190518⑦「養和の飢饉」其の二

清盛の没の頃より、全国の反平家運動は高まり、各地の物流は途絶え、天候不順・疫病の流行で

大飢饉となる。

朗読1

「いとあわれなることも侍りき。さり難きめ、をとこ持ちたるものは、その思ひまさりて深きもの、必ず先立ちて死ぬ。その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふ間に、まれまれ得たる食物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子あるものは、定まれることにて、親ぞ先立ちける。また、母の命つきたるを知らずして、いとけなき子の、なお乳を吸いつつ臥せるなどもあり。」

とても哀れなこともあった。別れられない妻や夫を持っている者は、その思いが強くて深い者が、先だって死ぬ。その訳は、自分の命は後回しにして相手を愛おしく思うので、たまたま手に入った食物を相手に譲るからである。それ故、親子で共に暮らしている者は、決まったこととして、親が先立ってしまうのである。また、母親の命が尽きたのを知らないで、幼い子が、まだ乳を吸いながらそばに寝ていることもあった。

・侍りき  「き」は自分の過去にあったことを回想する助動詞。「た」と同じとなる。

       「けり」は詠嘆的に使う助動詞

・いとけなき    2~3歳    4~5いわけなし

  いとけ幼い、あどけない    いとさん(大阪の商家のお嬢さん)  「け」

   なし強調の接尾語 無いではない

・金塊集 源実朝

 「乳房吸うまだいとけなきみどりごと共に泣きぬる年の暮かな」

 方丈記の場面が連想される。長明と実朝は何度も会っており、この場面のことが伝わった可能性が

  ある。

朗読2

「仁和寺に隆暁法印という人、かくしつつ数も知らず死ぬることを悲しみて、その首の見ゆるごとに、額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをなむせられける。人数を知らむとて、四五両月を数えたりければ、京の中、一条よりは南、九条より北、京極より西、朱雀よりは東の、道のほとりにある頭、すべて四万二千三百余なむありける。いはんや、その前後に死ぬるもの多く、また、河原、白河、西の京、もろもろの辺地などを加へていはば、際限もあるべからず。いかにいはんや、七道諸国をや。

崇徳院の御位の時、長承のころとか、かかるためしはありけりと聞けど、その世のありさまは知らず。まのあたり、めづらかなりしことなり。」

仁和寺において、隆暁法印という人は、このように人々が数知れず死ぬことを悲しんで、死人を見つけるごとに、額に「阿」の字を書いて、仏縁を結ばせることをなさった。その人数を知ろうとして、四、五月の二月間数えたところ、京都の中で、一条以南、八条以北、京極以西、朱雀大路以東の道端にあった頭は、全部で四万二千三百あまりもあった。ましてや、その前後に死んだ人も多く、また、賀茂川の河原や白河、西の京、すべての辺鄙な地方などを加えて言うと、きりもないであろう。更に全国では尚更である。

崇徳上皇の御在位の時、長承の頃とかに、このような例があったと聞いているが、その世の状況は分からない。今回のことは、世にもまれな惨状であった。

・崇徳院

 百人一首「背をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」

 鳥羽天皇の皇子。保元の乱に敗れ、配所(讃岐)で死去。当時は、崇徳院の祟りがこの五大災厄

  (大火・竜巻・地震)所為といわれていた。

阿字

 サンスクリッド語の最初の字音は「阿」、最後は「吽」 これを書くことで、極楽往生を祈ったので

  ある。阿吽。

・戦後の児童救済養育

 仁和寺では、戦後の孤児救済養育を行った。その時の僧が歌を残している。これも養和の大飢饉

  の時の、隆暁法印のことにならったものであろうか。ここで復員した人が、行方不明の我が子を探し

  当てたエピソ-ドがある。

「一筋に我が子を探し来し故に思いせき込み子の名忘するか」

「尋ねきし子は美智子とさとされて父も美智子と言うがいみじき」

「復員の父尋ね来て己が子に頬ずり泣けば我貰い泣く」

「子を背負い父の言葉の尊とかり我飢うるとも子は飢えさじと」

方丈記の場面を、どこか彷彿させる。

 

「コメント」

まさに悲惨の極みである飢饉の惨状を、リアルにまた細かに記録している。死人の数も、長明が自分で数えたともいわれている。当時の京都の人口は、十万余とも