こころをよむ 「いま生きる武士道」                             講師 笠谷 和比古(帝塚山大学教授)

151025④ 明文化される武士道~「甲陽軍鑑」「諸家評定」「可笑記」

「武士道と言う言葉の誕生」   甲陽軍鑑

武士道と言う言葉はいつ頃から登場したのか。これが一つの問題となる。戦国時代から江戸時代にかけて形成されていたと言われている。それ以前中世における武士道の精神や行動規範が「弓矢取る身の(なら)い」という風に表現されていた事は前回に話した.それが戦国時代を経て徳川時代に入ると共に武士道と言う新しい表現に変わっていく。その大きな要因は「騎馬弓射」という中世武士の基本的戦闘形態が衰えていって個人戦から集団戦、更には組織化された戦いへと変わっていったことと深く関わっている。武士を表現する場合も弓矢の者に変わって槍一筋という言い方が強く出るようになる。武士はもう弓で戦うというよりも馬上ではあるが槍が主たる武器と言う形で展開していくのが深く関わっている。槍一筋という表現が次第に優勢になっていく。同時に武士の道、武者道、そして武士道と言うのが新たに登場してくる。この武士道と言う言葉と観念を世に広めた書物に「甲陽軍鑑」がある

(甲陽軍鑑→甲州流軍学書。竹田信玄の臣高坂昌信の作。信玄・勝頼二代の事蹟、軍法が中心。)

これは信玄・勝頼さらには武田二十四将と言われる武田武士たちの行動の在るべき姿そして又卑怯未練な有様が武士道と言う言葉で表現されている。書かれたきっかけは長篠の戦、武田軍団が一挙に崩壊したのが長篠の戦いである。その反省を込めてそれまでの来し方を見直し、何が武田の軍勢を狂わせたのか、その原因を縷々書き、あるべき武士の姿と、あってはならない卑怯未練な姿、そして強大な武田を崩した佞人(ねいじん)と表現されるそういうものが、甘い言葉を使いながら主将たる武田勝頼の目をくらまし壊滅的な結末に到る経緯を批判的に書いている。一般には馴染のない文献であるが、この中に軍師山本勘助と言うのが登場し大いに活躍する。井上靖の「風林火山」のネタ本と言えばよく理解できるであろう。信玄の四天王の内、三人までも戦死する事態となり、勝頼はやっとの思いで甲斐に帰国。そういう反省を込めて書かれた書物で、後に同じく武田の家臣であった小幡官兵衛がこの甲陽軍鑑を補訂して武田流軍学と言うものを江戸時代の武士に広めた。

それは「武士道の役に立つものものをば、米銭の奉行・材木の奉行・或いは山林の奉行になされ・・・・」というような表現が続く。ここでは、行財政の役人に武士を起用するのは大変宜しくないし、人材の損失であるとまで言っている。戦場において槍働きとして勇猛果敢な人をその様な仕事に充てるのは人材の損失であると強調している。

「甲陽軍鑑」は武士の教科書として人々に受容されていく。この本の中には武士道と言う言葉が30回以上出てくる。この事からも武士道と言うものを江戸時代以降広めたのは甲陽軍鑑と言っても過言ではない。

17世紀後半の元禄時代ともなると勘定奉行を中心とする行財政職は花形となり、槍働きしかできないものはいわば、役立たずと言わんばかりになっていく。

17世紀までは戦場における槍働き優れたものが真の武士であり、行財政に携わる者は戦場では役立たずという価値観が支配的であった。

「武士道とは?

この本における武士道は非常に明快である。戦場における勇猛果敢な振る舞いである。槍働きを見事に行うのは当然のことだが、卑怯未練なことなく出処進退も見事に行う、主君に対してする忠誠もそういうものが武士道と言う形で捉えられている。次のような表現がそれを表している。「人使い給う様悪しくござ候と先日も申し上げた如く・・・・」これは人事の問題であるが、人の遣い方、適材適所という事が考えられていない、この人事は良くないと言っているのである。もう一つ例を挙げる「親兄弟の仇討は、仇を取らねば武士道は廃れたり。武士道を捨てたれば、頭を張られても堪忍仕るべし。頭を張られて堪忍致すものは何とて、物の役に立たず」 武士の社会における最も侮辱的な行為を象徴的に表現する様子を表す。当時から争いを予防するために「喧嘩両成敗」「喧嘩禁止」があるので、侮辱を蒙っても反撃してはならないという風になっているので抑えて何とかその場をしのぐという事になる。甲陽軍鑑が言うのはこんな人間では武士としての役割を期待することは無理で、これでは武士道を捨てたも同然、武士として失格であると強く述べている。こんな腰抜けではお家

存亡の時に働くことが出来ようか。

「武士道の変化」

しかし「甲陽軍鑑」以降に出た書物では様子が変わってくる。勇猛果敢の振る舞いについて批判的なニュアンスが出てくる。勿論武士として勇猛果敢である事は大事だけど、外面的強さだけに力を置いただけでは充分ではないという考え方である。武士の内面に目を向けようという考え方が武士道論の大きな流れとなっていく。或る意味従来の武士道に対して批判的論調が出てくる。それは「甲陽軍鑑」の影響が余りにも絶大なのでそれへの批判が出てきたとみるべきであろう。

