.こころをよむ「漢詩に見る日本人の心」                 宇野 直人(共立女子大学教授)

150607⑩「この道一筋に~広瀬淡窓」

豊後(大分県)日田の人。家は九州諸藩の御用達の商家(金融業)であったが、この家は読書・学問の家風。古文辞派を学び、二十代から塾を起こし、この塾が発展して咸宜園となる。病弱の為郷里に止まり教育に専念し、塾生は4600人以上と全国一となる。高野長英・大村益次郎など多くの人材を輩出。生徒の個性の伸長と社会性の養成を重んじる。履修課程や成績評価の方法は広く注目され、(出題⇒答案提出⇒採点)という試験方法は淡窓に始まった。

「広瀬淡窓」

日田は天領であり、九州各地から人が集まった。彼は2歳で習字を、6歳で和歌、歴史故事、漢詩を学び始める。23歳で家督を弟に譲り、勉学・教育に専念。家塾であった「咸宜園」は空前の活況を呈した。61才の時、幕府はその功績を称え、士分とし名字帯刀を許される。

「教育方法」

・塾生を出身や社会的立場で差別せず、塾では全員に役割分担を与えて、社会性と有用性の育成を図り、実社会で役に立つ人間を作ることを目指した。淡窓がもう一つ重視したのは、「詩文」であった。「詩を作るものは温厚融通性があり、作らないものは無粋で役に立たない」とした。

「詩」

当初古文辞派(唐の漢詩を最高とする復古主義)を学んだが、その後考えは変わり「人の情を述べるのが詩であり、情の表現の巧拙が詩の評価を決める」とした。淡窓の詩で最も有名なものは、七言絶句の連作「桂林荘雑詠 諸生に示す四首」である。特に其の二は、日本の漢詩全体の中で特に人口に膾炙している。

   桂林荘雑詠 諸示生 七言絶句

其の二

休道他郷多苦辛  ()うを休めよ 他郷()(しん)多しと      一旦学問に志したなら、他郷で学ぶのは辛いなどと言うのは止めなさい。

同袍有友自相親  同袍(どうほう) 友()り (おのず)から相親しむ      友と暮らして、親しみなさい。

柴扉暁出霜如雪  (さい)() (あかつき)に出づれば  霜 雪の如し  柴を編んだ質素な扉から夜明けに出ると、霜が降りていて雪の様だ。

君汲川流我拾薪  君は川流を汲め 我は薪を拾わん     君は川の水を汲め、私は薪を拾おう。

淡窓の塾は全寮制で、各自役目を与えられ塾の運営に協力し合った。その塾生たちに意気高く頑張れと、激励しているのである。

其の三

遥思白髪倚門情  遥に思う 白髪 門に()るの情    遥かに思いを馳せる 白髪の母が家の入口で待っていてくれる其の気持ちを

留学三年業未成  留学 三年 業(いま)だ成らず          他郷で学ぶこと三年 其の成果はまだ挙がっていない

一夜秋風揺老樹  一夜 秋風 老樹を揺がし          今晩 秋の夜風が庭の老木を揺るがし

孤窓欹枕客心驚  ()(そう) 枕に()って (かく)(しん)驚く        淋しい窓ごしに 寝ながら 不安におののいている

塾生の不安な気持ちを、塾生に成り代わって詠んだもの。長い塾生活で勉学が捗らないことに不安になることもあるだろう。それを思いやり励ます意図を以って詠んだもの。学業が捗らず、親孝行が出来なくなるのではないかと恐れと不安を述べている。

