こころをよむ「これが歌舞伎だ! 極みのエンタ-テインメント」     金田 栄一(歌舞伎研究家・元歌舞伎座支配人)

160214⑥「團十郎と歌舞伎十八番 其の一」

歌舞伎十八番は、天保年間に七代目市川団十郎が市川家のお家芸として選定した18番の歌舞伎演目。いずれも初代・二代目・四代目が得意とした荒事であるが、途中でよく分からなくなり明治以降に手が加えられ、復活上演されている。

人気が高いのは「助六」「勧進帳」「暫」の三番である。

「市川團十郎という名前」

歌舞伎には市川團十郎という名前の他に、尾上菊五郎・松本幸四郎・中村歌右衛門という大きな名跡がある。こういったものは、特別な家柄と思うかもしれないが、寧ろ家というより、名優が出たことによってその名前が大きくなったもの。

しかし市川團十郎という名前だけは、江戸の昔から、例えば「随市川(随一と市川を掛けた言い方)或いは、市川宗家と

呼ばれるように、歌舞伎界の中にあって極めて特別なポジションにある。

実際に、歴代の團十郎をみても、単に名優と言うだけではなく、ある民間信仰と結びついた名優、現人神といった特別な存在である。当然そうなるには、初代團十郎がとりわけ偉大であった事が言える。更に二代目が、父に勝るとも劣らぬ

名優であり、多くの演目に工夫を加えて、その芸と地位を高めた。初代・二代の時点で既に團十郎というのが別格の物になっていた。更にその偉業を継いだ歴代の團十郎も、それぞれの時代を代表する役者に成長した。更に七代目團十郎が、「歌舞伎十八番」という家の芸を制定して、これによって團十郎=歌舞伎の象徴というポジションを固めた。

