私の日本語辞典「歌と生き、言葉を究めて六十年」   歌人 日本文芸家協会理事長 篠 弘

                                         聞き手 アナウンサ- 秋山和平

150829⑤「短歌を目指す人へ」

ラジオ選評の経験や大学の授業から、歌作りを目指す若い人へのアドバイスを伺う。

「秋山」

今回はもう少し創作活動の中で自分の歌をこういう所に気を配りながらやっていると、これはこれから短歌をやってみようとする人にも為になる、そういう事を具体的にお聞きしたい。大学での指導で感じた、これからの言葉指導を含めたことも伺いたい。

前回、現代短歌の中のありようとしてイメ-ジを膨らませるとか、例えを工夫して用いるような短歌の表現とか、そういう中で、篠さんの目指している所が人間関係、仕事場での人との関係や、都市の

中での姿、生きていく人間の事を歌っていくとか、そういう所に篠さんは眼を置いているとの話が

あった。もう少しそれを具体的に言うと篠さんの本「生き方の表現」の中に動詞を大切にする・

行動感覚、皮膚感覚とかそういう言葉が出てくるので、そういうものを少し具体的な話で聞かせて

頂きたい。

「篠」 短歌の歌論  

(短歌には歌論が必須)

俳句と違って短歌は歌人がいない歌論を書く。そして歌論の読者がいる。俳句は歳時記があれば

出来てしまう。

俳論などと言うエッセイは幾らでもあるが論は無い。古今集は冒頭で立派な歌論を展開している。

短歌作家と歌論は結びついている。茶道は茶室の仕組みから茶器の選択まで含めて歴史的な茶会の意味とか茶道論がある。しかし生け花にはない。短歌は常に論を伴う。そして論を伴う作家の場合でも論が先行して後から歌が付いてくる場合もあるし、作品が先行して後から然るべき歌論を示す

人もいる。それは明治40年代の近代短歌のスタ-トから常にそうであった。

(若い人に歌論が無い)

そういう歴史を持っているが、若い人の場合着想のいい新鮮な短歌が色々現れているが本格的な歌論が全くない。作品については自分の意図があるが全く理論化されていない。残念なことであるし

若い人にとっても残念なことである。これは古い歌を勉強していないことが大きな原因であろう。

(疾走する女性歌人) 集英社

女性が昭和28・29年頃から如何に現代短歌の基点になって来たかという事を述べた。女性が

リ-ダ-シップを取った時代であった。歌人の65%が女性であるが年々確実に新人が出てきている。ただ社会現象から言うと去年今年と色々と時事問題で抵抗すべき、深く憂慮すべき問題が出て

来ているのでこれからは男の出番もあると思うが。

この暫く続いた平穏な時代の中で女性特有の鋭敏な感受性を持った新人が随分出てきて、これが

現代短歌運動を支えている。だから「疾走する女性歌人」を書いた。集英社から文庫本になっている。

栗木京子と言う中堅歌人が私の本に刺激されて「女性の秀歌」で優れた歌を纏めている。大変いいことだと思う。

私のは個人別に歴史を追って位置づけをしたのであるが、彼女はテ-マ別に実作に有効な理論を書いている。

(現代短歌運動の終焉) 

私がさっき言った現代短歌運動は昭和35年までは順調に進んだが、昭和40年代初頭に一応現代短歌運動は終わる。

現代短歌運動と言うより、その主流になった前衛短歌は終わったというべき。その後は前衛意識を持って歌を詠んでいる人が多いという事になった。

現在は作品が落ち付き過ぎている。自己表現の手段を見いだせていない。

それはその頃の安保闘争や学園紛争、高度成長下、色々な社会現象に振り回されてきた人間の姿と言うのは歌に詠みやすかったと思うが、歌を詠み難い時代になったという事だろう。

(新しいリアリズム)  歌の現実 リアリズム論 篠弘評論集

この本で書いていることを簡単に言うと私は新しいリアリズムが必要なのではと思う。確実な観察力、分析力、もう一つは自分の身体で感じること。

眼で見たもの、耳で聞いたもの。万葉集などは9割くらいは視覚である。例えば

「わたつみの豊旗(とよはた)(くも)に入日射し今夜(こよい)月夜(つくよ)さやけかりけり  万葉集(1-15) 天智天皇

万葉集にはホトトギスの歌も多いがこれは聴覚である。

今は生活の中でインパクトのある、身体で、皮膚で、冷覚で、温覚で、痛覚で、きめ細かい感触で

捉えないと本音が出てこないのでないかと思う。臭覚と言うと日本人は芳るしかない。味覚も旨いか不味いかしかない。従来臭覚、味覚は食事としか思われてないので、これは歌の対象にはならなかった。

要するに身体で直に感じ取る中から本音が出てくるのではないか。それを拡大していくことが大事なのではないかという事を主張したのが新しいリアリズムである。

 

