230129④「赤い血といろい「ち」・母の力」

今回からの話

今回から何回かにわたって古代の家族に関わる神話や伝承を取り上げ話す。現代においても親子関係だとか、兄弟同士の繋がりは難しい事があって、色々と悩みがある。古代においても同じことで、最も近い関係にある人として、親子や兄弟とは親しい反面、厳しい対立が生じてしまうこともある。

まず今回取り上げるのは母と言う存在である。現代でもそうであるが、古代の母は子供を産み育てる大きな役割を持っている。現代の私達と比べながら聞いていただくと、今までと違う夫婦や親子の在り方に気付いて貰えるかもしれない。但し話すのは古代の神話であって、それがそのまま現在のわれわれに当てはまるとは言えないことを述べておく。

古事記の中心的な話題の人、オホホナムチ という神がいる。オホホナムチ と言うのは、少年の時の名前で成人すると、大国主(オオクニヌシ)名が変わる。オホホナムチ は様々な試練を受けて成長し、大国主 立派な国の主 となって地上を治めると語られる神話であるが、オホホナムチ の最初に語られるのは、よく知られた 因幡の白兎 という神話である。

 

オホナムチ(大穴牟遅神)  ヤソガミたちとの戦い

ここで語られているのは、沢山の兄弟(ヤソガミ)関係や、八上比売(ヤソガミヒメ)との関係は初めの 因幡の白兎 の関係から始まっているのだが、それが兄弟の対立として描かれていくのが、白兎を助けた後で展開していく話である。自分たちが妻にしようとし思っていた因幡の 八上比売 が オホナムチ と結婚したいと言い出してので、八十神(ヤソガミ)達はとても怒るのであった。それで何とか オホナムチ を亡きものにしようと考えて、計略を考える。

ヤソガミ は怒り狂い、オホナムチ を殺してしまおうと皆で話し、伯伎(ははき)の国 鳥取県西部 の山の麓に オホナムチ を連れ出して、「赤い猪がこの山に居る、そこで俺たちは皆で山の上から追い落とすから、お前は下で待っていて捕らえろ、もし打ち取れなかったらお前を殺すぞ」と言い、猪に似せた大岩を火で真っ赤に焼いて、山から転がり落した。

オホナムチ  赤い猪を待ち受けると、そのまま焼けた岩に押しつぶされて死んだ。そこにその御祖(みおや) 母が泣き悲しみ、すぐさま天に参り上がり、 カムムスヒ にお願いすると、すぐさま キサカヒヒメ と ウムカヒヒメ を遣わして、作り生かされた。キサカヒヒメ  オホナムチ を削り集めて、ウムカヒヒメ が待ち受けて、母の乳汁として 塗りつけると オホナムチ は麗しい男になって出歩いて遊びまわった。

カムムスヒ については前回も話したが出雲の神に何かあると手を差し伸べてくれる守り神のような存在である。そのカムムスヒ が キサカヒヒメ と ウムカヒヒメ と言う二人の貝の女神を派遣治療してくれるのである。

キサカヒ と言うのは赤貝の事、ウムカヒ と言うのは蛤の事で、その二人の貝の女神が、火傷で死にかけているオホナムチ を治療する。では貝の女神たちはどのように治療したか。それは 原文で見ると「キサカヒヒメは、きさげ集めて、ウムカヒヒメ待受けて、母の乳汁と塗りしかば」と書かれている。キサカイヒメ が、貝の殻で岩にへばりついて死んでいる オホナムチ の体をギザギザと削り取って、その体に ウムカヒヒメ が、乳汁を塗りつけて治療した。その母の乳汁と言うのが、火傷の薬と考えればいい。但し キサカヒヒメ と言うのは、オホナムチ を岩からはがすだけの役割かと言うとそうではなく、削られた貝殻からカルシウム、その削られた貝からの粉を、それから蛤は汁がおいしいと言われるが、蛤の汁を混ぜて白い塗り薬を作った。その白い薬がまるで母のおっぱいのようなので母の乳汁と呼ばれているのだろう。原文では塗る と言う漢字の下に「母乳汁」とあって、読み方が一定せず理解が難しいが、貝の女神の作った白い塗り薬を、おっぱいと一緒に混ぜて作った薬なのかそのあたりの理解も仕方も色々と議論のある所である。ここでは曖昧な言い方になるが、恐らくどちらか一方と考えるのではなくて、その両方が重ねられている、つまり粉を練って汁で作った塗り薬、ここには母の乳が混じっているので、母の乳汁という呼び方をするのだと考えておきたいと思う。それはお母さんの作る母乳と同じ力を持っていると考えられたものである。

