科学と人間「日本列島の成り立ち」  講師 山崎晴男  首都大学東京都市環境学部教授

150206(海進によって出来た海)

昔は象の歯や牙が瀬戸内海の底引き網に引っかかって多数採取された。それは瀬戸内海の水深が大概数十m以下であり氷期に

海水準が低下していた時に、現在瀬戸内海となっている所は干上がって陸地になっていたからである。

前回リアス式海岸で話したように、現在我々が目にしている地表の姿は気候変動によって次々と様子が変わっていく自然変化の

一コマを見ているに過ぎないのである。今回の講義では身近に有りながら気候変化によって大きく姿を変えたものの例として瀬戸内海や東京湾の話から進めていく。

(瀬戸内海式気候)

瀬戸内海周辺は瀬戸内海式気候と呼ばれ、他の地域とは異なる特異な気候を示す所である。それは瀬戸内海地域が北は中国山地、南は四国山地に挟まれた東西に伸びる地で、北からの冷たい風も、南からの湿った風も両山地が遮ってしまう。その為に一年を通して比較的温暖で、雨の少ない天気の良い日が続く地域である。雨が少ないということは、水不足が起きやすい所でもある。不足する水を補うために各地に溜池が発達した。Ex、満濃池(821年 空海らが修築した日本最大の灌漑用溜池

(瀬戸内海の構造)

・紀淡海峡と鳴門海峡、佐多岬半島と九州の佐賀関半島との間の速吸の瀬戸(豊予海峡)との間で太平洋と、本州との間には

 関門海峡で日本海と繋がっている。瀬戸内海は四つの狭い海峡で外海と分けられているので、波が静かで船による輸送路として

 古代より重用されてきた。

・瀬戸内海の海域は播磨灘、燧灘などと灘と呼ばれる、広くて平らな海域と、備讃瀬戸、音戸の瀬戸など狭くて島が沢山ある瀬戸と

 呼ばれる所に分けられる。

・水深は40mより浅い所が殆どで、四つの海峡の内側では水深が60mを越える所は伊予灘南部だけである。

・ただ瀬戸内海の海底には海の釜と書いて、海釜(かいふ)と呼ばれる楕円形をした細長い窪地が沢山ある。主に海峡の海底に有り

 周囲の海底よりずっと深く水深100m以上のものも少なくない。特に西側の速筋の瀬戸には400mを越える世界最大の海釜がある。

 海釜が作られる原因は、幅の狭い海峡を潮流が抜けるときにその速度が早まって海底の堆積物だけではなく、その下の基盤岩まで

 侵食してしまう為と考えられている。

(渦潮のメカニズム)

月の引力によって海水面に大きな高まりができ、それは月の動きを追いかけるように東から西へ向かって移動する。その満潮の波は紀伊水道や豊後水道にも入り北へ進む。豊後水道に入った満潮の波は瀬戸内海を西側から水位を上げて播磨灘に向かう。一方、紀伊水道に入った満潮の波は、二手に分かれ鳴門海峡と大阪湾方面に向かう。その波はさらに明石海峡を抜けて播磨灘に入り、豊後水道を経てきた満潮の波と合流する。紀伊水道から入ってきた満潮の波が播磨灘に入るまで約6時間かかる。この6時間が経過する間に紀伊水道側は干潮の波となり、鳴門海峡をはさんだ播磨灘と紀伊水道との間で海水面に水位差(最大約1.5メートル)が生じ、海面の高い満潮側から低い干潮側へ激しい勢いで海水が流れ込み、中央部を流れる速い流れと、その両側の遅い流れとの速度差で渦が発生する

                                     のである

 鳴門海峡に発生する渦潮の大きさは直径最大20メートルにもおよび、世界でも最大規模と言われ、この激しい潮流から発生する

  轟音から鳴門(鳴る瀬戸)の名が生まれたと言われている

(氷期の瀬戸内海)→後氷期

・最終氷期の海面は現在より100~120m低かったので、海底基盤まで干上がり、陸上を流れる河川の侵食で凹凸のある地形が

 作られた。その後の後氷期の海進(海面の上昇)で砂・礫などで埋められ平らになる。

・氷期の海岸線は、現在120mの水深の位置から見て、四国東側は紀伊水道の日御碕、西側は豊後水道の鶴見崎と思われる。

 そして後氷期の海進によって海水が入り、現在の瀬戸内海地域は水没し、四国は本州と狭い海峡で分離され島になった。

(海進)

・氷期には海面が低く、本州四国九州は一つの大きな島であった。海面高度が1番低かった1万8000年前から、6000年前までの

1万2000年間に、海面高度は120m高くなった。これは1年で10m/mである。

これは目で見てわかる変化ではない。

(東京湾の埋め立て)

・埋め立ては家康入府の江戸時代から始まっている。明治時代の新橋-横浜の鉄道は海岸沿いを走っていた。東海道線の東側は

 明治以降埋め立てられたものである。

(東京湾の海進)

・氷期には殆ど陸地であった東京湾も後氷期になると海進で海水が入ってくる。東京湾北部は、前に話した「関東造盆地運動」で沈

 降を続けているので、利根川より流れ込む膨大な土砂の量をもってしても、内陸への海水の侵入を阻止できなかった。

・6~7000年前の後氷期には、海面の高さは現在より2~3m高く利根川や荒川に沿って海水が浸入した。内陸に最も海水が

 入った所は埼玉県幸手市、川越、茨城県下妻、水海道。これは縄文時代の貝塚の分布からも裏付けられている。

・海進の最盛期は7000年前で、その後海面は2~3m低下し、現在に至っている。

(関東の沖積層) 

・沖積層とは⇒①沖積世に生成した地層、地質学上最新の地層

          ②最後の氷期以後に、台地を刻む谷を埋めた大河からの堆積物 水を含んだ粘土・泥炭など。

・これは軟弱地盤。関東平野の低地を構成しているのはこの沖積層。

 地震には他の地域よりは揺れやすい。これは沖積層が軟らかい為、地震のS波の伝わる速度が遅くなるためである。

 東京の下町や、埋立地では今後が懸念される。

(後氷期)

この名称からは、氷河時代が終わったような印象を受けるが、多くの研究者の間の意見は、数万年以内に次の氷期が到来し、

従って後氷期は実際には間氷期である、という点で一致している。今後寒暖を繰り返しながら、長い目で見れば氷期に行くのか。

コメント

・地質学素人には、理解できないところが多く「記録起し」断念しようとしたが、話は面白いので続けることにした。しかし私の記録は

支離滅裂なので、後で読んでも自分ながら「何のこっちゃ」状態。継続に意味ありか。

・地質学と言うのは、気の遠くなるほど昔のことを、今の状態から調べる学問であることを再認識した