こころをよむ 「いま生きる武士道」                             講師 笠谷 和比古(帝塚山大学教授)

151018③ 戦場の精神~もののふの道、弓矢取る身の習い

今日は中世の武士の戦いの有様、その戦場の精神について話す。武士道と言う言葉であるが、厳密な意味では徳川時代とならねば出てこない言葉である。中世に武士が登場してくるとその武士にとっての規範道徳或いは社会のル-ルが自ら形成される。それは「弓矢の道」或いは「弓取る身の習い」と言う風に呼ばれたが、前回話したが武士を武士たらしめるメルクマ-クとしての騎馬弓射の術、疾駆する馬上から矢を射て戦うという戦闘スタイルにふさわしく彼らの規範は

弓取る身のならいと呼ばれていた。この弓と言うのは大事なことで後々徳川家康を「海道一の弓取」などという表現が

あるが、武将と言う事のイメ-ジとしての武士と言うものが後々まで伝えられていったということが、そのことでも分かる。

「弓取る身のならい」

これはどんなことであるのか。これは戦場において武士が弁えて置くべき作法であり、又名誉の観念でもある。正々堂々の振る舞いをし、武勲・武功を立てるという事である。しかしただ勝てばよいという事ではない。その騎馬弓射の術は高度なので幼児期から鍛錬した技を人々に見せたいという心がある。そうすると武士道と言うのは単に戦闘上の技法だけではなく、自らの技量を遺憾なく発揮するという事、一つの劇場的な性格がある。そこで一騎打ちと言う形が出てくる。

集団乱戦の中ではいかに高度な技も埋没してしまうので技量は際立っては見えない。そこで代表者による一対一の戦いが行われるようになる。その様なスタイルが主流になってくると戦いは劇的な又劇場的な要素を帯びるようになる。

具体的には述べないが様々な儀式が戦闘とは別に行われ、武士の理想、戦いの理想と言うものが出来上がっていく。又平家物語の様な叙事文学に読み継がれるという形で武士道の一つの理想的世界が作り上げられていった。

「一騎当千」 源 為朝

中世武士にとって一騎当千という言葉がある。これも又武士の勇猛果敢さ強さを表現する在り方であって、その例として

保元の乱の時に源為朝が出てくる。相手側は源義朝(頼朝の父)で、この戦いは初めて武士が政治の表舞台に出た事件であった。その戦いで為朝の奮戦ぶりは語り継がれている。しかし最後は敗れて捕われるが、武勇を惜しまれ今後弓が引けないように腕の筋を切って伊豆大島に流される。ここまでは史実であるが、為朝の英雄伝説はその後も語り継がれ、滝沢馬琴の「椿説弓張月」でいよいよ盛んに表現された。伊豆大島から八丈島を支配し更には琉球国王となる荒唐無稽な英雄伝説となっていく。

「先陣争い・一番乗り」

名誉な働きとして挙げなければならないのは一番乗りまたは一番槍という事。敵陣にまっしぐらに突進し乗り込み勇猛

奮戦する、これまた武士の理想を示すものである。

●宇治川の合戦  佐々木高綱

 琵琶湖から流れ出る宇治川は京都防衛の拠点となる。源平合戦の時、ここでの佐々木高綱は梶原景季との先陣争いを機略で勝った。佐々木高綱はひらめきがあって横を行く梶原景季に「馬の腹帯が緩んでいる」と声をかけ、この機に一気に先陣を取ったという故事。これを名誉か卑怯かという議論があったが、多くは機略としている。

平家琵琶「宇治川」として語られている。

藤戸(ふじと)の戦い  佐々木(もり)(つな)(高綱の兄)

 備前岡山児島湾の狭い水道での出来事。源平の戦いで佐々木盛綱は一番乗りを狙い水道の浅瀬の場所を土地の

 若い漁師に聞く。しかしそのことが他に漏れるのを恐れて漁師を刺殺する。一番乗りの軍功でその土地の領主となる。

 しかしこの行為は武士道に悖るとして非難された。このエピソ-ドは世阿弥が能「藤戸」として上演し、名作と言われた。            前半は漁師の母が「なぜ殺した」と盛綱に詰め寄る場面、後半は漁師の亡霊が盛綱を責めるというストーリ-。有吉佐和子が「文学版藤戸」として小説化し、オペラにもなった。文楽にも「盛綱陣屋」というものがあり、兄弟の対比が見られ、

