(いま)すに因()りて、天の原自ずから闇(くら)く、また葦原の中つ国皆闇(くら)けむと以為(おも)ふを、何の由(ゆえ)にか、天の宇受売(うずめ)はあそびをし、また、八百万の神、諸咲」と。 しかして、天の宇受売(うずめ)、自言(まを)さく、「汝(いまし)命に益して貴き神座(いま)すえ故に、歓喜咲楽」と。

以降~アマテラスが出て来て、一件落着となる。

 

この様にして神話では最後にアマテラスが岩屋から無事に出てくるのである。そして明るい世界が戻ったと語られている。
この世の真っ暗なアマテラスのいない状態で、篝火の光の中で、アメノウズメが先ほどの場面の様に、妖艶な神憑りの様を舞う。それを見て、周りを囲んだ神々は高天原がどよめく程、喜びの声を挙げる。その声によってアマテラスはあれとおもったのでこの芝居は成功した。人々が喜びの歓声を挙げているのを聞いて、アマテラスは自分が隠れているのに、外では何があるのだろうと思い、戸を細めに開けて見てみようとした。そして「私がいないのに」と尋ねる。するとアメノウズメは「あなたより貴い神が私たちの所に来たので喜んでいる」と答える。そしてアマテラスの前にアメノコヤネとフトダマが、さっき作った鏡を差し出した。するとその鏡には素晴らしいものが映った。高天原で一番偉い神であるアマテラスは、鏡に映った自分の姿を自分より貴い神と思って、あれと思って、外に踏み出そうとした所を、アメノタジカラオが手をつかんで引っぱり出して一件落着となる。全てがオモヒカネの脚本通りになったのである。

 鏡を知らなかったのか

ただそのように説明しても不審に思われるかもしれない。そもそも鏡というのはご神体にして伊勢神宮という最も高貴な神社に祀られている。そして皇室の祖先神であるアマテラスという偉い神が鏡を知らないことがあり得るのか。この神話の展開を見ると、オモヒカネ は最初からアマテラスは鏡を知らないから、鏡を使って岩屋から誘きだそうと考えて、この芝居を打っているのであろう。あるいはもし鏡を知っていたとしても、この様に準備万端整えて演じられてしまうと、ついつい騙されてしまうものだと考えたかもしれない。普通に考えればアマテラスは鏡を知らなかったということになる。

そしてそこにこの神話の笑いが込められているというのは、素直な読み方ではないかと思う。そして鏡を知らない人間を笑う話は昔話、落語などでもある。

 咲 という字

そもそも笑い話というのは、割と昔話研究では隅っこ追いやられてしまうものであるが、人々を笑いに引き込んでしまう話は、古い時代から人々が好きな話であった。今回最後に引用した部分で、原文で読んだ  という味について三つあった。それを考えてみたい。 は古代では ワラフ とか エム とか エラク という現在私たちが笑うと言っている言葉に対応する行為を、この漢字で表すという話をした。そこで ワラフ と エム という、一方は二つの関係を破壊してしまうような行為だし、一方では双方の関係を親密にする エム という声の無い行為である。そしてもう一つ真ん中に エラク という声があってその場の関係を和やかに包んでいく言葉があって、この三つの言葉を持つのが古代の顔面の表現だったと話した。そのことを思い出しながら、先ほど読んだ場面を考えてみたい。現行のいずれの注釈書でも最初の部分の 高天原動(とよ)みて、八百万の神、共(きょうしょう) は 共に笑いき と読んでいる。 また 何の由(ゆえ)にか、天の宇受売(うずめ)はあそびをし、また、八百万の神、諸咲 は、諸々笑うとか 笑える と読まれているのが普通であるが、もう一つ アメノウズメが答えた(いまし)命に益して貴き神座(いま)すえ故に、歓喜咲楽 の部分、ここは喜び笑い遊ぶ、
あるいは喜び えらき 遊ぶ と 読み方がいくつかに分かれている。

ただ個々の笑うという字も、咲 という字が充てられている。

 

この岩屋神話の後半の部分を理解する上で、重要な点というのは、描かれている祭の準備とか祭の様々なアメノウズメの行為は全て オモヒカネ という思慮の神が考えて仕組んだものだということである。オモヒカネは脚本家兼演出家で、その指揮に従って巫女、シャーマンの装いをしたアメノウズメによって、エロチックな滑稽な所作が演じられ、それを見た神々は哄笑したのである。その時にこの場面を、一般的な注釈書に従って 笑う と 訓読したらどうなるか。前回話したワラフ の意味から考えると、アメノウズメと神々の関係は分断されてしまう。これを見た神々は、アメノウズメを軽蔑したとなってしまう。しかしそう取ったのでは、この場面は全く理解できなくなってしまう。つまり(きょうしょう) というのは、アメノウズメの所作に酔いしれて、心から喜んで楽しんでいると考えねばならない。ここは間違いなく読み方としては、 共に エラク あるいは 共にエラキキ と読むべきである。そうするとアマテラスはが尋ねた 諸咲 何でみんなはエラクしてるのだ、楽しそうにしているのだと聞いたので、アメノウズメは (いまし)命に益して貴き神座(いま)すえ故に、歓喜咲楽→ 貴い神様がいるので私たちは歓喜してエラキ 楽しんでいるのです。心から喜んでその神様と一緒になって楽しんでいるのです と答えるのである。 その流れの中で 咲 はワラフ ではなくて、エラク と読むことによって、はじめて神話を全体として理解することが出来る。

 

言葉だけでは理解しにくい説明になったが、この有名なアメノウズメの神憑りの場面は、エラク と読むことによって、アマテラスは天の岩屋の戸を開けざるを得なくなった。そういう エラク 今でいう 笑いの力ということになることを理解してほしい。

 

「コメント」

 

浅学にして オモヒカネ が首謀者とは知らなかった。が しかし他の部分の説明は、回りくどくて繰り返し。