私の日本語辞典「歌と生き、言葉を究めて六十年」   歌人 日本文芸家協会理事長 篠 弘

1508015③「短歌評論への取り組み」

仕事のかたわら短歌評論を、若くして始めたことについて。

短歌評論への取り組み経緯(動機と課題)と、自分の歌作や仕事との関わりについて。

 

「秋山」

篠さんは自分の歌の道、歌を創作すると共に歌論、評論活動と言うのを主導的にやってこられた。其れから小学館では出版活動とか

国語辞典などの仕事を編集者、ジャ-ナリストとして直接係わっていて前回の第2回の所では、出版社での国語辞典から百科事典にかけての発想と言うか、どのような構えで仕事に取り組んだかなどの所まで話は行った。国語辞典での編集の考え方、例えば現在一番よく使われる項目から先に出して来るという風に、時系列と言うよりは、又語源学的な方法ではなくて新しい時代のものから出してくるなど、そういう事を含めて編集したことを聞いた。百科事典についてはいわゆるラル-スという仏の百科事典の権威があるが、その考え方をくみ取って新しく作って行こうという構えでスタ-トしたという事を聞いた。その辺りからもう少し話を聞いて行きたいと思う。

「昨日の画」という第一歌集に「ラル-スの言葉を愛すと私はあらゆる風に乗りて種まく」こういう非常に爽やかな前向きなそういう歌がある。これはとても颯爽とした感じだ。

「篠」

この時代はとにかく仕事が激務で、そして近代短歌史という毎月30枚の連載を昭和30~33年頃、途中で他の企画も入ったので中断したこともあったが、主として百科事典の激務の最中に係わっていた。時間がとにかくなくて私事の暇が取れなかった。

「秋山」

百科全書派の歌集の中に卓上の灯を大輪に咲かしめて夜半を生くる刻のさびしさ」 これは仕事から帰って必ず自分の机に

向かって文章を書いたという二重生活を歌ったものですね。

「篠」

その時間だと夜は1時間とか2時間がせいぜいだった。ともかくも中断せずに歌を詠んでいたとはいえる。

「秋山」

中断せずに評論はやっていたという事ですね。

「篠」

角川の評論は連載ですから、中断は出来ない。

「秋山」

夜は歌を詠み、評論をやり、昼は国語辞典を作り百科事典を作ったのですね。

河盛さんのアドバイスもあったのでしょうが、辞典作りの勉強の為にラル-スに行ったのですか。

「篠」

最初に行ったのは1964年も東京オリンピックの年。フランクフルトで世界Book Fair(世界の出版社が版権の取引をする)の途中で訪問。

河盛さんのアドバイスでラル-スを参考にするという事になった。日本百科事典は36万部売れて最終的には130万部の大ヒットになった。

「秋山」

その編集の時に当然日本語として出版するときの言葉が関わってくるが、その辺りのご苦労はどうだったのですか。

「篠」

・編集方針は言ってみればナショナリズム、日本人の美意識、感性を大事にして真に求めている知識を出そうという考え方であった。

その為に構文の立て方、行数配分、全体を14巻にするというので余り大きくならないように気を配った。

・気を付けたことは、戦前生まれの人にも役に立つ、又その人が子供に教えると問題が起きる、例えば仮名遣い一つ見ても違うから。そういう戦前生まれの人にも役に立つ、それから今の現役で活躍している人たち、又少し勉強すれば中学生・高校生でも理解しやすいようにしようという学習性と、知識欲と好奇心を満足させ、学問的知識をベ-スとするが、学校で教えないことも入っているような年代差つまり学識経験者が使う百科事典ではなくて、子供も親もそして爺さん婆さんも使えるという三世代使えるという観点を出した。

もう一つは日本的アングルを大事にしようという事で、とにかく日本の美術史、文学も大事にした。動植物の解説でも最後に一行取って、俳句を添えることにした。そうやって動植物のイメ-ジが俳句から分かるような遊びも入れた。

「秋山」

そうすると動植物の説明だけでなく、人間との関わりのイメージが膨らむという事ですか。

「篠」

もう少し詳しく言うと一つの項目、例えば椅子。既存の百科事典では、椅子に精通している人に構造的なことから全部ちゃんと書かせる。

私の方はそういうのではなくて人間との関わりとか、風物詩と言うか、話題と言うか、構造と歴史と風俗とか、新しい椅子のデザインとか。そういう日本人と椅子との関係については、椅子の構造だけの人には書けないものである。言わば雑学的な知識である。

「秋山」

文化史ですね。

「篠」

4~5人が50行持ちながら一つの項目を書くという方法を取った。魚の鮎でも、魚類の専門家に書いて貰う部分は当然であるが、

釣り方・料理方法とか日本民族との関わり、風土との関わりとか全般的に見る角度で作ることを考えた。それが良かったという事でしょうか。難しい百科事典ではなかったという事。次に「ジャポニカ」「ニッポニカ」というのを作った。

「秋山」

歌集「緑の斜面」の中に「ジャポニカがブ-ムを呼べり命名は明治の辞書より頂きしもの」がありますね。

仕事の一連は非常にハ-ドなものだったと思うが、そのことに重ねて内心の苦しみと言うか、

例えば「若者が語彙少なくてトゲなせる物言いをする淋しきまでに」

「篠」

この歌は大岡信さんが新聞に引用してくれた歌で、仕事の中で経験したことである。若い人は仲間内とか、少人数で会話すると割合

細かい話が出来るが、立ちあがって正式にものを言うと駄目になる。基本的には語彙力の不足、弁論力の不足である。

「発言は許しかざりし人一人憎むにあらず言葉は悲し」

これはやはり言葉不足の事を歌っており、語彙不足の人を憎むわけではないが・・・・。

「秋山」

「読み合わす校正の声弾み合う編集室の夜半はこだます」

是なんか仕事に集中している様子を表してますね。

「篠」

企画を立てる事よりもそういう労務管理、語彙不足の若者対策、人事管理、更には仕事の進行管理が大変。必ずうつ病などが出てくる。

「秋山」

「企画練る他なき我に守られてコピ-の線を黒蟻走る」

「相続く夜業の切れ目出でて来る神保町街コ-ヒ-匂う」

「篠」

塚本邦雄、寺山修二等は昭和30年頃に現代短歌活動を行った。彼らは終戦直後の歌とは違って、少し美意識の強いモダニスティックな歌を作ろうという運動体を形成した。それに私も参加して岡江隆さんや馬場あき子さんたちと一緒に活動するが、そういう時代でもあった。短歌も威勢のいい時代であった。

「秋山」

研究会、そして色々と活発な議論をしたのでしょうが、そういうものを経て篠さんの歌論と言うか評論活動というか充実していくが詳しくは

次回にお聞きしましょう。


「コメント」

何かしら歌人と言うより、大手出版会社の花形編集者の自慢話の雰囲気。

又私が言うのもなんだけど、出てくる歌ももう一つ面白くない。歌壇でも、大手出版社のえらいさんの御威光ではないだろうけれどもそんなことをふと思わせる。