●初代團十郎

 ・團十郎と成田不動尊との関わり

團十郎家の祖先は甲州の武士であったが、武田家滅亡で下総の成田で百姓となる。初代團十郎の父は家督を弟に

譲って江戸に出る。日本橋に住んで次第に芝居の世界に入っていく。初代團十郎はこういう環境の下で育ち、12才で

初舞台 市川段十郎と名乗る、幼名を海老蔵といった。後に段十郎→團十郎と改名。團十郎家のお家芸の荒事は、

単に荒々しいという事ではなく、民間信仰の御霊信仰と結びついているというのが特徴として挙げられる。特に初代

團十郎は先祖と縁のある、成田不動を熱心に信仰していた。そこで自ら不動明王に扮したが、それを神の姿と見た

観客は、それを崇め時には魔除としてその姿を玄関に張ったりした。その名前が単に名優という事だけでなく、長年に

亘って特別な存在になりえたのは、そういった不動明王との結びつきと、その後ろ盾があったというのが大きな要因で

あった。

・段十郎→團十郎  俳句との結びつき

 改名を機に、京で荒事を上演したが、荒事しかできない、風情が無いとして不評判。「京では食わぬ風なり」と言われ

た。

この時、俳句の椎本(しいもと)(さい)麿(まろ)に師事し、才牛という俳名を貰った。ここから役者が俳句の名前即ち俳名を名乗るという習慣

始まった。今でも多くの歌舞伎俳優が、舞台の芸名の他に俳号を持っている。又それが芸名に使われるように

なった。      梅幸・松緑・梅雀・・・・。

  ・初代團十郎の死

   当時江戸で人気だったのは、團十郎の他に和事を得意とした中村七三郎・中村伝九郎とを称して三幅対(さんぷくつい)として賞賛

された。團十郎45歳の時、舞台で生島半六に刺殺される。怨恨ともいわれるが原因不詳。初代團十郎は、荒事と

いう江戸ならではの芸風を確立し團十郎と言う名を広めた功績は大きい。

 ●二代目團十郎

   ・屋号「成田屋」の由来  

      初代の長男。初代は子宝に恵まれず、成田不動尊に熱心に祈願し授かった子である。故に二代目は生まれなが

          らにして成田不動の申し子として、神格を具えていると言われた

          二代目の初舞台は(つわもの)根元(こんげん)曾我(そが)という演目。この時不動明王の姿になり、初代團十郎の曽我五郎とにらみ合うと

          場面が大評判となる。此の興業には成田から大勢の観客が押し寄せたと言われる。興業の後、親子で成田に

          お礼 参りし、これが縁となって「成田屋」という屋号を付けることになる。

        このことが役者が屋号を付ける最初である。

   ・生島新五郎とのつながり

    17才の時に、父團十郎は生島半六に刺殺されたので、二代目を襲名。父不在の為、江戸歌舞伎で冷遇されるが、

その時後ろ盾になったのが、生島新五郎。初代團十郎刺殺犯人・生島半六の師匠であったのでその罪滅ぼしか。

この生島新五郎が、大奥女中江島との密通事件の当人。この事件で遠島になる。

    ・二代目團十郎と助六

     二代目は小兵でひ弱と言われ、役者としての資質に欠けたが、工夫と精進で成長していく。そして初代が演じ

           なかったような和事も演じるようになる。それが「助六」である。「助六」は今では、江戸の芝居の代表格であるが、

           元々は上方の万屋助六と遊女揚巻との心中事件を素材にした芝居が元になっている。これを二代目は江戸の

            男伊達という役柄に仕上げて、しかも江戸前の荒事とそこに柔らか味のある和事の要素を加えて「助六」という

            演目を作りあげた。

    ・二代目と隈取

     上記助六の初演の時に、初代が考案した隈取に工夫をした。初代は赤く塗った所に墨で隈を取ったが、白塗りに

紅や藍で隈を取って、今日の姿にした。この様に様々な工夫や色々な役を作り上げ、歴代続く團十郎という大き

役割にした立役者である。

●三代目團十郎

     5歳で二代目の養子になり、15歳で團十郎を襲名。二代目は團十郎から海老蔵と改名。今は海老蔵というのは

     團十郎になる前の名であるが、この様な計は数多くある。三代目は22才で死去。この為養父の海老蔵は養子を

迎えて四代目を継がせる。

●四代目

     それまでの團十郎とは違う芸風であったが、高く評価された。歌舞伎十八番というのが四代目によって、家の芸と

して確立されるが、園未来は初代と二代目、そして四代目によって演じられたもので構成されている。

●五代目

     ・芸の心構え

     歴代の中でもとても女方から道化まで芸域を広げた人である。細かく芸の在り方を書き記している。

     「人の真似悪し。心を真似るは良し。下手と組まず上手と組むべし。若い時出来過ぎると老いて困る。荒事師弱く

           ては悪し。ご贔屓を願うな。御取立てなんぞというようでは弱し。俺さえ出れば見物嬉しがるという心がよし。 

これを見ても大胆ではあるが、非常に細やかな芸の心を語り、大きな人物像が感じられる。そして洒落の心を

持ったことも、五代目の特徴である。

・六代目を作り蝦蔵に改名

この時の口上が秀逸。

「祖父は名人、父は上手、いずれも江戸の飾りにござりますれど、私は雑魚エビでござりますれば、蝦でと名乗り

ます。」

この洒落一杯の口上が人気になって大勢の見物が詰めかけたと言われる。口上で大入りを取ったと言っては、

役者の恥として、七日間で止めたという。

●六代目

     六代目は14才で團十郎を襲名し、美男で女性客が引きも切らなかったと言うが22才で早世。

●七代目

     ・能の様式の採用

     七代目は五代目の外孫。六代目早世の為、10才で團十郎を襲名。当時は文化文政という江戸文化爛熟の頃

           で、作家では鶴屋南北が活躍していた。それまで禁断とされていた能の様式を取り入れて革新的な「勧進帳」を

           作り上げた。この演目は初代から演じられていたが、新しい形式とした。家の芸「歌舞伎十八番」を大々的に発表

            し、團十郎家の権威を確立し、芝居人気を大いに高めた。

・江戸追放

水野忠邦の天保の改革の時期で、贅沢禁止令。芝居小屋も浅草に強制移転させられ、七代目は身分不相応な

贅沢をしたという事で、江戸追放となる。後許されて上方公演中に、息子の八代目が謎の自殺を遂げる。

●八代目

      七代目の長男。10才で團十郎を襲名、美貌と色気で女性客に大人気。「助六」や「鳴神」と言った家の芸で評判

              を取ったのが、「与話(よは)(なさけ)浮名(うきな)(よこ)(くし)」の切られ与三。

これが後世に語り継がれる名舞台で、大人気となり八代目の名を高めた。「助六」で天水桶の水に身を隠すと

いう場面があるが、その水が一合一分で売れたという逸話がある。

それが上方での芝居の初日の前夜、自殺をする。

      当時言われた事「江戸の流行りは八代目」