こころをよむ「これが歌舞伎だ」                 金田 栄一(歌舞伎研究家・元歌舞伎座支配人)

160221⑦「團十郎と歌舞伎十八番 其の二」 

今回は明治の名優九代目團十郎から十二代團十郎まで、そして團十郎家の芸「歌舞伎十八番」といった所を紹介する。

「九代目團十郎」

 ●河原崎家に養子

七代目の五男、異母兄弟の長男は八代目。生まれて間もなく、河原崎座の座元・河原崎権十郎の養子となる。河原崎

座と いうのは江戸三座の一つ森田屋の控え櫓であった。ここで河原崎長十郎を名乗る。養父母の元で厳しい修業の

時代。読み書き・書道・踊り・三味線・俳句・絵画・・・・。ここで祖母にいわれた言葉「他所の子は砂糖樽の中につけて

いるが、うちでは樽の中には唐辛子が入っている」

これがあったから、後になって名優といわれるようになったのである。

 ●九代目團十郎の襲名

  明治7年、37歳で襲名。名優振りと数々の偉業が称えられて劇聖と呼ばれたが、中でも勧進帳は七代目が作りあげた

  ものを更に磨きあげ、又舞踊の「鏡獅子」を初演するなど歌舞伎を洗練されたものに仕上げた。そして立派な体格・

  風貌・鋭い眼力をもって、いかにも荒事の團十郎家にふさわしい役者ぶりであった。その一方で女方を演じても見事な

  手本となった。 

 ●歌舞伎の改革

  明治という激動期に歌舞伎を存続させ、俳優の社会的地位の向上に尽力するなど数々の功績をあげ、並外れた

  行動力とパワ-は群を抜いていた。江戸時代に於いては大衆芸能と、武士階級からは低俗と軽んじられ、幕府の

  厳しい監視の下にあった。更に明治となると世の中は西洋一辺倒となり、歌舞伎は消えて無くなりそうな危機の時代で

  あった。團十郎は生き残りのために、当時の上流階級そして地方出身の権力者、官僚に認められるように歌舞伎改革

  を行った。

・活歴物

 活歴とは活きた歴史という意味で、それまで荒唐無稽であった歌舞伎のスト-リ-を考証第一にした。政府や官僚が

 強く提唱した歴史に忠実な演劇を目指したものであった。正しい歴史観、正しい道徳観つまり荒唐無稽な話ではなく、

 この時代に合ったものにしたのである。しかしこれには、大衆や役者たちからの支持はなかった。こんなエピソ-ドが

 伝えられている。或る金持ちの贔屓が当時貧窮に苦しんでいた團十郎に「この路線を廃止するなら、金を融通しても

 いい」と言ったとか。このやり方が庶民から受け入れられなかった事を示している。

 ・團十郎の方針

  一方では伝統芸能、そして一方では体制側に認められる歴史に忠実なものの二刀流で、この激動の時期を乗り切ろう

  としたのである。そして成功した。 

 ・天覧劇

  團十郎の方策が政府にも認められ、明治22年明治天皇・皇族・政府高官・外国大使の前での舞台となる。

  演目は「勧進帳」「寺子屋」「高時」

 ・歌舞伎座落成

  明治22年落成し、團十郎がこの歌舞伎座の座頭となり、当初は活歴物・新作に力を入れていたが観客の反応は

  芳しくなく次第に旧来の古典歌舞伎へ回帰していく。同じ時代に生きた名優五代目尾上菊五郎と共に、歴史に残る

  名舞台を次々と展開していく。しかし明治36年二人とも死去。團十郎 66才。

 

「十代目團十郎」

 歴史に名は残っているが、團十郎としての舞台での活躍はない。九代目に男子が無かったので、娘に養子を取って

 家督を継がせる。:慶応出身の銀行マンであったが、九代目没後7年大阪で初舞台。中年からの転身なので大成しな

 かったが、宗家としての家督を守るという大役を果たす。死後十代目團十郎を追贈された。

 

「十一代目團十郎」

●戦後の大スタ- 海老様

  七代目松本幸四郎の長男。兄弟には八代目松本幸四郎→初代松本白鴎、二代目尾上松緑。そのいずれも近来の

  名優として大活躍した。海老蔵時代「花の海老様」としてブ-ムを巻き起こした。美貌、品のある容姿、華のある

  芸風、良く響く美声で人気を博した。

 ●演 

    戦後間もなく「助六」で脚光を浴びたが、昭和26年歌舞伎座が新築開業した直後の新作「源氏物語」で圧倒的な

    人気となる。「勧進帳」の弁慶・富樫、「切られ与三」の与三郎などで、女性客の人気を独占した。演技の巧拙では

    なくて、其のスタ-性である。 

 ●團十郎襲名

    九代目以降團十郎の名が途絶えていたので襲名が久しく待たれていた。昭和37年、59年ぶりの團十郎襲名と

    なった。

    襲名興業は、歌舞伎の歴史の中でも未曾有の大興業であった。4月5月と「勧進帳」「助六」、この人気演目で観客

    を酔わせた。襲名興業の規模と豪華さは後々の語り草となっている。襲名の記念行事として、團十郎家が代々

    信仰してきた成田山にお詣りして、これが後に襲名のお練りとして、近年浅草などで恒例となっている。

   この空前のイベントとなった襲名から、3年で死去、56才。

 

