こころをよむ 「いま生きる武士道」                             講師 笠谷 和比古(帝塚山大学教授)

151108⑥ 生と自立の思想として~「葉隠」の誤解

(葉隠)

武士道を論じた書。佐賀藩士山本常朝(16591719)の談話の筆録。11巻。藩内外の武士の言行の批評を通じて武士の心構えを説く。冒頭の「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」は主旨が誤解され、特に太平洋戦争中若者に死を美化

させる道具に使われた。三島由紀夫も言及しているが、どうも誤解があるようだとも言われている。

 

武士道とは何ぞやと言うのも難しいが、忠義と言うのも更に難しい。今日でも会社や組織に対する忠誠心という言い方がされるが、多くの場合それは個人の欲求や感情を抑えて尽くすという滅私奉公的なニュアンスで語られることが多い。

はたして武士道における忠義と言うのは何だろうか。そこでの要諦、核心は武士道における忠義は服従の一つの形で

あるが、それは奴隷のような服従ではない。そこには個々の武士の自立の精神、自立の存在というものを前提にした上での服従であるのだというのが、大事な点である。そしてその問題を最も深く掘り下げ強調したのが有名な「葉隠」である。今日は葉隠を中心に話す。

 

「葉隠」の概要

佐賀鍋島藩士山本常朝が引退後隠棲していた頃、若い武士田代陣基に鍋島家の家風、武士としての心得等を語った。前後6年間の会話と口述を筆記したものである。出来たのは18世紀の初頭、江戸時代の中期。内容の激烈さから佐賀藩内部でも公表することがやや憚られたが藩士の間では読まれていた。この本が世間で広く読まれるようになるのは明治以降である。

「武士道・忠義を葉隠に即して考える」

・葉隠には佐賀藩の侍は切腹とか浪人とかの処置を仰せ付けられようとも謹んで受けるべきで、従容(しょうよう)として死に臨むべき。又それ程の事があっても藩の事を心に深く留めるべきで、生死にかかわらず思うのは自分の覚悟の事であるべきと言っている。これこそが武士道である。

・「仰せ付けには理非に関わらず謹んで承らなければならない」としている。

・この様な事から「葉隠」が説いている武士道とは、死を恐れず絶対服従という観念であると理解されてしまうのはやむを

得ない。しかし、読みこんでいくうちにそれとは食い違う背反する、矛盾する表現が出て来て戸惑う。

自分の心に照らして納得のいかないことはいつまでもいつまでも訴訟すべし→納得いかなければ、納得いくまで訴えるべき。→主君にも「それでいいのでしょうか。再考の余地はありませんか。お考え直すことは出来ませんか。」という事を

深く訴えることが、大切であると言っている。主君にいわれたからと言って、黙ってそれに従うのは一見忠義のように見えるけれども、それは似非(えせ)忠義であると言っている。主君の機嫌を損じ、自分の不利益になることを心配して、自分の納得しないことを見逃すのは不忠義と言っている。

「主君のお心入れを直し御国家を固め申すことが大忠義である」→主君の考えが間違っていれば、それは直して藩の

方向を固めることが忠義である。

●そうしてみると葉隠の表現は明らかに矛盾しているように見える。一方では切腹申し付けられようとも黙って従う事が

忠義であり武士道であるといい、他方では主君が間違った考えに捉われていればそれを厳しく指弾し正しい方向に持っていくのが忠義と言っている。

●講師はこれを考えるにあたって、最初の方のことには「佐賀藩鍋島家の覚悟の初門」という言葉で出て、後段の事は

大忠節と言う言い方になる。つまり、この二つを考えた場合、忠義と言っても同じではない。前段は覚悟の問題、いわゆる初門である、入門編である。それは入門的な武士道であり、忠義でしかない。切腹が出来るのは武士の基本であるが、

切腹が出来るからと言って武士ではない。それは低レベルの武士道である。高いレベルの武士道・忠義と言うのは,主君が間違っていれば身を賭して諫言することである。主君の間違いを見逃して、自分の納得しない事を受け入れるのは

不忠であるとしている。

●葉隠を読み進めていくと、この諫言という言葉にしばしば出会う。

「奉公の究極の忠節は主に諫言して国家を治めることなり」これが忠義の核心であるとしている。これを抜きにした主君への服従は、単なる媚び(へつら)いの迎合でしかないとまで言っている。これが葉隠が述べたい本質的なところである。


「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」  この事を考えてみる

冒頭にこの言葉が出てくる。この言葉だけではなく続きを読むと、死ぬことが最終目的と言っているのではない。寧ろ大事なことは「常住 死に身になれ」→死を覚悟して生きよと言っているのだ。武士というのは戦士であるから死というものを

常に離れて生きるわけにはいかない。生に執着していては侍として本分を果たせず役に立たない。ここで言わんとして

いるのは死を覚悟して生死を超えた生を生きるのだと。これを自由と言う言葉で表現している。自由の境地に到れば生

への未練もなくなり、死への恐怖も無くなる。

●葉隠が述べているのは死ではなくてむしろ生き方というべきで、日頃漫然として暮らすのではなく、生死を超越した生を生きるべしと言っている。

●自由な境地の自由とはどんなものか。今日の言い方でいうと、自然体という言葉が妥当であろう。形に捉われること

なく、ありのままで生きる。右顧左眄(うこさべん)することなく、是は是・非は非と。主君や上司の顔色を(うかが)うことなく正しい事を云う。


「まとめ」

葉隠の武士道は死の武士道ではなく、生の武士道であると考えるべき。

 

「コメント」

昔、興味をもって少し読んだが、途中で止めた。何とも説教めいていて心に響かなかった。しかし当時の武士というのは不自然な存在で、教育しあるべき論を叩き込まなければ成り立たないものであったという事。そもそも男と言うのがそういう存在なのだ。武士でなくてよかったし、しかしそれへのかすかな郷愁はある?