210911蜻蛉日記㉔「床離れ、下巻のあらまし」

蜻蛉日記の本文を読むのは今日が最後。下巻のあらましを説明する。作者3739歳に書かれている。

蜻蛉日記の上巻は、作者が19歳で兼家の求愛を受ける場面から始まる。20年の女の一生が書かれていることなる。

下巻は息子の道綱が、好意を抱いた女性に恋歌を送ったり、作者が養女を迎えたことが書かれている。その中で、夢のお告げが語られる場面が注目された。

・蜻蛉日記は作者道綱の母が、19歳から39歳までの20年の日記

 

「朗読1」2年前の石山寺の僧侶から、最近貴方に関する夢を見たとの報告が入る。

     まさに眉唾。

十七日、雨のどやかに降るに、方塞がりたりと思ふこともありも、世の中あはれに心細くおぼゆるほどに、石山に一昨年詣でたりしに、こころぼそかりし夜な夜な、いと陀羅尼尊う読みつつ礼堂にをがむ法師ありき、問ひしかば、「去年から山ごもりしてはべるなり。穀断ちなり。」など言ひしかすば、「さらば、祈りせよ。と語らひし法師のもとより、言ひおこせたるよう、「いぬる五日の夜の夢に、御袖に月と日を受けたまひて、月をば足の下に踏み、日を胸にあてて抱きたまふとなむ、見てはべる。これ夢解きに問はせたまへ」と言ひたり。いとうたておどろおどろしと思ふに、疑ひそひて、をこなるここちられば、人にも解かせぬ時しもあれ、ゆめあはする者来たるに、異人の上にて問はすれば、うべもなく、「いかなる人のるぞ」と驚きて、「みかどをわがままに、おぼしきさまのまつりごとせむものぞ」とぞ言ふ。「さればよ。これがそらあはせにはあらず。言はおこせたる僧の疑はしきなり。あなかま。いと似げなし。」とてやみぬ。

「現代語訳」

天禄三年937217日、雨がのどかに降っているし、あの人の方から方塞がりで来られない事と思うと、世の中が心細くてなっている。石山寺に一昨年参籠した折、心細かった夜毎に、陀羅尼経をとても尊く読んでいた僧侶がいた。

尋ねたら、「去年から山籠もりしています。穀断ちです。」などと言うので、「それでは私の為に祈って下さい」と頼んだ。

その僧侶から、言ってきたのは、「さる15日の夜の夢に、奥様の御袖に月と日を受けて、その月を足の下に踏んで、日をば胸に当てて抱いておられたのを見ました。」「この夢を夢解きにお聞きください」と言ってきた。

嫌だ、大袈裟なと思うし、いい加減なことを云ってきてるのではと疑って、夢解きもして貰わずいた時に、丁度夢判断をする人が来たので、他人の事のようにして聞くと「一体どんな人が見たのでしょうか。」と驚いて、「その人は朝廷を意のままにして、思い通りの政治を行うでしょう」と言う。「夢判断は間違っていないが、やっぱり、あの僧がいい加減なことを云ったのだと疑わしい。内緒ですよと

言って、それきりにした。

「講師

2年前に籠った時の、僧侶から報告が届いたのである。

この後に話は続く。

侍女が邸の門を、立派に建て直される夢を見た。作者も右足の裏に、大臣の邸の門という文字を書きつけられた夢を見る。これに三つの夢が指し示しているのは、息子道綱の出世に関すること。実際には、」大臣までは行けず大納言止まりであったが。

源氏物語、更級日記にも夢の話しはある。王朝女性の夢の凝縮であろう。

 

「朗読2」兼家はどんどん遠退く。気にもしてくれないので家も荒れていく。見かねた父が

     引っ越しをさせる。

六七月、おなじほどにありつつはてぬ。つごもり二十八日に、「相撲のことにより、内裏にさぶらひつれど、こちものせむとてなむ、急ぎ出でぬる」などて、見えたりし、そのままに、八月二十余日まで見えず。聞けば、例のところにしげくなむと聞く。

移りにけりと思へば、うつし心もなくてのみあるに、住むところはいよいよ荒れゆくを、人少なにもありしカバ、人にものして、わが住むところにあらせむといふことを、わが頼む人さだめて、今日明日、広幡中川のわどに渡りぬべし。

佐部氏とは、さきざきほのみーめかしたけど、今日などもなくてやはとて、「聞こえさすべきこと」と、ものしたれば、「つつしむことありてなむ」とて、つれもなければ、なにかはとて、音もせで渡りぬ。

「現代語訳」

六、七月は同じ様にして過ぎた。月末の二十八日に「相撲の節会で、宮中に出ているが、ここに来ようと思い、急いで退出してきた。」などと言って、ここに来たあの人は、そのままで八月二十日過ぎまで来ない。噂では、例の女の所に足繫く通っているらしい。全てが変わってしまったと思うと、正気もなく呆然としていると、住む家はどんどん荒れ果てていく。