「十二代目」

 十一代目の長男が近年まで活躍した十二代團十郎である。

●三之助

  市川新之助(後の十二代團十郎)、尾上菊之助(後の尾上菊五郎)、尾上辰之助(死後尾上松緑を追贈)。一般に三之助 

  として大人気となる。この辺りから一般客、若い女性客が目立って増えてきた。いわゆる()の世界ではなく、再び

  大衆化していく始めである。

●団菊祭

  凛々しい、華のある舞台姿で観客を魅了した。昭和52年海老蔵のままで尾上菊五郎と共に、団菊祭という興業を

  復活させた。団菊祭というのは、昭和11年に九代目團十郎と、五代目菊五郎の胸像を歌舞伎座に設置したのを記念

  して、明治の二人の名優を顕彰する記念興業として始まった。今日でも人気の興業の一つである。

●市川海老蔵

  昭和55年に歌舞伎十八番の「外郎売」を初上演している。この中に早口言葉として有名な「言い立て」があるが、

  「拙者親方と申すは、御立会の内に御存知の御方も御座りましょうが・・・・・」、見事な早口言葉である。アナウンサ-

  や劇団員の研修に必ず使われている。これを見事な歌舞伎のセリフとして仕上げて、新たな人気演目として定着

  させた。

●十二代目襲名

  昭和60年、長期襲名興行となった。海外での初の襲名興業がアメリカで行われた。十二代目は、真面目で努力家、

  そして芸に対する真摯な態度、宗家としての責任を全うする姿勢は高く評価されていた。

●死去 

  長男の海老蔵襲名の最中に病に倒れ闘病の後復帰したが、新歌舞伎座開場目前の平成25年に66才で死去。

  海老蔵の十三代目襲名が待たれる。

 

「歌舞伎十八番」

歌舞伎十八番というのは、七代目團十郎が制定した、團十郎家の芸であるが、初代・二代目・四代目が初演した主に

荒事を中心に演目が選ばれている。今では一般に得意芸のことを十八番・おはこという言い方をするが、その語源はこれである。 

●演目 

  演目の中には、お馴染の「勧進帳」「暫」「助六」「鳴神」「矢の根」と言ったものもあるが、七代目が制定した時に、

  すでに内容が不明だったものも沢山あったとされる。その後十代目團十郎以降復活を試みて、更には新たに台本を

  書き起こしたものも多い。歌舞伎十八番というのは七代目が作りあげた「勧進帳」の初演に合わせて、権威付けの為

  に制定されたという見方もある。更には十八番の内、十七番は「勧進帳」のお付き合いで出来たともいう人もいる。

  歌舞伎十八番というのは、七代目の時代に歌舞伎人気、そして團十郎家を再び盛り上げ、團十郎と言う名とその家の

  権威を確立させる狙いであったのだ。

 

「新歌舞伎十八番」

位置づけ

七代目が制定した歌舞伎十八番に続き、九代目團十郎が新歌舞伎十八番を制定したが、この発案者は七代目で

ある。歌舞伎十八番の殆どが伝統的な荒事であるが、「勧進帳」だけは能を取り入れて従来の歌舞伎になかった、

高尚さを含み舞踊劇風な演目である。当時の江戸の民衆には唐突な印象であった。よって「勧進帳」は歌舞伎十八番

の主役でありながら、その後に作られた新歌舞伎十八番の出発点なのである。

●内容 

  十八番と言っても、演目は18ではなく32演目となっている。後年十八番と言っても、その意味は得意芸という意味に

  なったのである。演目の多くは、九代目團十郎が進めてきた能を手本とした舞踊劇「松羽目物」つまりお能の様式を

  取り入れた舞踊が多くを占めている。

●演目

  近年は殆ど上演されていないが、比較的上演されているものは「鏡獅子」「船弁慶」「紅葉狩」と言ったもの。他では

  活歴物といわれる「高時」「大森彦七」といったものもある。

 

ここまで二回にわたって、團十郎と歌舞伎十八番について話したが、今でも團十郎という名跡と、歌舞伎十八番というものが歌舞伎の中でも大きな存在であり、象徴になっていると思う。