母の乳汁 白いチ 垂乳根の意味

母の乳汁という言葉であるが、現代語では乳(ちち)という云い方をするが、古代では一音で  と言う。この  を二つ重ねたのが現代の チチ〈乳〉と言う語で、この様に同じ言葉を二つ重ねるというのは元々幼児語で、子供に対する言葉と考えられるので、元は チ という言葉で母のおっぱいを指していたのだ。その乳汁と呼ばれる塗り薬が オオナムチの 火傷を治すが、そこには母の力が大きく働いている。そもそも助けてくれと頼んだのはお母さんであったが、その母の力と言ったものが、この神話の中には強く表れていることが読み取れる。万葉集の歌でも、母と言う言葉に掛かる枕詞は、たらちねの の たらち とは満ち足りたおっぱいという意味である。たら は 足りる、満ちたりている状態をいう。 は根っこの意味で接尾語である。体にしっかりと根を張ってくっついているというと言ったイメ-ジなのであろう。

その母乳を一杯湛えた大きな乳が母を象徴しているというのが、縄文時代の土偶などにも見られ、胸を強調されたものが沢山あるし、中世ヨ-ロッパなどでは、幼いキリストを抱いたマリア像が示していることである。つまり母を象徴しているのが乳であると見て取れるが、この神話では具体的に治療するのが、 カンムスヒ に派遣された二人の貝の女神であったが、彼女たちは救急救命士みたいな役割で、実際に主治医はお母さんだったのではないか。

母の胎内で育まれて生れて来る子は、古代だと全て母乳で育てられ成長していく。そしてその力そのものが、  と言う言葉にいる。母は自ら体からのその白い乳が母を象徴しているのだという事に成る。

父の 赤いチ

それに対して一方の父の方は、どうであろうか。乳を出せない存在であるという事が、もう一人の親であっても 母とは全く違う。だから 白い  が出ないので、その代わりに 赤いチ というもので、子との繋がりを強調する事に成る。強調するというよりは、強調せざるを得ないというのが正しいかも知れない。赤いチ とは血液の事である。勿論 母も赤いで繋がっているのが当然ではあるが、そんな曖昧な良く分からないものに母はすがる必要などない。確かに、白いチ が母と子の間を繋いでいるからである。生まれる前には子は母の胎内にいる。そしてへその緒で繋がって生れ出て、そのへその緒が切り離されて後は白い乳で育つ。男にとっては 赤いチ と言うのがどうしても、自分と事との関係として必要なものとして、現われて来る。血縁と言う云い方をするが、その血縁、血の繋がりというのは、現代は違うが、前近代・古代では、それはどの様に確かめても、目には見えないわけでどの血も同じ血をしている。そういう中で父はこの親としてどうもどこか不安定で不安な思いと言ったもの捨てきれない。その 赤いチ と言う血液を表す血と、母の母乳を表す白いチと言うのが、日本語では全く同じ  という言葉で表されていることは、興味深いことである。古代の人にとってそれは色が違うだけで、血液と母乳は同じ力を持っていると考えていた。

もう一つの チ イノチ 古典基礎語辞典の説明

 と言う言葉を探していると、もう一つ面白い言葉に行きあたる。それは イノチ と言う言葉である。イノチ と言う言葉の構成或いは語源について、大野晋の古典基礎語辞典 では次の様に説明されている。「 は息、ノ は格助詞  はイカヅチやオロチ の チ と同じく、霊力の意。イノチ は霊力を表し、自然物の持つ息つまり、生きる力の意か。

人間や一般の生物の生きる根源となっている力、生命力、そこから生きていること、又生命力がある間の長さ、即ち人間はこの世で生きている期間と言う生命の存続・寿命の意が生じた。」

こんな風にイノチ と言う語が説明されている。 つまり 、呼吸によって表されている、生きていることの力、つまり生きる根源となっている力がイノチだと、その根源の力を示しているのが  という音だという事に成る。イカヅチやオロチの  と言う音、これは イノチ の  と同じだと辞典は説明しているが、解釈は間違いないであろう。

ヤマタノヲロチとは

古事記に出て来るオロチ(遠呂智)コシノヤマタノオヲチと正式には呼んでいる。スサノオが出雲にやってきて退治した得体の知れない怪物、それがコシノヤマタノオロチと呼ばれるのである。高天原の神々の住まう天空世界を追放され、地上に降りてきたスサノオは、太陽神 アマテラスの弟であるのだが、地上でクシナダヒメをはさんで泣いている アシナヅチ テナヅチ と言う老夫婦に出会って、名前や泣いている理由を尋ねて、そして事情を理解した上で、スサノオは「俺がオロチと言う怪物を退治してやるから、娘を俺に呉れ と聞く。そうすると名前をしらないのですぐにはやれないというので、俺はアマテラスの弟のスサノオと名乗って、そんな方なら差し上げます という約束を取り付ける。それで強い酒を造らせて、やって来たオロチにその酒を飲ませて酔っぱらった隙に切り殺してしまう。そのようにクシナダヒメを助けるオロチ退治神話は語られている。コシノヤマタノヲロチ という怪物の名前であるが、高志(コシ)というのは地名で、北陸を指す言葉で、出雲にとっては未開の地、目の上のたん瘤みたいな対抗馬でいつも敵対している。そのコシに住んでいる ヤマタ 八つの頭と尻尾が八つの恐ろしい怪物を表す言葉である。元々オロチと言うのは大蛇意味する言葉ではない。

