191109㉜「数寄の道」(其の三)発心集の数寄人

今日は無名抄や発心集に様々な数寄人の様子が描かれているが、それに登場する人々の振る舞いを見てみよう。

「源三位頼政」 無名抄56

俊恵はこう言った。頼政はいつも歌の事を心掛けて、いい歌を作った。擬作が多かった。というのは、かねてより歌を作っておいて、歌会ではその場に相応しい歌を出したのだ。歌に心を注いでいた

ので、彼がいると会の雰囲気が変わった。

・頼政 保元平治の乱で戦功。以仁王を奉じて、平氏追討を図ったが、敗れて平等院で戦死。

      源三位頼政。

・俊恵  平安末期の歌人。長明の師で、歌会を主宰した。

・擬作 歌会に備えて、あらかじめ歌を作っておくこと。

「道因法師」 無名抄 63

彼は歌に精進し、住吉大社に月詣をしていた。藤原清輔が判者の歌合せで、負けとなった。道因は、本気で清輔を恨んだ。清輔は、これほど困ったことはなかったと言った。 

90歳の頃、道因は耳が遠くなったので、読み上げる人の近くで聞いていた。その姿は、只事では

なかった。死後、千載集(藤原俊成選者)に道因の歌は12首となっていたが、俊成の夢枕に道因が

出て、お礼を言ったので2追加したという。

・道因 平安末期の貴族・歌人・僧

「藤原頼実が住吉神社に願った事」 無名抄 80

頼実は、いい歌を作らせてくださいと住吉神社に願をかけて、そうすれば自分の5年の命を差し上げますと言った。頼実が病となって、「命を助けて下さい」と祈ると、住吉の神が「お前の5年の命を短くしたのだ」と言ったとか。

「永秀法師 数寄の事」 発心集 巻6 76

親戚の石清水八幡宮の別当が、貧しい永秀に「何かお助けしたい」と言った。永秀は笛にする漢竹が欲しいとのみ。何か高価なものを無心されるのでは思っていた別当は驚いた。

「時光・茂光という笛吹きが、帝のお召しに参上しなかった」 発心集 巻6 8

二人は笛の演奏家。曲を口ずさみながら、碁を打っていた。そこへ帝からのお召しがあったが、夢中で聞かなかった。帝は音楽に夢中になって、ほかの事は忘れているのだと言って、二人を許された。

「宝日上人 和歌を詠じて行と為る事」 巻6 9

宝日上人は行をしないで、「お経と和歌は同じである」として、和歌を詠んでは仏に手向けていた。

「蹴鞠の名人 藤原成通は数寄人」 古今著聞集 成通卿口伝日記

藤原成通は蹴鞠の名人として知られ、様々なエピソ-ドが書かれている。 

・二千日蹴鞠を続けた。

・夢に蹴鞠の精が出て「鞠に打ち込む人は極楽往生する」と告げた。

・清水寺の手すりの上で、蹴鞠を行った。

 

「無名抄・発心集での数寄についての長明のコメント」

仏道の修行には色々あって、音楽に夢中になるのは無駄ではない。数寄というのは、人に付き合って、身の不幸を訴えたりはしない。その代りに花が咲いたり散ったり、月が出たり沈んだり、そういうことに常に心を澄ませて、俗世の汚いことに近づかない。そうすると世の中の道理も分かってくるし、

名誉や財産への欲求も無くなる。数寄というのは俗世から離れ仏道への出発なのだ。これは極楽

往生にもつながっていく。数寄往生・数寄第一主義。そして、長明は世の濁りに心を染めなかった。

 

「コメント」

無名抄も発心集も、結局は数寄人礼賛の書。平安時代は一方では藤原氏の朝廷を巡っての激烈で陰湿な争い。また一方では、これに絶望した人々の現世からの逃避。様々な災害、戦乱の世でもあった。そして様々な音楽・文学・和歌への傾斜の時代なのだ。しかしこれが後世の日本文化の

発端となっていく。