190608⑩「長明の出家」

前回は自分には居場所がない、それが世の中だと古典を引用しながら慨嘆していた様子を話した。

「朗読1

わが身、父方の祖母の家を伝えて、久しくかの所に住む。その後、縁欠けて身衰え、しのぶかたがたしげかりしかど、つひにあととむることをえず。三十あまりにして、さらにわが心と一つの庵を結ぶ。

これをありし住まいに並ぶるに、十分が一なり。居屋ばかりをかまえて、はかばかしく屋を作るに及ばず。わづかに築地を築けりといへども、門を建つるにたづきなし。竹を柱として、車をやどせり。

雪降り、風吹くごとに、危ふからずしもあらず。所、河原近ければ、水難も深く、白波の恐れも騒がし。」

私は、父が他の祖母の家屋敷を受け継いで、長い間、その場所に住んでいた。その後、縁が切れて、私は落ちぶれ、色々と思い出すことも多かったが、とうとう留まることも出来なかった。三十余りで、自分の考えで庵を作った。

これを以前の住まいと比べると、十分の一である。母屋を作っただけで、付属の建物を作れなかった。やっと土塀は作ったが、門を立てる費用がなかった。竹を柱として、車を入れた。雪が降ったり、風が吹くと危険がないわけではなかった。

賀茂川に近いので、水難も深刻で、盗賊の恐れもあった。

 

・父 鴨 長継  下鴨神社禰宜  

・周防内侍 金葉和歌集に、家を去る時に、歌を柱に書き付けて行く。この歌を長明は、引用して

        いる。

 住わひて我さへ軒の忍ふ草 しのふかたかたしけきやとかな」→しのぶかたがたしげかりしけど

・白波 盗賊のこと 白浪五人男

  語源 後漢時代、黄巾の賊が白波谷にこもったので、賊のことを白波というようになった。この後、

  三国時代となる。

「朗読2

すべて、あられぬ世を念じ過ごしつつ、心を悩ませること、三十余年なり。その間、折々のたかびめ、おのづから短き運を悟りぬ。すなはち、五十の春を迎へて家を出で、世を背けり。もとより妻子なければ、捨てがたきよすがもなし。身に官禄あらず。何につけてか執を留めむ。むなしく、大原山の雲に伏して、また五かへりの春秋をなん経りける。」

だいたい、生きていくのが難しい世の中を我慢しながら、心を悩ましたことは、三〇余年になる。その間、時々に思い通りにならない事に、不運を悟った。そこで、五〇才の春に出家して、世を捨てた。元々、妻子もないので捨てにくい縁もない。官位も俸禄もないので、何に執着をのこすものか。空しく大原山の雲がかかる山中に住んで、また五年の歳月が過ぎていった。

 

・後鳥羽院との関り  河合神社神官への話

 長明は和歌の勉強をしており、編纂中の「新古今和歌集」の和歌所勤務を後鳥羽院に命じられ、

 精勤していた。

 後鳥羽院から下鴨神社の摂社「河合神社」の神官を打診されるが、身内から神官修行未達として

 横槍が入り、この話は立ち消えとなる。河合神社→下鴨神社は昇格のル-トであり、父もこの経路

 であった。

  ここから、鴨長明は絶望して、和歌所も退職してしまい、隠遁生活に入る。

・中原中也  詩人 山口県出身 ランボ-・ヴェルレーヌの影響を受けて、生の倦怠を詩作。親友の

 小林英雄に恋人を 取られ、また親族の続く早世に絶望する。自身も三十歳で逝去。

 代表作「生い立ちの歌」は、長明の「方丈記」に影響されたのではないか。愛読し、住居も「方丈庵」

  に近かった。

  雪の変化を自分の不幸、自分の人生の認識として表現とている。

幼年時 私の上に 降る雪は 真綿のようでありました

 少年時 私の上に 降る雪は 霙のようでありました

 一七~一九 私の上に 降る雪は霰のようでありました

 二十~二十二 私の上に 降る雪は雹であるかとおもわれた

 二十四 私の上に 降る雪は いとしめやかになりました

 私の上に降る雪は 花びらのように降ってきます 薪の燃える音もして 凍るみ空の黝む

 私の上に 降る雪は いとなよびかになつかしく 手を差伸べて降りました

 私の上に 降る雪は 熱い額に落ちもくる 涙のようでありました

 私の上に 降る雪は いとねんごろに感謝して、神様に長生したいと祈りました

 私の上に 降る雪は いと貞潔でありました 

 

「コメント」

長明はどこか、感じ易いいい所のボンボンの風情。後鳥羽院に可愛がられ、また音楽にも堪能であったとか。うまくいかないと拗ねて降りる、教養人。中原中也の詩を読んでみたく

なった。