●「諸家評定」戦国武士の武士道 小笠原左近

 「甲陽軍鑑」と近い時代のものなので、武士道の一端は次の様な表現をされている。

「意地無き人は(なび)くまじき仔細(しさい)なれども時の褒美(ほうび)に惑わされ、或いは時の権力恐れては、今日は味方に来るかと思えば明日は敵となり世俗にいう「内また膏薬(こうやく)」という如くなるは、意気地なきゆえなり。これ武士道には忌むべき事なり。」ここでは意地という言葉が主要なテ-マとして出てくる。意地のない人間は時の権力の在り様によって風見鶏の様に態度を変える。今日コチラ、明日はアチラと走りまわるのは武士としてあるまじき行為で、自分の信念に基づいて行動すべきであると強く言っている。これこそが武士道の核心であると言っている。これは多分に「甲陽軍鑑」に対する批判であろう。武士道が人間の内面に焦点を当てるようになってきたという事は、武士道の観念が思想的に成熟してきたことを表す。この本は江戸時代広範に詠まれたという事は、当時の武士たちの学習能力、学習意欲が高かったことを物語っている。世界的に言うと戦士は読み書きが出来ないのが普通である。江戸時代の武士の識字能力と教養の高さは驚くべきものであって、これらの本を読みこんでいった。

●「可笑記」 斎藤親盛 武士の教訓書 武士の書いた「徒然草」とも

・近世初期の随筆風仮名草子で、武士道に言及している。教訓的ニュアンスを含んだ書物で、このような事をすると人の

笑いものになる、このような馬鹿な真似をすると家をつぶすという風な事を述べている。

・仮名書きで一般庶民輪も対象として内容も面白い。近世文学の源流で、井原西鶴の著作に大きく影響した。伊達正宗と対抗した羽州最上家の家臣であったが暗愚の領主が続き、廃絶となってしまう。主家の騒動を素材として当世武士の不心得を訓戒するという読み物を書いた。その中には主君を顧みない家臣たちへの批判、無能・無教養の武士のなどが描かれている。

・ベストセラ-になる。この本の中で武士道と言う言葉が10ヶ所出てくる。これが二つの点で武士道の実態を知る上で大事な手がかりを示している。一つの観点は武士道の観念についての大きな変化、或いは内面化、深化と言うのを見ることが出来る。「諸家評定」でも武士の内面、意地というものについての着目が描かれていたが「可笑記」の武士道論は一層この点を深め徹底している。

・それは「武士道の吟味」という形でこの内容についての表現がなされている。吟味と言うのは武士道と言うものを検討、分析、説明する事である。それには次の様な内容が記されている。

  ・嘘をつかず                  ・無礼ならず

  ・軽薄でなく                   ・物事自慢せず

  ・佞人(ねいじん)にならず                 ・おごらず

  ・表裏を言わず                 ・互いに(ねんご)ろにして

  ・強欲ならず                   ・大方の言葉を気に掛けず

  ・人を(そし)らず                   ・朋輩と仲良く

  ・慈悲深く                    ・義理強く

命惜しまぬばかりをよき武士とは言わず

此れはまさに武士道の定義である。武士自身が武士の言葉で武士道を定義したのである。この定義の中で重要なことは最後にある「命惜しまぬばかりがよき武士とは言わず」と明言しているが、これは甲陽軍鑑と大きく違ってきている。外面的な勇猛果敢だけが武士道でなく,寧ろ人間としても徳義・徳目がより重要であり、それを磨き涵養することこそ、武士の真骨頂であると述べている。

・もう一つの重要な視点を示している。それは武士道の一般庶民の世界に対する影響という問題がある。「甲陽軍鑑」「諸家評定」はあくまで武士を対象として、軍学の教科書として書かれているが「可笑記」は武士を対象とせず一般庶民を

対象として書かれている。日本人一般庶民の識字能力の高さを背景にして、この本が広く読まれた。

・一般庶民が武士道の概念を受容するのに大きな役割を果たした。武士道と言うのが単に武士の社会だけではなく一般庶民を含む国民各層に対して影響力を出しまたは浸透していった。徳川時代における武士道がどれくらいの広がりを持っていたかというのが、論点の重要な一つである。これまでは武士道と言うのは一握りの武士階級のものであるという通念があったが、可笑記のお蔭で一般庶民にもその概念が国民道徳になっていったことは見逃せない。それらの事をこれらの諸資料は物語っている。

「コメント」

・武士道が講師の言っている一般庶民の道徳観念にまでなっていく所が凄い。やはりそれなりの啓蒙書があったのだ。そして庶民はそれを読むことの出来る教養の高さを持っていた。これで今の日本人を作っている。しかし大分崩れて

来ているが。