・第一句 倚門  母が門の所で子の帰りを待つ形容。「戦国策」に見える故事⇒倚門の望

・第三句 ここには成語「風樹の嘆」が織り込まれている。 父母が亡くなって孝行が出来ない嘆きを意味する語。

其の四

長鋏帰来故国春  長鋏(ちょうきょう) 帰来(かえりなん) 故国の春            「長剣よ さあ帰ろう 春の故郷へ」

時時務払簡編塵  時時(じじ) (つと)めて払え 簡編(かんぺん)(ちり)         故郷に帰ってからも いつもつとめて書物を開きなさい

君看白首無名者  (きみ)()よ 白首(はくしゅ)にして名無き者         君は見るがよい 白髪になっても名をあげられないあの男を

曽是談経奪席人  (かっ)て是れ 談経(だんけい)奪席(たっせき)の人           彼はかってはこの塾で経書を語り 上席を奪った秀才だったのだ

塾を去って帰郷する門下生に、はなむけとして送った詩。

・3句~4句     卒業後研鑽を怠った男の末路を述べて、学問は一生の続けるものだと戒めている。

・談経奪席の人  四書五経を議論し、優秀な成績の人

・白首        白髪

・簡編  書物の事

   隅川雑詠五首  七言絶句

其の二

少女乗春椅画欄  少女 春に乗じて 画欄(がらん)()る     娘が 春に浮かれて 彩の良い欄干のそばに

哀箏何事向風弾  哀箏(あいそう) 何事ぞ 風に向って弾ず     どうして悲しい筝の調べを 風の中でひくのか

遊人停棹聴清唱  遊人 棹を停めて清唱を聴き      舟遊びの人は舟を停めて 其の澄んだ歌を聞いている

不省軽舟流下灘  省みず 軽舟の下灘に流るるを    気が付かないのだ 自分の船が下流の早瀬に向かっているのを

のどかな春の日、隈川の岸辺の高欄で娘が筝を奏で、きれいな声で歌を歌っている。舟遊びの人は聞き惚れて、下流の早瀬に流れているのに気が付かないものだ。

ここでは美しいものに夢中になって、本来なすべきことを忘れてはいけないという教訓の詩。

・隈川 日田を東西に流れる川

・下灘 下流の早瀬 危険な急流

   詠保命酒 為備後中村氏  雑言古詩

東坡僅三萑     東坡(とうば) 僅かに 三(しょう)              蘇東坡は 小杯に三杯まで

太白乃一斗     太白 乃ち一斗                 李太白は 何と一斗飲む

惟酒不同量     (ただ) 酒は量を同じうせず            酒を飲む量は 人によって違う

我似蘇家瘦     我 蘇家(そか)(そう)に似たり             私は蘇東坡に似ている⇒少ししか飲まない

独愛君家保命酒  独り 君が家の()(めい)(しゅ)を愛し         私は君の家の保命酒が好きで

僅傾半盞便怡神  僅かに半(せん)を傾けて便(すなわち)ち神を(よろこ)ばしむ 小杯に半分頂くと もう心が愉快になる

請看甘露仙奬味  ()()よ 甘露(かんろ)仙奬(せんしょう)の味            試してみよ 夢の様に素晴らしいこの味を

不属鯨吸牛飲人  (しょく)せず 鯨吸(げいきゅう)牛飲(ぎゅういん)の人            此の酒はただがぶ飲みする人にはお勧めできない  

備後の知人(中村氏)より保命酒を送られて詠む。酒の故事  淡窓は少量の酒をたしなむ

・保命酒   備後鞆の浦の薬酒

・蘇東坡   北宋の詩人  「赤壁賦」で有名 酒好きで有名

・三(しょう)     小さい杯三

・盞       小さい杯

・甘露      仏教用語 天人の飲む美味な飲み物

・鯨吸      クジラが海水を飲むように沢山、酒を飲むこと  杜甫の「飲中八仙の歌」からの引用⇒「長鯨の百川を吸うが如し」

・牛飲      夏の桀王の故事より 豪飲すること⇒牛飲馬食

   唐津   七言律詩

肥前大村藩の招聘でこの地を訪れ、「虹の松原」の景勝を詠んだ

此是今游第一奇  此は是れ 今游(こんゆう)第一の奇なり       この地こそ 今度の旅で最も素晴らしい所である

虹林風景久聞知  (こう)(りん)の風景 久しく聞知(ぶんち)す         虹の松原の風景は 聞きしにまさるものだ

紆余海学佳人態  紆余(うよ) 海は佳人の(たい)を学び        ゆったりうねる海は 美人の仕草を真似るようで

偃蹇松含傲士姿  偃蹇(えんけん) 松は傲士(ごうし)の姿を含む        すっくと高い松は 高い志の男の姿を思わせる

無復繁華通外域  ()繁華(はんか)外域(がいいき)に通ずる無きを     この町の賑わいが他国にまで伝わることはないが

独特清麗圧西陲  独り清麗を特って西陲を圧す       その素晴らしい景色で九州を圧している

尋思昔日投詩処  昔日(昔日) 詩を投ずるの処を尋思(じんし)して     昔 この地を詠んだ詩を思い起こして

落雁声中立少時  落雁の声中 立つこと少時なり       舞い降りる雁の声の中で 暫し佇んでいた

・唐津     肥前、玄海灘に臨む港町。城下町として知られ、唐津焼が有名。

・虹林     唐津湾に拡がる虹ノ松原 日本三大松原の一つ

・紆余     曲がりくねる

偃蹇(えんけん)    高い様、盛んな様

傲士(ごうし)    志の高い男

西陲(せいすい)    西の果て 九州を言う

落雁(らくがん)    空から舞い降りる雁

   七十自賀   七言絶句   七十 自ら賀す

文章九命古来伝  文章の(きゅう)(めい) 古来伝う           文章を作るものには昔から九つの不幸があるという

常恐身無福寿縁  常に恐る 身に福寿の縁無きを     常に心配であった この身に長寿の縁はないものと 

七十自嘲還自賀  七十 自ら(あざけ)り ()た自ら賀す      それが七十になり 苦笑いしたり 喜んだり

不才翻被老天憐  不才 (ひるがえ)って老天(ろうてん)(あわれ)まる       才能がないので 却って天に同情されたのだ

文章(ぶんしょう)(きゅう)(めい)    詩人・文人が辿る九つの不運  故事に在る「貧困・夭折・・・・・」

 

「コメント」

広瀬淡窓は江戸時代末期の儒学者で、多くの人に影響を与えたとされる。寧ろ教育家というべき。各藩にこういう人たちが、競っていた。これが明治維新になり、急速な近代化に大いに寄与した。全国の藩の数は282.

広瀬淡窓は私塾であるが、各藩には藩校があった。これがのちの、各県の代表的旧制中学の基になった。いわゆる県立一中。