日曜カルチャ-「正倉院ものがたり~正倉院展はこうして誕生した」     

                                        帝塚山大学文学部教授 西山 厚

 

171029⑤「正倉院展の誕生秘話

明治4年、宝物(当時は御物)の調査と写真撮影が行われた。ここより内務省管轄となる。

「明治時代の正倉院展」

明治8年に奈良博覧会が東京帝国博物館(現在の東京国立博物館)で行われた。

「戦前の正倉院展」

昭和15年に正倉院展が東京帝国博物館(現在の東京国立博物館)で、皇紀2600年を記念して行われた。皇紀とは 神武天皇即位よりの数え方。20日間で41万人と空前の人気となったが、1回きりの

展覧会とされた。政府の戦意及び神国思想高揚の為に。但し天皇遺愛品の北倉分は展示されて

いない。

「宝物の疎開」

戦時色が強まり、更に敗色濃厚となり空襲の不安の為に、正倉院宝物の疎開が分散してなされた。

「戦後の世論」

戦後の自由主義思想の高まりで、天皇だけ特別扱いはないとの主張が強まる。その一環として

正倉院も一般公開すべきと。

「戦後初の正倉院展」

当時奈良国立博物館には、300点が疎開し保存されていた。

そこで正倉院に返却する前に一般公開してはとなり、昭和21年一般公開された。これには日本再建のきっかけにしようということと、昭和天皇の意思も働いた。これは最初で最後の正倉院展となる予定であった。所が20日間で15万人。

入場者の感想は「生きる力が湧いた」「日本に生まれてよかった」・・・敗戦で打ちひしがれていた人々に勇気を与えることになった。参考までに、和辻 哲郎の有名な「古寺巡礼」の一説を紹介する。

「近く出征する身で生還は期し難い。ついては一期の思い出に奈良を訪ね、あの正倉院を訪ねたい」

奈良は、正倉院は、人々に安らぎを与えるのである。

この様な国民の強い要望でこれ以来、正倉院は毎年行われるようになる。

但しその都度、正倉院展の開催は天皇の許可が前提。故に、許可が出るまでは常に開催は予定となり公開はされないのである。

 「コメント」

何か隠居の酒飲み話を聞くような5時間の話ではあった。