こころをよむ 「いま生きる武士道」                            講師 笠谷 和比古(帝塚山大学教授)

151122⑧ 国民文化としての武士道~庶民への浸透

「武士道」への批判  武士道は国民道徳ではない→この批判は間違い

今日は武士道と一般庶民との関わりという問題を見てみよう。よく言われるのは新渡戸稲造の「武士道」に対する批判として「武士道は国民道徳であったと新渡戸は言うがこれはおかしい、武士道はあくまで人口で言うと1割にも満たない武士階級とその関係者の間には有ったかもしれないが、国民道徳としての広がりなどあろうはずがない。」というもの。

この批判は全く事実を知らない人の意見で間違っている。今から意外なほど、一般庶民に広がっていたという事を話す。この武士道は勿論武士階級のものであったが、それがどのようにして一般庶民に広がっていったのか。

「可笑記」の果たした役割  作者は斎藤親盛、筆名「如儡子(にょらいし)」。

最上藩の武士であったが藩が内部抗争で潰れ、作家生活に入る。武士の不覚を批判し、こういう事をすると人の笑いものになると、お家をつぶすことになると言ったことを、ある意味自虐的に分かり易い随筆風に書いたもの。徒然草を手本に

していたので武士の徒然草という形で評判を呼んだ。仮名文字で書かれていたので庶民にも読めた。

江戸期の国文学では有名な本で、そのスタイルが近世文学の祖と言われる。井原西鶴なども手本とした。この本は武士の覚悟、不覚悟という事を述べているので、武士道と云う言葉が多く使われている。

●武士道とは何ぞや

「武士道の吟味」と言う言葉で始まって人間としての徳性、徳義というのが重要である。単に戦場においての勇猛果敢

だけが武士道ではない。こういう説明は庶民にも近づきやすい話である。この本が最初に発刊されたのは寛永年間で

あるが好評によって版を重ね庶民の間に武士道と云うものが理解されていく。

 

「武士道が庶民の間に広がっていった具体例」

●「古今武士道絵づくし」 菱川 師宣 元禄期

内容は「五条橋の牛若丸弁慶」「義経の壇ノ浦合戦」「源三位頼政の(ぬえ)退治」などを題材としたありふれた通俗的な

武勇伝である。絵が主で仮名書きによる説明がついて誰でも読める。この本のタイトルに武士道と云うのが付いているのが注目すべきである。これは武士道と云うのが庶民にも理解できたことを示している。この元禄年間には赤穂浪士の

討ち入りがあり世間の喝采を浴びたのもこうした背景があったのである。

「諸国敵討武道伝来記」 井原西鶴  

武士の道、武士の正道という言葉が見える。敵討を主題とした短編小説集で世間に伝聞した敵討を描いている。内容は、首尾よく敵を討つものもあれば返り討ちにあうものなど様々である。西鶴の中期に書かれた武家物の代表作である。

すでに西鶴は、旧作の『諸艶大鏡』や『男色大鏡』『西鶴諸国ばなし』などで武家を主題とする作品を扱っていたが、

本作では「敵討」という行為を通して冷静な目で武士の生態を描いている。

「世間娘気質」  江島 其磧(きせき)  西鶴と同時代の浮世草子作家

「果たし状突き付けられ返事の書き遅れ 武士道には遅れたりと笑うことなり」→果たし状を突きつけられたら即座に応じるというのが当然で、臆して返事が遅いのはそれだけでも武士として失格であり名折れである。

「ひらがな盛衰記」 逆櫓 浄瑠璃

文耕堂三好松洛らの合作。元文4年(1739)大坂竹本座初演。源平の合戦を背景に、木曽義仲の遺臣樋口次郎兼光の忠義と梶原源太景季と腰元千鳥との恋を中心に描いたもの。「源太勘当」「逆櫓(さかろ)」などの段が有名。

樋口 兼光「まだこの上に私が武士道を立てさせて下さらば、生々世々(しょうじょうせぜ)の御厚恩」

→生きても死んでも又生まれ変わっても永遠に武士道とその恩を立てる という事を述べている。

鎌倉三代記

歌舞伎および文楽の演目名。明和7年に大坂で初演されたが、当初は『鎌倉三代記』という外題ではなかった。作者に

ついては不明であるが近松半二その他と推定されている。現在は七段目にあたる「絹川村閑居の場」のみ上演される。

源頼朝亡き後の北条時政は、頼朝の遺児源頼家をないがしろにして幕府の実権を握ろうとし、佐々木高綱和田義盛三浦義村ら有力御家人との抗争を繰り広げ、ついには戦となっていた。

