230326⑫「神話から読む古代人の心・神と暮らす」

人が神を作ったもの 日本人の神への向き合い方

今回は古代における神について話す。日本人は信仰心が薄いと言われるが、時に過激な宗教が大きな問題になる。また宗教の違いにより戦争は世界中で今も途絶えることはない。それは神のせいなのかというと、神を作り、神を信仰する人の側に原因はある。そもそも人を神が作ったというのは神話の中の話で、神は人の作ったものだから、神をめぐるあらゆる問題は、人の側に責任がある。その人の作り出した神について、私たち人間はあるいは日本人は、どのように向き合ってきたのだろうか。古代の日本人にとって、神とはどのような存在であったかということを、いくつかの話を読みながら考える。

 古代人は全ての現象を神の仕業とみなす

前回取り上げた天の岩屋神話に出てくる神というのは、喜劇の中に登場する神だから、どの神も穏やかな感じがしている。所が古代人にとって神はそのような生易しい存在ばかりではなかった。しばしば指摘することだが、日本語の神という言葉は、唯一絶対神を神GODとして尊崇する一神教的観念とは全く違う。一神教の世界では神の世界から排除された悪魔の存在も、日本語の神という言葉は抱え込んで存在している。恐らくそれは自然のあらゆる現象を神の仕業だと見なす自然崇拝を、アニミズム的な考え方を基盤に持つ多神教的な神観念の中で考えて見ると、ごく当然なのである。例えば民俗学者折口信夫は、神について次の様に述べている。

「昔になるほど神に恐るべき要素が多く見えて、至上の神などは影を消していく。土地の精霊及び力に能わぬ激しい動物などを神と観じるのも、進んだ状態で記録から考え合わせると、それ以前の彷彿さえ浮かんでくるのである。

それが果たしてこの日本の国土の上であったことか、或いはそれ以前の祖先がいた土地であったことか。

これらを考えながら、古い時代の印象が今日の私たちの古代研究の上に、仄かながら姿を現したことは、そうした生活をした祖先に恥を感じるより、耐えられぬ懐かしさを覚えるのである。古く遡るほど神は恐ろしい存在であった。」 と言っている。

その点で言えば古事記の神話に描かれている神々というのは、随分穏やかな印象を与えるので、かなり新しい時代に育まれた神たちと言っていい。

 普段接する神と神話の神々とは別物 

神話というのは神々だけが活躍する世界なので、そこには原則として人は出てこない。ということは、人と対峙して向き合って力を発揮する神は、神話の中では出てこない。普段人が接している神と、神話に語られる神とでは、その在り方が違っているのではないかと見た方が良い。

また私たちは一般的に神という呼称を用いるが、古代の神という神の存在を見ていくと、様々な性格や能力を持つ神がいて、その呼称も多様な形で別の言葉で呼ばれている。

 神の名 神の名の接尾語

この点に関しては少し説明が必要であろう。神話研究者溝口睦子は「記紀神話の解釈の一つの試み」という論文を参考に話す。溝口睦子 は、

「古事記や日本書紀などの文献において、神の名前に付けられた ~神という言葉とは、後に統一して後ろに付けられた言葉と考えていて、元々の神の名というのは、神という言葉を取り去った所に見出される」と言っている。
例えば 
ククノチノカミ という神である。イザナキイザナミの神産み神話で11番目に生まれた神。ククノチ というのが元々の神の名と考えられる。クク というのは木の幹を表している。ノ は格助詞で繫げている言葉。そして チ という最後にあるのが 精霊というか、神としての力を持ったものに添えられる接尾語である。それ以外に、ミ・ネ・モ・ヒコ・ヒメ・オ・ヌシ・タマ など様々な言葉があって、それがある名前の最後に付けられて神を表すと言っている。つまりそれが神の性格を表していると認識している。その様々な接尾語の細かい意味に入り込んで違いを説明するのは現代ではできないことが多い。

例えば~ヒコ 、~ヒメ、スサノオのオ、~ヒメ、女性の神を表す メ とかは、人格神、人間と同じ様な姿形を持った神に付けられることが多い。チ・ミ・シ・タマ とかいう接尾語を持つ神は、自然神的な性格が濃厚に窺われる。

殊に チ という言葉を最後に持つ神は、例えば コシノヤマタノオロチ の チ 、ミズチ(水神)の チ、或いはイカヅチの チ、チ という言葉が表しているのは、神の中で最も制御できなくて恐いものなのである。この様に神を表す接尾語は色々な性格を持っている。

神という名称は、様々に存在する超自然的に存在する力の総称というか、全体をまとめる形で後に統一的に付けられたのである。そうすることによって、人間の側が理解できる存在、あるいは制御できる存在ということになる。人間の側が理解して、人間の側に繋ぎとめようとするときに、神という呼称で全体が括られていったと見られる。そして神は人間との関係を、人間の側に近づけていったのである。