あの人が世話する人も寄こさないので、私の父が、ここは人に譲って、早速にも自分のもっている広幡中川の邸に、住まわせようと取り決め、早速に移ることになる。この事はあの人に以前からほのめかしていたのだが、やはり今日移るという事は知らせなければと思って、「申し上げたいことがあります」と手紙をやったけれども、「物忌があって行けない」とつれないので、それではと黙って引っ越した。

 

「朗読3」移り住んだ所で、いよいよ夫婦仲も終わりかなと、寂しく思う。

九月になりて、まだしきに格子を上げて見出だしたれば、内なるにも外なるにも、川霧立ちわたりて、麓も見えぬ山の見やられたるも、いと物悲しうて、

流れての床と頼みて来しかどもわがなかがははあせにけらしも

とぞ言はれける。

「現代語訳」

9月(ながつき)になって、朝早い時に格子を上げて、外を眺めると、家の内も外も河霧が立ち込めて、麓も見えない山が見えるのも、とても物悲しく思えて、歌を作った。

時が流れても、夫婦仲は大丈夫と頼りにしてきたが、中川の水が浅くなるように、私たちの中も疎遠になってしまった。
と口ずさんだ。

 

「朗読4」息子が重い疱瘡にかかる。報せたのに兼家は素っ気ない。腹が立つ。

      九月初めには治る。

八月になりぬ。この世の中は、皰瘡(もがさ)おこりてののしる。二十日ほどに、このわたりにも来にたり。助いふかたなく思くわづらふ。いかがはせむとて、言絶えたるひとにも告ぐるばかりにあるに、わがここちはまいてせむかたしらず、さ言ひてやはとて、文して告げたれば、返りごといとあららかにてあり、さては、ことばにてぞ、いかにと言はせたる。さるまじき人だにぞ来とぶらふめると見るここちぞ添ひで、ただならざりける。右馬頭も面なくしばしばとひたまふ。九月ついたちにおこたりぬ。

「現代語訳」

八月になった。世間では天然痘が発生して大騒ぎである。二十日頃にはこの辺りにも広がってきた。道綱(右馬助)罹って、重く患った。音信のない人(兼家)にも知らせようかと思う位なので、どうしていいか分からない。手紙でこの事を書いてやると、素っ気ない返事が来た。ただ手紙を運んできた人の口上で、「どんなですか」と言わせた。親しくない人も見舞いに来るのにという事もあって、心穏やかでない。右馬頭も面目なさそうにして、しばしば見舞いに来る。九月初めに病気は治った。

 

「朗読」正月の準備をしながら、今年を回想している。

今年いたう荒るるとなくて、斑雪ふたたびばかりぞ降りつる。助のついたちのものども、また白馬にものすべきなど、ものしつる程に、暮はつる日にはなりにけり。明日のもの、折り巻かせつつ、人にまかせなどして、思へば、かうなか゜らへ、今日になりにけるもあさましう、御魂など見るにも、例の尽きせぬことにおぼほれてぞはてにける。京のはてなれば、いたう更けてぞたたき来なる。(とぞ本に)

「現代語訳」

今年は天候が荒れるという事が無くて、はだれ雪が二度ほど降っただけ。道綱の元日の装束や、白馬の節会に着ていくものなど、準備して内に大晦日になった。元日の引き出物など折ったり巻いたり、侍女に任せたりなどした。
考えてみると、この様に生き永らえて今日になるのも思いがけなくて、御魂祭など見るにつけ、いつもの物思いに耽っている内に、今年も終わってしまう。京のはずれなので、夜が更けてから、追儺の人たちが門を叩きながら回ってくる。

(書写者が、もとの本にはこうあります)と書いている。

「講師」

蜻蛉日記の最終である。作者39歳。この後、60歳まで生きる。

51歳の時、一条天皇が即位し、兼家は摂政となる。権力の頂点である。兼家没後、三男の道長に

なる。疫病のため長男道隆、次男道兼が死亡したため。

・蜻蛉日記の作者が没してから10年、1008年に、源氏物語を執筆中であることが、「紫式部日記」にある。源氏物語と相前後して、和泉式部日記も書かれた。女性による散文の名作が続々と誕生した。

・女性の名作の先駆けが、此の「蜻蛉日記」である。

 

「コメント」

事実上の最終回。まあ文芸に達者な作者だけど、一般読者として読んでいて、楽しい本ではない。なにせ、愚痴っぽいのである。兼家旦那がまさに音を上げているのが目に見える。救いは、息子の道綱。父の威光で大納言、よしよしだな。

 

講師の講義として指定するのは、全体の1/5程度か。まず加賀美幸子アナが読んで、それを講師が現代語訳して、解説を加えていくスタイル。どの古典講読も同じ。