「一身五体、ずた/\になるまで切って斬り死に(はかりごと)の先途を見ず、相果つるも武士の意地」→この身体がずたずたに切られ、計略の行方を確認できずに死んでしまうのも武士の在り方である。

付随的に言えば、この鎌倉三代記は「当て込み」で、大坂の陣の家康と秀頼の政治的確執の話を裏で表している。

時政→家康 頼家→秀頼 佐々木高綱→真田幸村  佐々木盛綱→真田信幸  時姫→千姫

この当て込みの手法は忠臣蔵でも使われていて時代を南北朝時代に設定して当局の統制をかいくぐっている。ここに

江戸時代の浄瑠璃作家の腕前を見ることが出来る。

吉良→高師直 浅野匠頭→塩谷判官 

 

以上の様に武士道と云う言葉が文学作品、浄瑠璃などの中に使われている例は他にも多く、一般庶民は武士道と云う

言葉を身に付けていた。

新渡戸稲造の「武士道」には「葉隠」も出てこなければ「甲陽軍鑑」もない。彼が武士道の例証として挙げたのは浄瑠璃・

歌舞伎の世界としての武士の物語であった。例えば忠臣蔵・菅原伝授手習鑑・・・。

これらの中から忠義とは、犠牲の精神とは、こういうものことを例証を挙げて武士道とは何ぞやと論じている。

武士道書に書かれていることも大事であるが、このような大衆芸能は繰り返し上演され、一般庶民に武士道を浸透させるのに大きな影響を持った。

 

「意地」  武士の本質

鎌倉三代記に「一身五体、ずた/\になるまで切って斬り死に(はかりごと)の先途を見ず、相果つるも武士の意地」

ここに意地と言う言葉が出てくる。特に前述の「諸家の評定」の中に意地と言うものが描かれている。そこでの意味合いは、武士道と云うものは戦場における槍働きも大事であるが、それにもまして重要なのは内面的な意地と言うのが武士道の核心であり、武士の強さの本質を表すと述べている。逆に言うと「意地無き人」というのは「己の考えもなく時の褒美(ほうび)に迷わされ権力を恐れて右顧左眄(うこさべん)し信念に依らず外面的な利益に影響され権力に屈服する人」として描かれている。まさに風見鶏である。

波に漂う木の葉に様に頼りないものなのである。自己の信念に基づいて行動し、それが真の武士でありまた武士道の

本質と強く主張している。意地と言うのは含蓄に富む言葉で日本人の精神或いは武士のエ-トスというものを考える時見逃せない概念である。儒教にはこの考えはなく、日本在来の言葉である。泥臭い雰囲気はあるが、日本在来の精神を

表現する大事な言葉である。

意地とは?

中々説明しずらいが、日本人であれば自らある種の具体的イメ-ジが浮かんでくる。

例えば

・「阪神が最後に意地を見せた」スポ-ツ新聞

・「忠臣蔵意地の系譜」 映画のタイトル

・意地っ張り・先輩としての意地・意地でもやり通す

・意地わる・意地がない

これはネガティブな意味であるが、意地と言うのはポジティブなものであるという事を前提とした表現である。

英訳すると Pride  Fighting  Spritsなどがあるがどれもぴったりしない。

・意地にはその前提に極めて困難な状況、追い詰められた状況にも拘わらずそれを乗り越えて行くという一種日本人的なエモ-ショナルというか、その様なものがこの言葉にはふさわしい。単に頑張るだけではない、勇敢に進むだけではなく、悲劇的な状況を受け止めながら、他の人なら見て見ないふりをして逃げ出してしまうことかもしれないが「私は逃げない」と。

悲劇的な状況を前にして立ち向かう、そして乗り越えて行くというスト-り-がこの言葉の中には含意されている。単なる

お気楽なガ゜ッツではない。この言葉は武士道を考えるうえで不可欠で重要なキ-ワ-ドである。

・今重要な言葉がドンドン失われているが、意地という言葉が消えてしまわないように期待する。

●意地に近い言葉 広辞苑

・気概   困難にくじけない強い意気。気骨。いきじ。

・信念   ある教理や思想を固く信じて動かない心

・気骨   自分の信念に忠実で容易に人の意に屈しない意気 

・骨のある奴

 

「まとめ」

結局、意地はこれらの言葉を超えた概念である。武士道を考えるときに、意地という事をまず念頭に置けば自ずと理解できるであろう。

 

「コメント」

かなり我田引水で国粋主義的で一般の人には馴染みにくい考えであるが、私には90%同意できる。まさに肥後の

古武士を表す「肥後もっこす」の一端を示している。親からの先輩からの薫陶はこの精神から来ている。

「意地のないやつはつまらん」