こころをよむ 「いま生きる武士道」                           講師 笠谷 和比古(帝塚山大学教授)

151206⑩ 女性と武士道~武士道の主体としての女性

女性が活躍する舞台があって女性の武士道と云われるが、果たして厳密な意味で武士道と規定できるかについて話す。

「巴御前」

まず女性の武勇の典型は源平合戦の頃活躍した巴御前がある。木曾義仲の側にいて義仲と共に奮戦するが敗れ義仲は戦死し、故郷の木曾に落ち延びる。この話は語り継がれ能の「巴」というもので残っている。

(あらすじ)

旅の琵琶湖畔で、いわくありげな里の女にであい、その地が木曾義仲の終焉の地であることを知る前段、里の女が義仲の愛妾である巴御前の亡霊であるとわかる間狂言部分、巴の霊が義仲と最期をともにできなかった無念を語り、

女武者としての奮闘を舞う後段からなる。

「ジャンヌ・ダルク」 ヨッロッバの例をあげてみる。

15世紀フランスはイギリスとの百年戦争の為に侵略され、滅亡寸前であった。ジャンヌは神の啓示を受けたとして騎士の姿で戦い、勝利し救国の英雄となる。しかし後捕らえられ宗教裁判で異端の魔女とされ火刑となる。これは男装する騎士で勇猛果敢に奮戦するのは魔女の証とされたからである。

ヨ-ロッパの騎士堂は女性を尊重するが、あくまで保護し庇護する対象であって男勝りの働きは魔女の仕業とする。

この背景にはキリスト教のマリア信仰があり、女性をマリアの化身として崇める。しかし男性によって保護されるべき存在であるという抜きがたい通念があった。

「富田信高の妻」

関ヶ原で東軍に属し籠城して奮戦したが敗色濃厚だったとき、若武者がこの形勢を逆転した。富田信高の妻であった。

「美にして武なり、事急なるを聞き単騎にして出づ、鎧冑鮮麗、奮然衝昌、衆皆目属す、遂に信高を扶く…」

加々見(かがみ)(こきょう)錦絵

歌舞伎の演目のひとつ。人形浄瑠璃加々見山旧錦絵』の一部を歌舞伎として脚色したもの。

『加々見山旧錦絵』のほうではこの加賀騒動に脇筋として、局岩藤、中老尾上、その下女お初の三人をめぐる筋を六段目・七段目にかけて加えており、当初よりこの部分が好評で、本来の加賀騒動に関わるほかの段は廃滅した。そして

これが歌舞伎に取り入れられ、いわゆる鏡山物として上演を繰り返し現在に至っている。女性による女性の仇討の物語。これは単なる芝居話であるが、本当の女性の仇討はあったのかどうか。

「松江 松平家家老の家訓の本」

彼には娘二人、この本で娘への武士の娘としての心得が書かれている。

「なぎなたは女も習うべき。甲冑の着方も覚えなさい。小太刀ではなく刀の遣い方を習うべし。武士の娘は男に負けるな・・・」

女は男と同じように生きるべし。体は違うが、志において男に劣ることはない。しっかりと武士道を身に付けよ。

「静御前」

義経の愛妾で、白拍子。舞の名手。能「吉野静」 義経が兄である頼朝との不仲が決定的なものとなり京都から落ち延びる際に登場する。頼朝の命を受けた土佐坊昌俊が京都堀川館を急襲したとき、静は気丈に活躍したと描かれる。

静は薙刀を手に奮戦したと伝わる。薙刀はもともと男の武器であったが巴御前、静御前がイメ-ジが強くてその後女性の武器となった。

 

この後は、江戸時代の女性は自由活発、自己主張が出来たとして「役者買い」「気ままな買い物」「芝居見物」「三行半」の例をあげての説明。明治時代以降の女性は近代化によって却って忍従で不自由な生活となった理由→近代化によってヨ-ロッパの騎士道から続く家父長制のナポレオン法典の観念が入り、女性を尊重はするが保護、庇護の対象とした。

これが日本の民法のベ-スとなったので以降の女性は抑圧されてきた。

「コメント」

テ-マの「女性と武士道~武士道の主体としての女性」はどこに行ったの。この講師はテ-マ不在で脱線が得意。

学者ではなく雑学物知りのおじさんの話みたい。NHKカルチャ-を色々聞いていると、自分に合った興味のあるテ-マで、いい講師に会えるのは実に稀であることを実感する。自分に合ったレベルで。高すぎるとチンプンカンプン、低すぎるとバカバカしくなる。そういえば教養で実にバカバカしい授業があったな。