良く演じられる。

「将を射んとすれば馬を射よ」

この事は武士道としては微妙な問題のあるところで、元々は中国の諺である。騎馬弓射の道の武士の立場からすると、

これはやってはいけないことになる。乱戦の結果としては仕方ないが意図的には武士の名に傷をつけるという事で非難されタブ-とされた。その変形として義経にも非難されるべきことがあった。壇ノ浦の合戦の時、義経は命じて平家方の水夫(かこ)を射させた。これは卑怯なこととして敵味方から大いに不評を買ったという。

「弓には神が宿る」

弓には武技であるだけではなく神の意志が宿るという観念がある。当たるというのは技量上当たるのではなくて神の心に

かなうものは当たるという観念がある。つまり正義の矢は当たるが(よこしま)な矢は当たらないというとした。

●上賀茂神社の故事

 山城国風土記』逸文では、玉依(たまより)日売(ひめ)加茂川の川上から流れてきた丹塗(にぬり)()を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂(カモ)(ワケ)(イカヅチノ)(ミコト)で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える。丹塗矢の正体は、乙訓(おとくに)神社()(いかづち)神とも大山咋(おおやまつみ)ともいう。玉依日売とその父賀茂(カモ)(タケ)(ツヌノ)身命(ミコト)下鴨神社に祀られている。

この矢と言うのは神の霊であるという象徴である。

 

弓矢を用いた戦いでは勝てばいいというという事はなくて、神の意志に応じた正しい矢筋を使わねばならない。そこから

自ずと規範、卑怯な技、卑怯な戦いは控えねばならないという事が出てきた。矢について日本独特なものに、毒矢を使わないという事がある。世界の中では日本だけで、武士の心を示している。

「主君の馬前に(しかばね)をさらす」

武士の名誉の有様として鎌倉武士がしばしば言葉にした。これは敵を一手に引き受けて勇躍奮戦し主君の前で討ち死にするという行動、これこそ武士の最も名誉な働きであるとした。武士と言うのは戦場で華々しく戦うというのが最大の課題である。一般の人と同じように、戦うのは嫌だ、死ぬのは怖いと逃げ回っていたのでは武士として物の役には立たない。死ぬべき時には死ぬというのは武士の心得である。そもそも人間と言うのは一度は死ぬ。なれば武士にふさわしい死に方をするのが名誉なことだと考えた。畳の上で病気で死ぬのは武士にとって好ましくない、残念な事とした。前田利家は関ヶ原の前年「畳の上で死ぬのは残念だ」といって死んだ。「武士道とは死ぬことと見つけたり」という葉隠は考えねばならない。

武士においては死の覚悟と言うのは常に大きな課題であり、考えねばならなかった。如何に生き、いかに死ぬかを常日頃考えて行動していた。

「主君の馬前に屍をさらす」というのは忠義の最も明確な表現であるが、現実的な利得という観点からも有利な話である。彼の子孫に対しては最大限の優遇が約束される。家筋は絶やさない配慮がなされる。これは主君の義務となっている。

討ち死にした武士は主君に忠義を果たしたと共に家を守るという父祖に対する最高の孝行を果せるわけであるから、武士にとっては理想の事であった。

 

「まとめ」

武士と死という事は色々な観点から考えるべきことであるし今の人から見れば乱暴な話と理解するだろうが、最も輝かしい死を求めたいという彼らの思いは今日においても考えるべきではないか。我々はいかに生きるべきかというのも大事であるが、いかに死ぬべきかというのも今日の社会では深刻な問題である。脳死の問題とか、植物人間とか、寝たきりの

状態であるとか、今日医療問題は様々な形で社会問題化している。かっては長命するという事が最高の理想であり求めてきた。医療が発達し、更に発達しすぎると今度は意味もなくただだらだらと生きるという状況に直面せざるを得なくなる。

望まない生まで押しつけられることを余儀なくされるという状況が出て来ている。そこで尊厳死と言うのが真剣に考えられている。人は生きる尊厳と死ぬべき尊厳を両方持っているのだ。そういう事を考えるとき武士たちの死と向き合うという姿、心の持ちようというのは、決して過去のものでも単に野卑野蛮なものでもなく、今日のわれわれと深くかかわる問題だと思う。

 

「コメント」

死についてここまで言って聴取者から文句が来ないかと思う。今は本音で言うとどこからか叱られる時代なので。私は昔から兵隊の多い熊本の育ちだし、祖父・父も職業軍人。なれど臆病者なので武士は恐い、しかし一旦なってしまえば先陣争いを真っ先にやって若くして戦死していたろうと想像する。猪突猛進と言うバタ-ン。平和な世の中で助かった。死については講師の本音に同感。尊厳死協会に夫婦で入会し、子供たちにもその旨宣言してある。しかし、いよいよ

その場になって泰然自若と出来るか、少し自信はない。