220306王朝物語㊹和泉式部日記⑯「和泉式部の和歌その1

前回で和泉式部日記」は終了。原型に近いといわれる三条西旧蔵本で読んだ。

今回は和泉式部日記終了後の出来事。敦道親王死去後、親王を偲ぶ和泉式部の歌を話す。和泉式部が親王に愛人として、邸に迎えられ、北の方は怒りのあまり実家に戻る事件で終わっている。その後の和泉式部の人生を辿っておく。

二人の間に男児誕生。そして親王27歳の死。女は邸を去る。その後、中宮定子の女房となり、紫式部、赤染衛門の同僚となる。以下は追悼歌である。

「朗読1

草のいと青う生ひたるを見て  (草がたいそう青々と生えているのを見て)
99
 わが心 夏の野辺にも あらなくに しげくも恋の なりまさるかな
(わたしの心は夏の野辺でもないのに 生い茂る夏草のように 恋しい思いが繁くなるばかり)

この歌は和泉式部日記の冒頭部分を連想させるものがある。

「夢よりもはかなき世の中を、嘆きわびつつ明かし暮らすほどに、四月十日余日にもなりぬれば、木の下くらがりもてゆく。築地の上の草あをやかなるも、人はことに目もとどめぬを、あはれとながむるほどに、近き透垣のもとに人のけはひすれば、たれならむと思ふほどに、故宮にさぶらひし小舎人童なりけり」→兄為尊親王の死後、弟敦道親王が現れる場面。

 

女は、今は無き為尊親王を偲んで、四月十日頃に生えている夏草をみて偲んでいる場面である。

兄為尊親王の死後、弟敦道親王が現れて、女は生きる喜びを見出す。しかし敦道親王も亡くなってしまう。女は夏草を見て、今度は敦道親王を偲ぶ。

「朗読2

次の歌も和泉式部日記を連想させる。

 二月ばかりに、前なる橘を、人の乞ひたるに、ただ一つやるとて
 (二月頃、部屋の前の橘を人が欲しがったので、たった一つ与えるときに)
110
 取るも憂し 昔の人の 香に似たる 花橘に なるやと思へば
(取るのも辛い 昔の人の袖の香りに似た花橘になるのかと思うと)
  「五月待つ 花橘の 香をかげば 昔の人の 袖の香ぞする/五月を待 って咲く花橘の香りをかぐと 昔の愛しかった人の袖の香りがする[古 今集夏・読人しらず]」をふまえる。

 

花橘の実を欲しいと言ってきた人がいたが、一つしかあげなかった。女は花橘には、敦道親王に関する大切な思い出があるから。

 

「朗読3

何心もなき人の御有様を見るも、あはれにて
(なにもわからない幼い子の様子を見るのも、悲しくて)
89
 わりなくも 慰めがたき 心かな 子こそは君が 同じ事なれ

(宮さまを恋しい思いは紛らせようがない この子こそは亡き宮さまの忘れ形見 宮さまと同様のはずだけれど)

 

「朗読4

67 身は一つ 心は千々(ちぢ)に 砕くれば さまざまものの 歎かしきかな
(わたしの身は一つなのに 心はさまざまに砕けるので あれこれ悲しくてならない)

 山吹の咲きたるを見て(山吹の咲いているのを見て)

 

千と一を対比させることで、効果を出している。参考。

「月見れば千々にものこそ悲しけれ我が身ひとつの秋にはあらねど」 百人一首 大江千里

 

「朗読5

 頭(かしら)をいと久しう梳(けず)らで、髪の乱れたるにも
 (髪を長い間手入れしないで、髪が乱れているにつけても)
72
 ものをのみ 乱れてぞ思ふ たれにかは 今は歎かむ むばたまの筋
(心が乱れて物思いばかりしています あの人がいない今は 誰に向かって歎いたらいいのでしょう 黒髪が乱れているのを)

 

和泉式部の代表作の一つに黒髪の歌がある。

黒髪のみだれもしらずうち臥ふせば まづかきやりし人ぞ恋しき 後拾遺和歌集 755

 

「朗読6」

十二月の晦の夜よみはへりれる

なき人のくる夜ときけど君もなし我がすむ宿は玉なきの里 後拾遺集575

(亡き人が訪れる夜だと聞くが、あなたは来ない。私の住まいは魂のない里なのだろうか)

 

徒然草19段に面白い表現がある。師走の晦の夜の光景を描いている。

「つごもりの夜、いたう闇きに松どもともして、夜半過ぐるまて、人の門叩き走りありきて、何事にかあらん。ことことしくののしりて、足を空に惑ふが、暁がたより、さすがに音なくなりぬるこそ、年の名残も心ぼそけれ。亡き人のくる夜とて魂祭るわざは、このこびろ都にはなきを、東のかたには、なほする事にてありしこそ、あはれなりしか。」

大晦日の晩は、盂蘭盆と同じ様に旅立った人がこの世に帰ってた来る日と信じられていた。

 

「朗読7

鳴けや鳴けわが諸声に呼子鳥呼ばば答へて帰り来ばかり

(呼ぶ子鳥よ、私が敦道親王を偲んで泣いているのに合わせて鳴きなさい)

万葉集の昔から、呼子鳥は亡き人を呼び出す祈りがあると信じられていた。

 

徒然草21段が参考になる。

呼子鳥は春のものなり。とばかり言ひて、如何なる鳥ともさだかに記せる物なし。ある真言書の中に、呼子鳥鳴く時、招魂の法をばおこなふ次第あり。

 

「朗読8」

月日に添へて、行方も知らぬ心地のすれば
 (月日が経つにつれて、どうかなってしまいそうな気がするので)
57
 死ぬばかり 行きて尋ねむ ほのかにも そこにありてふ 事を聞かばや
(死ぬほどの思いをしても探しに行きたい ほんのかすかでも宮様がそこにいらっしゃることを聞きたいから)

 

「朗読9」

つくづく、ただ惚れてのみ 覚ゆれば      (ぼんやりと、ぼけたような気ばかりするので)
61
 はかなしと まさしく見つる 夢のよを おどろかで寝る 我は人かは[万代集雑五]
(敦道親王の死は、儚いものとまさに自分の目で見た夢のような世の中なのに 目を覚まさないで眠り続けている私は人間なのだろうか)

 

「朗読10

世の中をひたすらに立ち思い離るるに (浮世の事をひたすら離れて生きようと思っているのに)

我住まばまた浮雲のかかりなん吉野の山のなみこそあらめ

聖地吉野山であっても、私が住めば迷いや煩悩が生じて、生きにくい所になるであろう。

 

和泉式部は、元来出家願望があって、亡き人の菩提を弔うとともに、自分自身の安心のために出家を考えていた。しかし現実には捨てきれない迷いに悩んでいた。

掛詞が使われている。浮雲→憂き 吉野→良し

 

「朗読11

三月、つれづれなる人のもとに、あはれなる御事など言ひて
 (三月、淋しく暮らしている人のところへ、身にしみるような宮さまの思い出などを言って)
46
 菅(すが)の根の 長き春日も あるものを 短かかりける 君ぞ悲しき
(こんなに長い春の一日もあるのに あんなに若くして亡くなられた宮さまのことが悲しくてならない)
 「菅の根」は「長き」の枕詞。

 

恐らく、宮の屋敷で同僚だった人に、悲しい気持ちを込めた手紙を送ったのであろう。

 

「コメント」

 

敦道親王への哀傷歌は122首とされる。将に悲しみの絶頂での作品ではあろうが、大したエネルギ-。この後、中宮定子の女房となり、再婚もする。