ヲ は 尾をいい,ロ は古い格助詞、チ は既に取り上げた霊力である。ヲロチ と言うのは、しっぽに霊力のある恐ろしい奴という意味である。

その証拠に酔っ払ったヲロチ を スサノオ が切り殺すのだが、八つあるしっぽの真ん中あたりを切ったら、カチンと剣に当たった。中を見たら立派な太刀が出て来た。それがいわゆる 草那芸(くさなぎ)の剣(つるぎ) と呼ばれる天皇家の三種の神器の一つでもある。つまりしっぽにはそのような偉大なる霊力が秘められているという怪物であったのだ。

だから大蛇と言うのはあとから説明されたのである。元々はしっぽに霊力が持つもので、それで殺してから、ナンダ蛇だったのかと気が付いたと神話は語られている。

 

 と言うのは、オロチ と  、或いはイカヅチ の 、イノチ の 、それから血液、或いは母乳、そんな風に チ という言葉がいろいろとイメージが広がっていくが、今取り上げた様々な言葉がいずれも霊力を秘めた偉大な力を我々に物、そのものを  という言葉で表しているという事である。

人間の体の中にあって、根源的な力そのものを、支えているのが赤い  であり、もう一つの白い  母乳である。

古代人にとってはその中でも目に見える白い チ と言うのは、母と生まれたばかりの子と結びつけて、子供を育てていく意味で、母の力を象徴するものある。

 

男の 親子関係 赤い チ →戸籍

今男性の出産や育児への参加と言うのが求められている。所がなかなか参加率が高まらないというニュ-スを見る。それは恐らく男性の側に白い  を持たないことに対する、ある劣等感というか、白い  に対する何か思いというものが、生まれてきた子との繋がりの希薄さみたいなものとどこかで通じてしまう、そんな所があって育児参加に踏み込めない理由の一つがあるのではないか。このような男の思いを認めた上で、どの様にして出産や育児に積極的に関わることが出来るのかという事を考える必要がある。

この出産と言う場から男が排除されるという、古事記で見ると、海幸彦山幸彦という有名な神がいるが、その二人の父親は高天原から地上に降りてきた、アマテラスの孫 ニニギ であり、やはり子供との関係に悩んでいる場面がある。

ニニギ は 木花之佐久夜比売(コノハナサクヤヒメ) という美しい女神と出会って結婚する。その結果妊娠して子供が生れる。その時ニニギは一夜だけの交わりで妊娠したのは私の子供ではない、他の神の子供ではないかと疑う。それに対して コノハナサクヤヒメ は、出入り口のない産屋を作って、この建物の中に入ると火をつけて、無事に生まれたらこの子は貴方の子供です、無事に生れなかったら他の神の子供ですと言う。燃え盛る中で三人の男の子が生まれる。それがホデリ(火照命 海幸彦のこと)ホスセリ(火須勢理命)ホヲリ(火遠理命 山幸彦のこと)

その結果ニニギは自分が父と認めた事に成っているが、極めてアクロバチックナな方法によって生まれたからと言って、この三人の子が自分の子と本当に信じることが出来たのかどうか。こんなことを考えてみるとちょっと疑わしいとも見えてくる。つまり現代的に言えば、ここには何のエビデンスも無いという事に成る。勿論現代では、遺伝子検査とか親子関係は簡単に証明できるが、古代ではそのまま信じるか、或いはどうしても自分の子として守りたいのなら女性を隔離してしまうしかない。古代における男達と言うのは、そうした根源的な不確かさを解消しようとして、赤い チ の結びつきというものを幻想していくわけである。これは明らかに戸籍と言った中国由来の制度として入って来た物によってもたらされもので、 などと言う普段見ることの出来ない、他人と区別できない,赤い チ を絶対的な拠り所として、男は親子関係、或いは家族というものと繋がろうとして来た。親族呼称として、父、伯父、祖父(おおじ)、何れも父と言う言葉で、男の親族関係を表すが、この様な  というのも、 血液と言う言葉と関わっている。

これからの育児

それに対して母親の側は、赤い  ではなくて、白い チ によって確かに子と結ばれている。そのような  を巡る物語、そこから改めて現代に戻って、子供は母乳で育てましょう という事を言いたい訳ではない。出産とか育児を母親の側に押し付けようと考える事は時代錯誤である。これから恐らく親子関係夫婦関係と言うのは、どんどん変わっていくだろうし、出産育児の問題だけでなく夫婦の在り方、或いは家族の在り方も変化していく時代に我々は生きている。その参考になるかは分からないが、古代の神話を読んでいくと、 という一つの言葉を辿っていく事によって、男と女或いは夫と妻との関係のありかたまで見えてくるという事は興味深い。

 

「コメント」

 

出産、育児の男参加と言うのは勿論賛成だし、大いにやるべし。但し違う立場、機能、意識でやるという事をそれぞれが理解しないとスム-ズに進展していかないと思う。これが既に時代錯誤か。