210403蜻蛉日記①「蜻蛉日記の作者」

本年度の王朝日記の世界は、まずは「蜻蛉日記」、ついで「紫式部日記」を予定している。

「蜻蛉日記の特異性」

「蜻蛉日記」を凄いと思う最大の理由は、「源氏物語」より先に書かれたということ。これより前に、

女性による散文は存在しなかった。
「竹取物語」「伊勢物語」「空穂物語」は源氏物語よりも先に書かれていた。けれども文体やボキャブラリ-から見て、
それらの物語の作者は、男性であろうと推測されている。日記文学には「土佐日記」があるが、紀貫之である。

女性の手になる本格的散文としての「蜻蛉日記」は画期的なのである。
これを考えると、「蜻蛉日記」の作者は、「源氏物語」にいたる散文作品のパイオニアともいえる。

歴史物語である「大鏡」は、藤原道長の空前の栄華を批評した作品である。その中に、道長の父の兼家について述べた部分がある。作者について述べた「大鏡」の文章を見る。

「朗読1

作者の藤原道綱の母についての記述 和歌の上手 「かげろう日記」を夫が、世に広めた。

二郎君、陸奥守倫寧のぬしの女の腹におはせし君なり。道綱と聞えし。大納言までなりて、右大将かけたたまへりき。この母君、きはめたる和歌の上手におはしければ、この殿の通はせたまひけるほどのこと、歌など書き集め「かげろうの日記」と名づけて、世にひろめたまへり。

「現代語訳」

藤原兼家の次男は陸奥国司の藤原倫寧の娘が生んだ人である。この母は極め付きの和歌の名手で
兼家が道綱ののもとに通っていた頃の和歌を集めて、「かげろうの日記」と名付けて世間に広めた。


「講師」

「蜻蛉日記」には、20年以上の夫婦の生活が書かれている。内容の殆どは、夫である兼家に対する不満と夫の愛人へのライバル意識である上中下巻からなっている。これだけの長編を書ける財力は大したものである。当時、紙は高価であった。


大鏡は「蜻蛉日記」の、代表的な場面を紹介している。

「朗読2」兼家が訪ねてきたが、道綱の母がなかなか門を開けない。何度も開けてと言うが、道綱の母は歌で返事する。

殿のおはしましたるけるに、門を遅く開けたれば、たびたび、御消息言ひ入れさせ給ふに、女君、「嘆きつつ独り寝る夜のあくるまはいかに久しきものとかは知る」「いとまことありと」と思し召して、

「げにやげに冬の夜ならぬ槙の戸も遅くあくるは苦しかりけり」

「現代語訳」

殿(兼家)がいらっしゃった時、道綱の母は門を中々開けなかったので、兼家は何回も開けてくれという。道綱の母は歌で返事をする。「貴方が来ないのを嘆きながら、独りで寝る夜の明けるまでの時間がどんなに長く感じられるか御存じか」兼家は「全くその通り」と思って、返歌をした、「その通りだ。

冬の夜でもなくても、槙の戸が開かないのは辛い事です。」

「講師」

小倉百人一首でも有名な歌である。この場面は「蜻蛉日記」でも詳しく話す。兼家が愛人の家に行く事に道綱の母が、苦しんでいる場面である。冗談めかして余裕たっぷりの返事をしている。こんな性格の兼家も、政治の世界では違った面を見せる。花山天皇を欺いて、自分の孫を一条天皇として即位させるのである。

 

花山天皇が兼家、道兼親子に騙されて退位し出家して泣く場面がある。

「朗読3

「我をば謀るなりけり。」とてこそ泣かせ給ひけれ。あはれに悲しきことなりな。

「現代語訳」

「私をだましたのだな」といってお泣きになった。お気の毒な事であった。

「講師」
大鏡は歴史物語なので、史実そのものではない。但し花山天皇が退位し、一条天皇が即位したから、華やかな文学サロンが花開き、「枕草子」「源氏物語」などが書かれたのである。

 

作者(道綱の母)の係累について少し話す。

基本的に受領階級である。「更級日記」の作者 菅原孝標女は、姉の子。

弟の藤原長能(ながとう)は歌人として著名。→勅撰和歌集に50首以上。
能因法師は彼の弟子。「あらしふくみ室の山のもみじばは竜田の川の錦なりけり」

               「都ほば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」 

藤原長能の性格をよく表しているエピソ-ドがある。平安末期に成立した「古本著聞集」に出ている。文中に大納言とあるのは、当時の和歌の第一人者の藤原公任である。

古本著聞集→世俗説話・仏教説話より成り、紀貫之・藤原公任・和泉式部・赤染衛門などの人物が

登場する。

「朗読4」藤原長能が、春を惜しんで旧暦三月は29日なので残念といった所、和歌の第一人者の藤原公任が、春は三月ばかりではないと言ったので、それを聞いた長能は落ち込んで、病気になって死んでしまった。
春を惜しみて、三月小ありけるに、長能、心憂き年にもあるかな。二十日あまり九日といふに春の暮れぬ。と詠み上げけるを、例の大納言、「春は二十九日のみあるか」とのたまひけるを聞きて、「ゆゆしき過ち」と思ひて、物も申さず、音もせで出でにけり。さて、そのころより、例ならで重きよし聞き給ひて、大納言とぶらひにつかはしたりける返り事に。
「春は二十九日あるか」と候ひしを、「あさましき僻事をもして候けるかな」と、心憂く嘆かしく候ひしより、かかる病になりて候ふなり。」と申して、ほどなく失せにけり。

