私の日本語辞典「歌と生き、言葉を究めて六十年」   歌人 日本文芸家協会理事長 篠 弘

                                         聞き手 アナウンサ- 秋山和平

150822④「自作でめざしたもの」

篠さんの自作の歌を取りあげ、目指していた試みを具体的に紹介して頂く。

「皮膚感覚、行動間隔、日常の事実、人間関係を詠む、同視力を大切に」等歌作りについて具体的

事例を伺う。

 

「秋山」

篠さんは歌人であって且、歌に関する歌論、評論活動で指導的役割を果たしているし、一方では昭和30年代~50年代にかけて幅広く出版社からの百科事典の編集と言う仕事をやって、その後は大学での教育と言う事をされた。

今までの2回の放送で歌の道との出会い、小学館での出版事業のお話、今回はもう一つの大きな柱である歌についての論述、

そういうものを少し紹介しながら歌についての篠さんの直面してきた課題や考えを述べてもらう。

 

1~2回目は卒業論文での京極為兼の話を聞いて、その時既に中身が評論的であるとの評価を受けて、それが大学や企業に紹介されていた。経歴を見ると当時から短歌の雑誌に評論を書いておられるのですね。

「篠」

当時角川の短歌雑誌の編集長をやっていた中井 英夫は私の短歌評論を読んで、「4~5日でもう10枚書きなさい」と。それは20枚を30枚にしてもっと自分の意見を入れなさいという事。その時いたのが、もう亡くなったが前 登志夫さん。その時私は短歌で賞を貰っていたが、中井 英夫と言う人は、若者を育てるために又雑誌が売れるために人物を見て、これは短歌作家一本これは評論一本やりと決めて育成し、突出させようとの考え方であった。塚本邦雄、寺山修司には文章を書かせないで歌一本とした。私には評論一本。

(近代の短歌史)

私には今まで新聞・雑誌に掲載された短歌作品の裏側の短歌史を書けという事になった。その時々の選者が、どのような歌を選んで、投稿した人たちの歌のレベルを上げようとしたかを調べて書けという事であった。それは明治から昭和まで。これを7~8ヶ月やった。図書館に行っては、明治大正昭和の新聞を読んだものである。それで近代の短歌史を支えた民衆の力と言うものをはっきりと位置付けることが出来た。特に明治40年代からの石川啄木・土岐善麿・北原白秋・若山牧水などが活躍する時代は、今までの師匠と弟子という関係で動いていたのが、新聞雑誌が若手歌人の育成に大きく力を発揮した。これらの事を「近代短歌と民衆」というタイトルで書いた。

「秋山」

篠さんの評論活動の中の、最初の一番大事なテ-マが現代短歌と近代短歌の変わり目をどこに置くか、もう一つは近代短歌と言うのはどこから始まるのかという事ですね。

「篠」

それは明治40年頃と言える。自然主義文学が、即ち日露戦争後の戦後文学であると思う。戦争には勝ったけれど実際には民衆の生活は苦しい。貧困と病苦と戦いながら苦闘してきた歴史を近代短歌と位置付けた。

「秋山」

そういう見方を篠さんがはっきりと提示したのはどんな場面でしょうか。

「篠」

小説の場合では、島崎藤村の「破戒」、田山花袋の「布団」とかが明治40年前後の自然主義文学の代表作。

「自然主義」 理想化を行わず、醜悪・瑣末なものを忌まず、現実をあるがままに写し取ることを目標とする立場を標榜する文学。

         ゾラ・ハウプトマン   田山花袋・島崎藤村

「自然主義と短歌」という論文にも書いたが「自然主義が本当に定着したのは散文よりも私小説よりも或いは短歌だったかもしれない」

短歌は定型の形に拘りながら自分の人生、生き方を確認しながら、自分の美意識、想像力を広げている。

今時、田山花袋の「布団」、長塚隆の「土」 これら長いものを誰も読もうとしないが、長塚 節の短歌なら一寸見てもいいと思うかもしれない。明治40年代当時は、若者が競って「いかに生きるべきか、この貧困の中で」と歌っていた。

「秋山」

そうすると明治40年代から、新聞雑誌に現れている無名の人たちから、短歌の世界の厚みと言うか、下支えというか、そういう土台が

しっかり出来たという事でしょうか。もう一つ大きいのは、第二次世界大戦後の短歌でしょうか。

「篠」  (大衆社会化現象→一般読者の参加)

現代とはどこの事を云うのか、議論がある。私は1945年敗戦の歴史的区切りを文学の区切りとはしない。昭和28年頃からの大衆

社会化現象であろうと思う。女性の社会進出に伴う短歌世界への進出、朝日新聞なども作品の共選などと言う新しい方法を作り読者の紙面への参加を誘った。共選者(当時 五島美代子 宮 柊二 近藤芳美 前川佐美雄) 短歌を通じて一種の社会批判なり、社会の実態がニュ-ス、記事になっているのである。このように大衆社会化現象が顕著に起きていた。

そこまで既存の「コスモス(宮 柊二)」「未来(岡井 隆)」「まひる野(篠弘)」などの短歌結社も会員は200名程度であったが、それが急激に千人位に急膨張した。特に女性が増えた。この頃に雑誌角川短歌もスタ-トする。

