こころをよむ「これが歌舞伎だ! 極みのエンタ-テインメント」      金田 栄一(歌舞伎研究家・元歌舞伎座支配人)

1601117②「創生~華やかなるみちまで」

「日本の芸能の変遷」

歌舞伎のル-ツの一つに伎楽というものがある。大本は中央アジア、インドであろう。

(伎楽)

古代日本の寺院内外で供養として上演された滑稽な所作を伴う無言仮面劇。呉の国の楽舞を、百済から帰化した味摩之(みまし)が伝えたとされる。伴奏は笛・腰鼓・同拍子。日本書紀に記述有。伎楽面は東大寺・正倉院・国立博物館にある。

これはそれらの国々では滅んでいるが能・民族芸能に形を変えてそのベ-スとなっている。特に獅子というのは獅子舞を始め、歌舞伎の「獅子もの」といったジャンルのモデルになっている。ライオンだから日本はおろか中国にもいない動物である。それが日本で「獅子もの」として残っているのは驚くべきことである。次いで舞楽というのも大陸から入って来たものであり、これは雅楽である。舞楽⇒雅楽を伴奏として舞を行うもの。

猿楽・田楽というものもあるが観阿弥世阿弥によって室町時代に能として一般化された。

 

(猿楽)

平安時代の芸能。滑稽な物まねや言葉芸が中心。座興の滑稽な仕草を猿楽と呼んだ。散楽の転訛。鎌倉時代に能・狂言となる。

(歌舞伎) 風流が原点

 江戸時代に入って彗星の如く現れたのが歌舞伎である。歌舞伎は古典芸能といわれるが未だに古典化することなく今でも現代と接点を持ち成長と変化を続けている。歌舞伎がそれまでの芸能と違う所は仮面を使わない事。世界の芸能の初めは仮面をつけることからスタートしている。日本でも能にその典型が残っているが、歌舞伎は仮面を捨てて生身の人間が演じるのが大きな特徴である。能に於いては神に向かう又は神の舞であるが、歌舞伎の場合は人間の踊りとして表現された。

 

●出雲の阿国 (かぶ)

歌舞伎の原点は風流(ふりゅう)といわれる。風流(ふりゅう)という芸能は祭りの場面で衣裳とか笠とか色々な道具で賑やかに飾り立て皆で踊るという芸能であった。この風流という形から次第に歌舞伎という所謂「(かぶ)いた」芸能が誕生してきた。賑やかに皆で踊るという流れの中で、出雲の阿国に代表される「歩き巫女」といわれる女たちが出現してきた。これが京の四条河原に出現したのが慶長8年(1603 )徳川幕府成立の年である。元々「歩き巫女」といわれるように、出雲大社の勧進をするという名目で諸国を歩いて芸能を見せる女たちが多数いた。そこで念仏踊りというものを演じたが、仮面もつけず舞台に登場して、極めてセンセ-ショナルな芸を披露した。女は男装、男は女装して官能的な踊りをしたので、所謂「(かぶ)いた」踊りとして発展していった。「遊女(かぶ)き」といわれるようになり、遂には風俗上の問題となり当局から上演禁止処置となる。特に遊女(かぶ)きといわれるように、遊女が客寄せとして歌舞伎を演じた。

 

●上演禁止⇒若衆歌舞伎

幕府により三都(京・大坂・江戸)で廓制度が完成した時点で女歌舞伎、所謂遊女歌舞伎は禁止された。幕府のシステムとして遊女は廓の中に閉じ込めると共に遊女と芸人を兼ねる女歌舞伎を禁じたのである。女歌舞伎禁止の後でいち早く脚光を浴びたのが若衆歌舞伎。若衆というのは年少の男の子が演じる舞台であるが、しかしこれも風紀上の理由で禁止される。いわゆるいたちごっこである。

 

野郎(やろう)歌舞伎 

初期歌舞伎。1652年若衆歌舞伎が禁止された後を受けて起こったもの。前髪を切り落として野郎頭(やろうあたま)とさせたことから名づけられた。歌舞伎を許可する条件として野郎頭であること、歌舞音曲ではなくて物まね・狂言つまりストーリ-性のある芝居とする事が求められた。しかしこれが今後歌舞伎が発展していく大きな要因となった。野郎歌舞伎・物まね狂言という所から演劇的に優れた舞台芸能に向かう事になる。むしろ色々な意味で歌舞伎にとって幕府の制作は重要な転換のきっかけとなったのである。

 

女方(おん)

 

今は女方という表記を使っている。以前は女形と書き、オヤマという言い方も使われていたが近年は女方(おんながた)として、女役を演じる役割という意味を表している。今でも女方の中でも筆頭にある重要な役割を演じる女方を立女形(たておやま)というのは残っている。

女方というのは女の模倣ではない。男が女を演じるというのは世界中にある。芸能というのは古来、男中心の歴史である。神に捧げる芸能としてスタ-トしている。しかしほとんどの国では女の模倣なのでボ-イソプラノで裏声を使ったものであるが、歌舞伎は芸の修業で美の極致を追及していった。それが模倣では無くて、女では演じられない、女では気付かない女らしさ、女の美しさを男が演じるという極めてレベルの高いものなのである。そして歌舞伎の初期に女方を完成させたというのが上方の初代芳澤あやめといわれている。

 

