私の日本語辞典「暦をめぐる日本語史」     細井 浩志  活水女子大学教授

                                         秋山和平   NHKアナウンサ-(聞き手) 

150912

「秋山」

第一回は私共には難しい暦の事もあるので、基本的な暦と言うものの知識をお話しいただいた。今回から具体的に古い時代から日本の中で暦と関連する記録がどのように描かれているかをお聞きする。古い時代と言うと邪馬台国であるが、これは自然暦に近いものだったか。

「細井」

そうだと思う。魏の使者が当時の倭国にやってくるが、中国のような暦は持っていないと記録している。

「秋山」

そうすると当時の日本は天体観測のようなことはしていなかったという事か。

「細井」

もしかしたら海上交通に従事していた人々は方向を知らなければならないので、北極星を観測したり、星の名前を知っているとか、そういう事はあったかもしれない。中国の様に国として天体を観測して暦を作れるという段階ではなかった。

「秋山」

先生の論文「中国天体思想、天文思想」の倭国の天体感についての話を読むと、余り星とか天体とかに関心はなかったと書いてあるが。

「細井」

記紀神話や日本書紀を見ていると余りそういう事に関心がなかったと思う。魏志倭人伝にも書かれているが、壱岐対馬の人々は海を渡って交易を行っていたので、ここに限らず海に出る人々はある程度星を見ていた可能性はある。

「秋山」

記紀では月の事も余り出ていない。暦において月が大事と前回の話にもあったが、当時の人々はどうであったのか。

「細井」

月は海や夜を治める神とされたりしているので重視されてはいたとは思うが、記紀は政治的な目的で書かれているので太陽に較べて余り書かれていない。

「秋山」

先生の本によると日本に入った最初の暦は「元嘉暦(げんかれき)」で、この元嘉暦を使ったことが分かるのはさきたま古墳の「稲荷山古墳」の鉄剣(金錯銘を有する)と言われている。→当地の首長がワカタケル(雄略天皇)に仕えたことを示している。

「細井」

元嘉暦は律令国家が出来るまで(持統天皇)使い続けるのだが、この暦法を倭国に伝えたのは百済である。

「秋山」

江田舟山古墳(熊本県)の古墳の刀剣に「八月中」と言う文字が見えるこれも元嘉暦を使っているのか・。

「細井」

そうと考えてもいい。さきたま古墳の「稲荷山古墳」の刀剣に、辛亥年という文字がある。これは明らかに中国流の暦法である。この頃の倭国と百済との親密な関係を考えると、まずこれは元嘉暦で計算したものである事はほぼ間違いはない。

これらから大和政権のワカタケル大王(雄略天皇)に仕えた豪族が埼玉に又熊本にいたことを示している。

ワカタケルと言う人は、古代史の中では画期的な大王で何故か文字記録が残っている人である。

元嘉暦と言うのは推古朝に百済の僧「観勒(かんろく)」が天文学等と共にこれを伝えた。元々は中国の南北朝時代に南朝の宋で

使われていて、百済を通じて伝わったのである。推古朝辺りから政治体制を確立しようとする動きが高まり,天智天皇が時計を作ったという話と共に国を統治するという意味で暦の必要性が出てきたのだ。暦と言うのは時間を決めるもので、時間にのっとって国民に命令を下すための道具なのである。

「秋山」

もう一つ出てくる話として告朔(こうさく)の日というのがあってその日に朝廷で儀式を行うという記述があるがこれは何でしょうか。

「細井」

毎月、一日((さく)の日)に天皇に行政報告をする儀式があったがこのことを言う。当然関係者はカレンダ-を持っていて、

朔日が分からなければならない。カレンダ-が普及していることが統治の前提となる。

国家体制も整ってくると税も確実に取らねばならない。役人も日時を守って働かねばならない。その時に「何月何日までに税を納めなさい」とか「この仕事は何月何日までに仕上げなさい」とか指示しなければならない。国家体制を整えていくには、暦が不可欠である。

元嘉暦が入ってくる前に、中国の暦法が既に伝わっていた可能性はある。この確証は全くないが。

「秋山」

雄略天皇(ワカタケル)の頃、暦が入ってきていたという事ははっきりしているが、応神、仁徳天皇の頃あれだけ大規模な古墳を作っているのだから、暦が既にあったという事は考えられないか。

「細井」

暦なしであれだけのものは出来なかっただろうとは思うが、その資料はない。

「秋山」

推古帳に頒暦(はんれき)が始まったと言われているが、その暦を作るのは当時大変だったのでしょうね。

頒布→天皇が臣下に暦を配布する事。日本の律令制では、陰陽寮暦博士を作成し、御暦奏の儀式を経て公卿官司などに頒布した

「細井」

暦を作る人も大変だったが、コピ-を作っての配布がもっと大変だった。主に中央の役所に配り、それを書き写して下部に伝達していく。元嘉暦自体のカレンダ-が板に書かれた形で出てきて、日本最古の暦という事で有名になった。

石神遺跡(奈良県明日香)から出てきた「元嘉暦木簡」と言われるもの。これには月日があって、干支、潮汐、二十四節気、吉凶などが記されておりこれらを歴注という。持統3年(689年のもの)

「秋山」

それでは元嘉暦は日本の律令国家が出来上がる直前までの時代に暦としてその役割を果たしてきたという事ですね。

律令国家成立以後の暦はどんなになっていくのか、次回にお伺いする。

 

「暦」

若い頃出張で東南アジアに行くと各地で日本製カレンダ-を売っている。綺麗な女優さんもついているので大人気。

吉永小百合は不人気で、豊満なグラマ-な誰だったかが、引っ張りだこ。しかしよく見ると全てに会社名が

入っている。思えば現地からカレンダ-を沢山送れと言ってきた訳が分かった。