191123 34「長明歩く」(其の一)歩くことは養生

長明が各地を歩き回ったことを、無名抄(長明の歌論書)を中心に話す。

長明は一人で、または歌人仲間と歌枕・名跡、歌人の家などを訪ねている。健脚で好奇心旺盛そして行動力があった。説話集その他より長明が訪れたであろう所を列挙する。

19話」 紀貫之の家(古今集の撰者)

20話」 在原業平の家 

現在の御池通と高倉道の交差する所。安倍清明が火事封じを行っていたが、千年の安元の大火で焼失した。

21話」 周防内侍 平安後期の歌人

冷泉通りと堀川通の交差した所。安元の大火で焼け残った。柱に歌をを残して引っ越したというので有名になった。

「住みわびて我さえ軒の忍草忍ぶかたかた茂き宿かな」

→住むことが出来なくなって、この軒の忍草と同じだ。忍草が沢山ある家だけど。

・長明は方丈記でこの歌の一部を使っている。

・百人一首 周防内侍の歌「春の世の夢ばかりなる手枕に甲斐なく立たむ名こそおしけれ」

22話」 丹後の与謝 網野神社  浦島太郎ゆかりの神社として有名

23話」 逢坂の関 蝉丸の住居

25話」 在原業平の恋人の家  河内 高安(八尾市)    この話は伊勢物語に出ている。

ある男(業平)は河内の高安にいる女のもとに通っていた。ある時訪れると、女は自分でご飯を盛っていた。男はこれを見て、落胆して女のもとを去った。これは当時、自分でご飯を盛るのは下品とされていたのである。以来、この地方では男が来た東の方向には窓を付けない風習があった。女の家が

あったとされる玉祖(たまおや)神社があり、業平の遺品とされるものが残されているここを見物するのは、当時の歌人の常とされていた。

 

その他、柿本人麻呂の歌塚(天理市 和邇下神社)、猿丸太夫の墓、大友黒主の墓(富田林市)なども訪ねたであろう。

40話」 豊浦寺(とゆらでら) 意味不明

昔ある人が葛城に出かけると土地の老人が、ここが豊浦寺の跡だと教えてくれた。そこで皆で催馬楽の葛城を唱和した豊浦寺とは、明日香にあった古寺。飛鳥寺と並ぶ日本最古の寺。後に元興寺と

呼ばれる。平城京に移される。

「無名抄の終章」

内大臣源通親の家で歌聖柿本人麻呂の画像を前に歌会が開かれていた。その時に「小寺の月」と

いう題であった。

長明の歌「古にける豊浦の寺の山の端になお白玉を残す月影」

これに藤原定家が「いい歌だ。私も作りたかった」といった。長明は「これは催馬楽に出ている文言です。」といった。

そして、私の歌の後に藤原定家が、この事を歌ったと何処か自慢している。

 

「コメント」

厭世観から出家・隠遁した人としては、あちこち出かけて好奇心旺盛。又歌では競争心丸出しで、競っている。余りマッチしない雰囲気を感じる。当時の知識人たちの流行りだったのかと思う。