●芳澤あやめ

有名な芸談にあやめ草というのがある。女方としての心得を説いている。一つの例として「傾城というのは遊女のトップ、美しく・賢く・毅然として女の理想像である。それを男が演じるにはそもそも男だからきりっとした部分は出来るが、女方というのは女の持っている無邪気でかわいらしさもなければいけない」として男の身でふわっとしたかわいらしさも要求する。これが演じるのが傾城の役であるとした。だから今でも傾城を演じられれば女方の完成である。これを完成させたのは芳澤アヤメだが、この時代に既に傾城というものを舞台上で演じるという事は、寧ろ女では出来ない、男だからこそ出来ると考えられていた。だから女優が取って代われるものではなかった。

 

●元禄の歌舞伎  市川団十郎(荒事⇒(屋号は成田屋)  坂田藤十郎(和事)(屋号は成駒屋)

歌舞伎が大きく花開いたのが元禄の時代である。歌舞伎に限らず色々な文化が花開いた時期であるが、中でも元禄歌舞伎といわれるように大きく育てられた時代であった。その代表格が江戸の市川団十郎、上方の坂田藤十郎で芸風を確立した。

初代市川団十郎は荒事という極めて力の強い正義の味方のス-パ-マン、顔には勇壮な隈取をして大きな刀を差して大きく六方を踏んで、何処から見ても写実的なものが見当たらない、決定的にデフォルムされたス-パ-ヒ-ロ-を演じた。市川団十郎が作りあげたのが江戸の荒事。一方坂田藤十郎は和事、登場するのは上方の若旦那これが傾城に走って勘当され落ちぶれてた姿となっている。或いは上方の若旦那らしい「つっころばし」という役柄があるが、これは後ろからツンと着いたらナヨナヨと転んでしまう頼りない馬鹿旦那像を含めた色町を中心とした話である。登場するのは色事を中心と

する人物ばかり。これを和事といい坂田藤十郎が作りあげた。

今では荒事を中心とする威勢のいい江戸の荒事と、色気たっぷりの上方の芸風に引き継がれている。

市川団十郎の名前は12代まで受け継がれている。一方坂田藤十郎の方は三代で途絶えていたが、それを平成17年四代目坂田藤十郎が230年ぶりの復活となった。坂田藤十郎というのはその前が中村鴈治郎。この名は現代でも上方の名優中の名優の名跡である。元禄の時代に2人が共演したことはなかったが、平成になってそれが実現した。12代市川団十郎が亡くなったのは惜しまれる。

 

●三味線

歌舞伎が発展するなかにおいて大きな役割を果たした楽器が三味線である。三味線というのは古い楽器ではない。それまでは琵琶が一般的であったが、戦国時代の終り頃に大陸から伝来。元々は中近東で羊の皮、中国で蛇の皮、しかし日本には大きな蛇がいないので猫で工夫した。これが日本に実にマッチしたのである。

 

●浄瑠璃

 室町時代末期、無伴奏で始まったが物語、江戸時代三味線伴奏が定着し、人形芝居と後には歌舞伎とも結合して流行する。元禄時代、竹本義太夫・近松門左衛門らによる人形浄瑠璃の義太夫節が代表的存在となり浄瑠璃は義太夫節の異名ともなっている。浄瑠璃というのは語り物の総称で、その一方で唄ものの代表格が長唄である。

歌舞伎に使われる語り物は義太夫の他に清元、常磐津といったものがある。義太夫は後半になって誕生した浄瑠璃の一つであるが、一方で唄ものの長唄がまさしく歌舞伎を育て又長唄という音楽も歌舞伎に育てられ、今でも歌舞伎と長唄というのは常に手を取り合って歌舞伎の色々な舞台でBGMとして常に三味線の音が聞こえている。それが場面を表現している。

歌舞伎のお蔭で長唄が発展したのだ。唄ものには長唄の他に小唄・端唄というものがあるが、これはお座敷芸である。歌舞伎に登場する唄といえば長唄に限定されている。

 

●近松門左衛門

江戸中期の浄瑠璃・歌舞伎脚本作者。歌舞伎では坂田藤十郎、浄瑠璃では竹村義太夫と提携、竹本座の座付作者。義理人情の葛藤を題材に人の心の美しさを描いた。「曽根崎心中」「出世景清」「国姓爺合戦」「心中天の編島」「女殺油地獄」

 

歌舞伎の初期には専業の作者はいない。俳優がスト-り-を組み立てて即興で演じていた。その後歌舞伎が一幕物から多幕物即ちスト-り-ある長い芝居となる過程で、台本を作る必要が出てくる。暫くは役者が作者を兼ねていた。初代市川団十郎も自分自身の為に多くの作品を書き、自作自演で荒事芸を展開した。しかし近松門左衛門が登場して専業作者のパイオニアとして、活躍した。特に竹本義太夫と組んで多くの浄瑠璃、歌舞伎の台本を書いているが浄瑠璃特に人形浄瑠璃の名作を多く書いている。「曽根崎心中」といわれる名作があるが、これは時代物といわれる武家社会を描いたものではなく、純粋な町人たちの生きざまを描いたいわゆる世話物である。

昭和28年二代目中村鴈治郎と二代目中村扇雀(これが今の坂田藤十郎)、この親子で演じられた「曽根崎心中」は戦後の歌舞伎の大ヒットの一つである。これは斯の名作を現代の作家がもう一度現代風に脚色して上演したのである。

主役のお初を1400回演じたという大きな記録が残っている。

 

「コメント」

歌舞伎は民衆の娯楽として、様々に変化しながら生き残っているのだ。「変化しないものは滅びる」の鉄則は生きている。役者が世襲の家業として受け継がれているのも特徴かな。