「現代語訳」

藤原長能は、いつまでも春は終わらないでと、願っているのに、今年の三月は30日ではなく29日だという歌を詠んだ。これを聞いた藤原公任はクレームをつけた。
「確かに今年の三月は29日だが、1月も2月も春だから、その言い方はおかしい」といった。これを聞いた長能は深刻に受け止めて、間違った歌を作ってしまったと言って、病になり死んでしまった。

「講師」
旧暦では、年により大の月と小の月があり、大は30日、小は29日である。この生真面目さは、

姉の道綱の母にも通じる所がある。夫の愛情の薄さを嘆く性格はかなりしつこい。
道綱の母には姉妹があり、菅原孝標と結婚したのが、生まれたのが菅原孝標女で「更級日記」の

作者。姪である。

 

「蜻蛉日記の存在はどうだったのか」

「蜻蛉日記」はどのように読まれてきたのか。例えば「源氏物語」の研究は鎌倉時代に藤原定家に

よって始まった。そして室町時代には多くの研究書が書かれた。しかし「蜻蛉日記」の研究書は、江戸時代まで生まれなかった。
源氏物語に先んじて、女性によって書かれた散文は忘却されていたのである。「更級日記」は、藤原定家が写本をしてくれた。「和泉式部日記」は、室町時代の写本が残っている。
「古今和歌集」「伊勢物語」「源氏物語」は、鎌倉時代から盛んに読まれ、室町時代には解釈の頂点に達していた。
それに比べると「蜻蛉日記」の影は薄い。そして、なかなか読みづらい文章であった。意味不明な部分が多かった。
よって現在読まれているのは、後の研究者たちが行った推定本文である。

 

上中下巻があるが、講座では上を中心に読む。上巻の最後に「終わり」と相当する部分があるから。その部分は以下。

「朗読5」年月は経つが思い通りにならない身を嘆き、新年も嬉しくない。これは、かげろうの様に儚い女の日記である。

かく年月はつもれど、思ふようににもあらぬ身を嘆けば、声あらたまるもよろこばしからず、なほものはかなさを想へば、あるかなきかのここちするかげろふの日記といふべし。

「現代語訳」

こうして年月は経っていくが、思うようにならない身の上を嘆き続けているので、新年も嬉しくはない。相も変わらないもの儚い身の上であることを想うと、かげろうにようにはかない女の日記ということになろう。

「講師」

「蜻蛉日記」という名は、この文章に由来する。

 

「かげろうとは何だろう」

まずは「蜻蛉日記」の最古の研究書から見てみる。「蜻蛉日記解環」 坂 徴 天明2年 1782年。

そこには、「かげろう」とは、ゆらゆらと見える自然現象と書いてある。陽炎である。しかし明治以降の研究書には「朝に生まれて、その日に死んでしまうカゲロウ科の昆虫とする。
(
源氏物語には)

宇治十帖にその名も「かげろう」という巻がある。最後の場面で、薫は自分の愛情に応じてくれなかった三人の女性を思いだして嘆く。八宮の三人の娘のうち、長女の大君は、薫を拒んだままで死んでしまう。中の君は匂宮の妻となる。三女の浮舟は薫と匂宮の三角関係に落ち入り、失踪してしまう。

三人の娘を想う薫に、かげろうが見えた。次の歌を詠む。

「朗読6」

何事につけても、かのただ一つゆかりのをざ思ひ出を給ひける。あやしう、つらかりける契りどもを、つくづくと思ひ続け眺めたまふ夕暮れ、かげろうののものはかなげに飛びちがうを

「ありと見て手にはとられず見てはまた行方も知らず消えしかげろう」

→目の前にいたの、行方も知れず消えてしまった。あのかげろうにように。
あるがなきかの と例の独りごちたまふ、とかや。

「講師」かげろうのまとめ 「蜻蛉日記」があったからこそ、源氏物語」は出来た。

季節は秋。ここでかげろうは、ものかないものとされている。昆虫をさしている。

一条兼良(室町時代の文化人 古典文学の第一人者)は、研究書で次の様に述べている。

カゲロウには二つの意味がある。

・春の陽気が煙の様にみえること

・命が儚いとされる虫

源氏物語 かげろうの巻は、季節が秋なので虫の方が文脈に叶う。

 

「コメント」

殆んど読まれず、研究書も出来なかったのは読んで面白くなかったからだろう。単なる焼餅焼きの女の愚痴と取られたのでは。しかし女性の散文としては最初で、当時を知る一級資料ではあるのだろう。更級日記や和泉式部日記の様にスト-リ-性があって、次はとなる作品ではないと覚悟して読もうそれにしても長いな。