 古代人の神との関わり方 

人は本来、制御できない様々な物に取り囲まれ、つまり自然の脅威に取り囲まれて存在している。恐ろしいものとどうやって共生していくかというと、相手を制御するのではなくて、相手を宥めて意を汲み、怠りなく相手を喜ばせる祭をして、貢物をして神を宥めるのである。

そもそもの対処法は、相手の機嫌を損なわないようにうまく対処するのである。おまけに神は目に見えない存在なので、対応に苦労が必要と古代の人は考えていたのである。

古代では原因の分からないものに対する恐れがあって、それが神の仕業と畏れられるのである。不都合な事、恐ろしい事に直面すると神の仕業と考えた。人は神を鎮めるために様々な手段を講ずる。細心の注意を払って神の声を聞いて
神の意思に従って行動する。

 ミマキイリヒコ 十代崇神天皇 オオモノヌシ オオタタネコ

ここに紹介するのは古事記神話ではないが、古事記の中巻の部分である。ミマキイリヒコ という崇神天皇の時代に疫病の流行。それに対する祭をした記録がある。

要約すると、疫病が流行したので天皇は神の声を聴く。大物主の神が夢に現れて、次のように告げた。「わが子孫の  オオタタネコ を用いて我を祀らせるならば、国は安らかになる」 そこで天皇は オオタタネコを探し出して神主としてオオモノヌシを祀らせたら疫病は鎮まった。

 オオモノヌシ

古代での天皇はシャーマンであり、神の教えを聞くことが重要な役割であった。
そして天皇が神の教えを聞く方法が、心身を清浄にして神を祀っていると神が張り付いていて来る。そして夢の中に神が表れて告げる。これが天皇の重要な役割である。夢というのは元々睡眠中の目という意味・夢=+(イメ)

疫病が蔓延するのは天皇の政治が良くないと考えられるので、天皇は何か不測の事態が起きると、それの対応をしなければならない。まず神の教えを聞くことである。オオモノヌシという神が夢に現れてくる。これは大和の土地神として敬われている三輪山の神である。その三輪山の西側が巻向という場所で、ミマキイリヒコも含めて、この時代の天皇たちの居住した場所である。その土地神のオオモノヌシは恐ろしい神で、モノ という言葉は、直接名指しにするのも憚られる恐いものや、名前を聞きたくないものなどに対して、モノ という言い方をして、あの凄い とかいう言い方である。そしてこの神は時々祟って悪さをする。それが疫病である。ここでは夢の中に現れて 御告げ を言ったので、それに従って神を祀って怒りを鎮めたのである。即ちきちんと神を祀られていなかったので怒り、疫病を流行らせたのである。
この天皇の時代は2世紀~3世紀の魏志倭人伝の伝える倭国の時代である。

ミマキイリヒコの宮殿は、磯城瑞籬宮(しきのみずがきのみや)=桜井市金谷 と呼ばれる。三輪山の南西である。

海外との交流活発になってきた頃なので、その時に突然得体の知れない流行病が流行したのは当然あり得る事である。

その時の病気は一般的には天然痘であろう。対策は神に祈るしか手段はなかった。ここでは境界を守る神を祀って、怪しいものが侵入するのを防ぐしかないのである。

 風土記に見る悪さをする神 

怪しい神はどこにでもいる。各地の風土記を読むと類型的な決まった伝承が出てくる。優しい神というのはない。いつも人々は神に怯え暮らしているのである。少しでも油断すると半死半生の目に合う。神は時々神とは分からない姿でやってきて、宿を貸してくれとかいうので、断ったりすると怒り祟るのである。神の怒りというのは、どこで出会うか分からない、全く気まぐれなものであった。

 

しかし怯えてばかりいるかというとそうでもない。偶には別の行動に出て、神に引き下がってもらうということもある。

播磨国風土記の例。

天から降りてきた タチハヤオ という神が里の松の木に住んでいて、里の人々に祟った。その為人々は役所に請願した所、役人が来て敬い祀った、そして「ここは百姓どもがいて何とも汚らわしい所なので、ここから移り住んで山の高い所にお鎮まり下さい」 といった。すると神は願いを聞いて移り住んだので人々は安堵した。

この場面では天皇の権威も現われていて、ここで神を祀ったのは役人ということになっているが、これは恐らく大和から派遣された新しい祀る力を持った人であろうと考えられる。祀り方というと昔ながらのやり方だと思われがちだが、そこには時々の新しい祀り方が入っているのである。その背景には天皇の権威をもった力が感じられる。古代において神は厄介な存在であったが、人々はその扱いに腐心しながらしたたかにも暮らしていたのである。

 

「コメント」

知らない知識を貰って感謝したい。

 

古事記というのが、祝詞というのがよく分かった。それを研究している人の話が、全く祝詞調であるからである。現代日本語としては全く分かりにくい。しかし新しい知識も随所にあったので、まあ良しとする。終わってほっとしている。