190713⑮「方丈の庵」其五

50歳、大原で出家し、55歳で日野に方丈の庵を立てて転居。その生活を楽しんでいたことは前回に話した。今回は、その生活ぶりを描く。

「朗読1

それ、人の友とあるものは、富めるたふとみ、ねんごろなるを先とす。必ずしも情あると、すなほなるとを愛せず。

ただ、糸竹、花月を友とせんにはしかじ。人の奴たるものは、賞罰はなはなだしく、恩顧あつきを先きとす。さらに、はくぐみあはれると、やすくしずかなるとを願はず。

ただわが身を奴婢とするにはしかず。いかが奴婢とするとならば、もしなすべきことあれば、すなはち、おのが身をつかふ。たゆからずしもあらねど、人を従へ、人をかへりみるよりやすし。もし、歩くべきことあれば、みづから歩む。苦しといへども、馬、鞍、牛、車と心を悩ますにはしかず。

さて、友人については、富裕な人を尊敬し、親密である人を第一にするものである。必ずしも、情愛がある人、正直な人を愛するものではない。音楽や自然を愛するに越したことはない。人の召使である者は、褒美が多く、引き立ての厚い主人を第一とする。決して、大切にして慈しんでくれること、穏やかで静かなことを願わない。だから、我が身を召使にすることが一番だ。どの様に召使にするかというと、もししなければならない事かある時は、自分の体を使う。疲れていないこともないが、人を従え、人を気にするよりは気楽である。もし歩かねばならない時は、自分で歩く。苦しいと言っても、馬や鞍、牛や車のことで心を悩ますよりは良い。

 

・このような考え方は、長明の「発心集」にも出てくる。

「人間の心のあり様は思った通りにはならない」

「人は当てにならないので、自分でやるべき」

「死んだら、生き返って人の様子を見てみたい」 →人は当てにならない。

・「す」 素   他の語の上につけて、程度の甚だしいことを表す接頭語 素顔・素手・すばしこい・

         素早い・素直

・糸竹 糸→弦楽器   竹→管楽器 

「朗読2」  

今、一身をわかちて、二つの用をなす。手の奴、足の乗物、良くわが心にかなへり。心、身の苦しみを知れれば、苦しむ時は休めつ。まめなれば使ふ。使ふとても、たびたび過ぐさず。ものうしとても心を動かすことなし。いかにいはむや、常に歩き、常に働くは、養生なるべし。なんぞいたづらに休みをらん。人を悩ます、罪業なり。いかが他の力を借るべき。

今、私は我が身を分けて、二つの働きをする。手という召使と足という乗物は、良く私の思い通りに

なっている。

 

私の心は体のことを知っているので、苦しい時は休む。体調がいい時は使う。使うといっても度を過ぎることはない。辛くても心を悩ますことはない。まして、常に歩き、常に体を動かすのは、健康にいい。どうして、無駄に休んでいようか。

人を悩ますのは罪深いことで、どうして人の力を借りるべきであろうか。 

・身と心  同時代の道元言葉に「身心脱落」とある。この身と心を使っている。

・平安時代の上流階級は、男女ともに肥満・糖尿病が多い。太った人が良いとされていた。

 この時に、運動を提唱している、先駆者。

「朗読3

衣食のたぐひ、また同じ。藤の衣、麻の衾、得るにしたがひて、肌を隠し、延べのおはぎ、峰の木の実、わづかに命を継ぐばかりなり。人に交はらざれば、姿を恥づる悔もなし。糧乏しければ、おろそかなる報をあまくす。すべてかようの楽しみ、富める人に対していふにあらず。ただわが身一つにとりて、昔と今とをなぞらふるばかりなり。

衣服や食事も同じである。藤の衣や麻の夜具は、手に入っただけで、肌を被い、嫁菜、木の実は、やっと命を保つのに十分である。人と交際しないので、姿を恥じることもない。食料は乏しいので、おいしく食べられる。このような楽しみは、金持ちに比較していっているのではない。私一人にとって、

昔と今を比較しているだけである。

 

この頃、隠遁者として有名な「西行」「吉田兼好」がいる。夫々微妙に違う考え方がある。

「西行」  

平安末、鎌倉初期の歌僧。佐藤義清・・鳥羽上皇に仕え、北面の武士。新古今集に94首あり。

・「もろともに影を並ぶる人もあれや月の漏りくる笹の庵に」

 「さびしさに堪えたる人のまたあれな庵ならべむ冬の山里」

  寂しさに耐えている人もいるといいなあ、庵を並べて住もう。

「吉田兼好」

鎌倉末期の歌人。「徒然草」13段  孤独を好む心と、人恋しさが同居している。

人に知られじと思ふ頃、ふるさと人の横川までたづね来て世の中のことどもいふ、いとうるさし。されど帰りぬるあといとさうざうし。  そうぞうし→ものさみしい。

「年経れば訪ひ来る人もなかりけり世の隠れがと思ふ山路を」

「山里は訪はれぬよりも訪ふ人の帰りてのちぞさびしかりける」

 

西行も、兼好も友を何処かで求めている。これに反して長明は、スパッと一人が良いと言い切っている。

 

「コメント」 不勉強な癖に・・・・。

青年時代までは、親や周囲の人を頼りに生きたが、結果的には不成功。後半は、これに懲りて

絶対一人が良いと。

こんな理解でいいのかなと思うが。それに反して、西行、兼好はどこか俗世に未練を残している。

そして色々な作家、作歌活動をしている。こちらのほうが、自然かな。