こころをよむ 「いま生きる武士道」                            講師 笠谷 和比古(帝塚山大学教授)

151101⑤ 「治者」としての武士~江戸時代における分道の深化・発展

武士道の概念・内容が戦場における勇猛果敢な働きから内面的な、特に道徳性というものに移行したことについては既に話した。そしてこのような武士道概念の変容は江戸時代における武士の存在の変質と深く関わっている。徳川幕府の時代と言うのは、武士が社会における支配勢力であったにも関わらず、戦争のない時代であるという特徴があった。200年以上に渡って内戦も対外戦争もない時代である。戦争というのは1638年(寛永15年)の島原の乱、1863年(文久3年)薩英戦争、1856年(元治元年)禁門の変 まで何も起きなかった。

「武士の変質」  行財政分野への進出

200年にわたる持続的平和の中で武士はどのように存在し生きたかという事であるが、武士は本来戦う人である。ところが戦争が無い、戦争が無ければ武士はどうするかとなると自宅待機という事になる。収入は従前どおり支給される。そこで武士は世の為、人の為に、戦い以外で働くという事になる。社会システムはと見ると、戦いが無いので行財政分野が発達してくる。法の制定、治安、治水、灌漑、新田開発、防火防災…。江戸は百万都市、各地の城下町も盛んになる。これらの役割を武士が担う様になっていく。「甲陽軍鑑」では武士が米銭の奉行(勘定奉行)などになるとはけしからん、これは人材の損失とまで言っていたが、平和な時代になると武士にとって花形の役職になっていく。この際、武士は戦う事を放棄して行財政職に就くのではなく、武士としての立場、戦闘者としての本来の義務を保持したまま同時にこの役職に就いたのである。ここに当時の侍世界の独特の形がある。

・小普請役

所で行財政職のポストは潤沢にあるのではなく限られているので役職に就けない侍が出てくる。この人たちを無役といい、まるで役立たずの様な言われ方である。武士社会における内在的失業者であるが、俸禄は支給される。徳川幕府では小普請役と呼ばれ、肩身の狭い身分であった。寧ろ行財政役の方が武士社会を逆規定している状況になった。こういう状況にふさわしい倫理・徳目としての武士道が作られていく。

「ヨ-ロッパの騎士」

自分の領地を持ち、戦闘者として武装自弁で自立的に戦う立場である。時代の安定と共に戦場から離れていくという点でも武士と騎士は似ている。ヨ-ロッパでは17世紀に入ると騒乱状態から秩序の再建状態に移行する。16世紀は内乱と農民戦争時代であった。日本は戦国時代であるし、一向一揆を中心とする宗教騒乱があり、農民一揆と宗教騒乱が結合するという側面も見える。ヨーロッパでは16世紀と言うと宗教革命の時代で、農民戦争の時代でもあった。カトリックとプロテスタントの対立から発している。ここでも農民戦争と宗教戦争が連動して動いて行く。騎士は夫々の側に付き立場を強化していくのである。日本とヨ-ロッパの動きはよく似ていて16世紀が内乱と農民戦争、17世紀に入ると日本は幕藩体制で治まっていくが、ヨ-ロッパは秩序再建の時代となる。今までの封建的分散統治から絶対王政と言う王を中心とする中央集権国家によって秩序の統一が行われる。17世紀の統一国家の頂点に有名なルイ14世のブルボン王朝がある。特に吉宗の時代に日本の武士の行財政職への進出は大いに拡大し、改革も盛んに行った。例として「享保の改革」

ヨ-ロッパの場合、行財政役職は騎士とは別に制度化されており、商人・銀行家・法律家・僧侶・・がその役に就いた。

騎士はそのまま領地経営を行い宮廷貴族として生活する。この点で日本の武士とは大いに違うし、その精神風土が違う。有名な三銃士の様に、仕事をやったという事はなく恋だ冒険だと時を過ごすのが通例であった。

「家康の時代の行財政職」

基本的には武士を登用せず、ヨ-ロッパの様にそれぞれの専門家を用いた。大久保長安(鉱山開発)、角倉了以(土木→高瀬川)、金地院崇伝(外交、法律→武家諸法度)、茶屋四郎次郎(貿易)、三浦按針(外交)  

特色ある人物を登用した。この当時の武士は本来の槍働き、軍事職として遇されていた。

「秀忠以降の行財政職」

この時代から武士の進出が始まり更に拡大していく。これまでは特殊専門技能が要求される故に、その道の専門家が任用されてきたのである。しかし武士は素人である。その素人が何故行財政職に就いたのか、その職責を果たすことが出来るのか。

結論で言うと極めて日本的であるが、下級技能職を使いこなしながら努力・修練をしてやりこなしたのである。儒学は当時の武士の必修であったが、儒学は五倫五常(仁義礼智信などの徳目)を中心とする道徳の学なので人間性を磨くという観点ではいいが専門分野の力にはならない。故に経験によって身に付けていくしかなかった。

「日本特有のOJT型技能形成→ゼネラリスト」

現場において働く中から技能形成をするという、OJT型技能形成である。これは日本の社会における技能形成の特徴的スキルの磨き方の典型である。このやり方は侍の社会のみならず商家においても武士と同じように現場で学ぶという習慣が同時進行していたので、これが両々あいまって後世に大きく影響していく。このようなOJT型技能形成が日本の社会におけるスキル形成の主流になっていく。

●現在でも日本の会社においても新人は余計な色はついてない方が好ましい。白の状態で入ってきて現場で経験を積みながら段々と技能を身に付けることが推奨される。そして色々な部署を回りながら経験を積み磨いていく。そして昇進していくのが望ましいとされている。究極は社長である。ある意味ではこれが日本の社会の器用な所かもしれない。

日本ではスペシャリストよりゼネラリストが尊重されることと無縁ではない。欧米の考え方とは大きく違う。

日本社会の在り様が17世紀の侍社会の中にその違い、つまり侍の在り様とヨ-ロッパの騎士の在り様との違いに大きな分岐点を見出すことが出来る。

「武士道の変質」

このような状態で彼ら武士の意識思想としての武士道も、戦場における槍働きではなくむしろ国の又藩の行政を司る行政官としてふさわしいような倫理観念、道徳観念と言うのが求められていった。つまるところ治者としての心構え、倫理性それらを備えた武士道へと進展していったのである。これが徳川時代における武士道の発展の在り様であった。では武士であることを止めたかというとそうではない。「可笑記」であれ「諸家の評定」であれ、人間の内面性が重要であると強調されたが、強くなくてもいいとは決して言ってない。いざ戦うという武士本来の精神は忘れてはならないとした。

今日は持続的平和の中に置ける治者としての武士道という事を話した。

 

「コメント」

日本の組織はまさに講師の言うOJT型、スペシャリストではなくゼネラリスト養成が主流。専門職より総合職。

この考え方の原点が徳川時代の武士の行財政職への就任にあったとは。日本の骨格は江戸時代。

欧米との比較によるこのやり方の優劣は、判定困難だが現状を維持しつつ社会の要請によって修正しながらで

いいのではと思う。しかしここで論じられているのは、上級武士であるのは注意すべきであろう。