「秋山」

時期的には戦後10年からの現象を一つの切れ目に現代とみたという事ですね。短歌の中身については近代短歌から現代短歌への切り替わりの変化はどういうものですか。

「篠」

中身が大幅に変わるのである。戦後短歌を担った人達、例えば宮 柊二さん。この人は土屋 文明の弟子と言う、近代短歌の流れの中の拘束状態の中でどうも歌が淋しい。生きてる悔しさ、寂しさ、虚しさ、はかなさ、結局そこに行きついてしまう。歌がどうしても小世界に止まってしまうという明治40年代のあの自然主義の孤立感・厭世観、そういう所に熟成し落ち着いてしまうのである。

「秋山」

それは篠さんの「現代短歌史」にも出てくるが、第二芸術論とか外側からの批判を受けて色々と議論が深まっていったのでしょうか。

(第二芸術論)

桑原武夫か唱えた。俳句という形式は現代の人生を表しえないなどとして、俳句を「第二芸術」として他の芸術と区別するべき。近代化している現実の人生はもはや俳句という形式には盛り込みえず、老人や病人が余技とし、消閑の具とするにふさわしいものである。

これに短歌も巻き込まれて、第二芸術とみなされる雰囲気が出た。

「篠」

第二芸術論と言うのは、私もそれについて論文を沢山書いたけれども、非常に意味があった。意味があったけれどもそれぞれの意見には欠点があった。気分として新しい短歌が生まれなければ滅びてしまうだろうと、文化論みたいな感じが一世を風靡したのである。

私も古来のじめじめした、デレデレした調子の物淋しい口調には賛同しがたい。孤独な歌、淋しい歌、物哀しい歌、流れとして情緒的になっていた。終戦後活躍した人たちにも疲れが出て、息切れしたのである。

「秋山」

で、塚本邦雄、前 登志夫,岡井 隆などが出てくるのですね。

「篠」

こういうリアリズム系ともモダニズム系も一緒になって想像力の拡大というテーマに入っていく。主題を持つ、もっと想像力豊かで明るい詩的なイメ-ジにしようではないかと。例えば前 登志夫の「山に生きる,吉野の風土に生きる」 これは息苦しさとある責務と、如何ともし難い日本人の感性みたいなもの。大きな次の物に挑戦していく飛躍力、演技力、歌にある種のドラマ性を持ち込むとか。寺山修二の土俗の追及とか。想像力の拡大とテ-マ意識、それから私。

ありのままの自分よりはこうありたい自分、自分の知らなかった自分、そういう自分(私)の拡大というか。

ありのままの自分は幾分淋しい自分である。日記を書く時は大体人は感傷的である.昭和28・29年からの動きは私の拡大・拡充、もう一人の自分を探るとか、そういう意識に変わっていった。これが現代短歌運動として昭和30~40年代前半まで行く。その中で私はモダニスティクで派手な比喩的表現などを使った歌の方向は取らない。しかし主題は現代人の人間関係に置いた。この辺は塚本・岡江・ましてや寺山とは違う。そういう主題を現代の人間関係に置き人間を歌う。これは窪田空穂・土岐善麿からの歴史かもしれない。

「秋山」

徹底して生きながら人間関係を主題にした歌と、もう一つ篠さんの場合、言葉で感じるのは都市生活者としての視点と言うか発想と言うか、そこに生きる命と言うか、それを意識していますね。

「篠」

そこは職場の人間関係とは又違って、神保町だけではなくて人と一緒に行く銀座であったり場所が色々と点在するがそこでの人間関係の視点と言うのを出すようにしている。しかる後にもう一つ、都市生活者のモダニズム、やや一人飲んだくれてる辺りが物を作る為に考えているような、楽しんでいるような歌があるかもしれない。

「秋山」

仕事とは少し違うかもしれないが、「ソフトランディング」という歌集の中、「東京は故郷にして綺羅多き神保町駅のA8を出る」

つまり都市の中を生きてる、動いている人間の様子として描いているのですね。

「篠」

A8という地下鉄の表示、例えばA8と言うのはA1とかA2.、A1とかA2はすぐ分かるがA8というと特殊なところになる。外れた所に

なる。こういう表示を詠むというのは恐らく初めてであろう。

「秋山」

「地下鉄を登りつめたる勢いに手のひらほどの水溜りを蹈む」

「篠」

これは都市生活の一風景。

「秋山」

「ここよりは逃ぐる場の無き昼時をすずらん通の裏歩みいづ

これは「濃密都市」の中にある。これなんかも街の中。

「篠」

すずらん通は神保町の裏通り。東京堂とか、中華料理の揚子江とか、郵便局とか。戦前からの店が多い。歩いているとああ、古い明治時代からの神保町があるんだと感じる。

「秋山」

評論の関係でいうとこんなのもある。「今にしてなお歌論集漁れるは幾人あらんこの古書街に」

「篠」

昭和30年から古書街を歩いているので、歌論集は一番私が集めているのではと思う。必要に迫られて。

 

「コメント」

・対談の形の記録を造るのは初めて。講演に慣れているはずの篠弘の話が、時には滑舌も悪く聞きづらく又論旨不明確なのには

驚く。筋書きが対談なので、あらぬ方に行くのか?

録音を聞きながら起こしていくのに、悪戦苦闘。基礎知識のなさもあるけど。私の話などはもっと支離滅裂なのだろう。

それに反して、秋山アナウンサ-のは職業柄実に明快。以前には別の講演でこのアナウンサ-が変にまとめるのが気に

なったのに。やる事が変わると感じることが変わる例です。

・前回も感じたが、この人は歌論の人。角川の平井編集長の人の見方は卓見。