河野裕子が亡くなる何年か前に書いていたが、「今こそ、篠さんの言う身体感覚を使う事で既成の

美学をこわし、身体で感じ取ったものを詠むことが大事」という論に賛成と言ってくれた。この本で

河野裕子の歌を引用した。

ブラウスの中まで明るき初夏の日にけぶれるごときわが乳房あり」

(けぶれる)も いいが、生きている我が身の存在、自分のフレッシュな今の息使いを歌った、そういう祈りみたいなものが出ている。

君を打ち子を打ち()けるごとき()よざんざんばらんと髪とき眠る

どうしようもない家庭内トラブル。しかし翌日ケロッととしている感じが見える。生身の人間の家庭内の動きと言うのは、2人でしみじみお茶を飲んでいるのでは歌にならない。フレッシュな実感、こういうのが歌心を促すのである。

(戦争と歌人達)

今書いている、上の世代の人は戦争に行って亡くなっているが我々は疎開児童。我々の後の人は

そんなに戦争に関心がない。我々が書くしかないと思った。当時の殆どの人は戦争反対も言えず

時流に流されて生きていた、歌人もそうだし中には積極的に協力した人たちもいた。しかし秘かに

ここまではしたと言う人もいた。学徒出陣の人達の、又シベリア抑留の歌もある。

この時代の有名歌人の、中堅歌人の事も書いているが、やはり記録として残しておきたいと思っている。

「秋山」

歌集「緑の斜面」の中に「この十数年欠ける歌人と戦争に息詰まらせて今だと思う」  ????のがあるがだからその思いは未だ続いているという事ですか。

「篠」

細かいことでリスナ-に意外と思われるかもしれないが、戦争の物を読んでいると色々なことを発見する。

例えば戦争で亡くなった人の死体。これを調べてみると味方には「かばね、なきがら」と言っている。敵の場合は「むくろ、しかばね、死体」と言っている。

「自爆せし敵の(むくろ)の若かるを憐れみつつも振り返り見ず」  昭和十年 宮柊二

こういう風に昔の歌人は使い分けていた。所が今の若い歌人は「母のしかばねは……」等と詠う。

母の(むくろ)でも困るので「なきがら」として貰いたい。言語感覚の乱れの一例であるが、今まではちゃんと使い分けてきた。今若い人が過剰に敬語を使ったりするのも問題だが、語彙の選択にもっと敏感であって欲しいものだ。

「秋山」

それは日本人が万葉集以来、歌の持っている積み重ねの中に、受け継がれてきたル-ルが崩れてきているという事ですか。

「篠」 カタカナ語の乱用

その通り。もう一つ強調しておきたいのはカタカナ語の乱用。いずれ、ちゃんと書こうと思っているが、亡くなった大野さんと言う

言語学者が「百年後の日本語は英語(カタカナ語)を助詞と助動詞で繋いだものになっているだろう」と言っている。

●カタカナ語は歌の中に一箇所だけ、二か所になったらダメ。三箇所入ったら何が何だか分からなくなる

●カタカナ語と言うのは和語と違って、俳句の例で申し訳ないが「サングラス ビジネスホテル チェックイン」

  これでは誰が作ったのか、男性か女性か、動機も何もわからない。

●カタカナ語は体温、体質を伝えない。和語だとニュアンスが伝わる。作り手の美意識も含めて感性特に身体感覚が

出る。カタカナ語になるとキレイ事になってしまう。過剰に若やいだ感じになるのと、平板になってしまう。

  携帯短歌にこの種の歌が沢山ある。問題だ。

つまるところ、語彙力のなさ、和語の素養のなさは大きな問題である。

「秋山」

自分でものを見て、身体感覚でもって歌に取り組み表現するという事が現代短歌という事ですね。

「篠」

そうです。ひいては語彙力の向上、和語感覚の向上に繋げていきたいと思う。この事を歌人はもとより、一般の歌を

作る人たちも真剣に考えないといけない。更に漢語の問題がある。小学館で作った「新選国語辞典」で協力してくれた人に野村さんと言う人がいた。この人は、難しい漢語に依存すると日本語は滅びると言った。漢語、漢熟語を短歌に過剰に使う事はタブ-。

「秋山」

伝統的な過去の例でいうと、短歌の流れと言うのは和語と言うか、そういうひらがなの文化なのでしょうか。

「篠」

和語の調べである。そこに適度にカタカナ語が持っている新鮮味とかインパクトが、又漢熟語が持っている重みを

織り交ぜていくのが大事である。それで目で見てひらがな、カタカナ、漢字がバランス良くなくてはならない。見て

拒絶感を起こすものはダメ。

「秋山」

私が使う文章でも漢字率という事を言うが、自然に入っているのはいいが、過剰になると文章が真っ黒になり重くなってしまう。

「篠」

ワ-プロ時代だから若い人は、過度に普段知らない漢字を直ぐ使ってしまう傾向がある。黒々とするし、一方では

カタカナ語がカタカタしてしまう。短歌は眼で見る調べも大事である。

「秋山」

最後に一言、短歌をやる人にお願いします。

「篠」

同年代の人の、いい短歌しかも同性の短歌を熟読する事。感覚の合う歌を。あちこち乱読はダメ。

 

「コメント」

・語彙力のなさは私の辛い所で、今までの素養が現れてしまう。さりとて今からの勉強も辛いものだ。

和語の知識の乏しさも痛感する。:結局は今までの積み重ねの問題か。一生懸命辞書を引くことなのだろう。

・カタカナ語、漢熟語の事など短歌教室の先生方はもっと声を大きくしていってもらいたい。

 変なオノマトペも私は嫌い。