210918蜻蛉日記㉕「蜻蛉日記と近代小説」

蜻蛉日記に題材を得た文学者を三人紹介する。田山花袋・堀辰雄・室生犀星。

「田山花袋」

島崎藤村と並ぶ自然主義文学の巨匠である。「布団」「田舎教師」は有名である。加山花袋は古典文学を原文で読めた。彼に「長編小説の研究」と言う本がある。外国文学から日本文学まで、優れた長編小説の数々を論じながら、自分自身の文学感を語っている。その中で、日本文学からはまず

「源氏物語」を取り上げ、高く評価している。
(源氏物語についての部分引用)

それにしても、どうしてああいうものがあの時代に出来たのであろうか。またどうしてああした優れたものが、身近にあるのに、今の若い人たちは、それを棄てて顧みないのであろうか。あらゆるものが、そこに有るではないか。権力の争い、骨肉の争い、不倫な恋、恋を得た者の喜び、恋を失ったものの悲しみ、今と少しも変わらず展開されている人生。

そういうものが、全てその中に様々な色彩をつけて、現われだしているではないか。

 

古典である源氏物語の中に、近代文学と変わらない要素が全て揃っていると言っている。

田山花袋の「長編小説の研究」は、源氏物語の後で「大鏡」「今昔物語」に触れた後で、「蜻蛉日記」に好意的な評価をしている。ある意味で「源氏物語」より優れているとさえ言っている。

(蜻蛉日記についての部分引用)

この「蜻蛉日記」は、形は日記で、その性質からいってもその女の生活記録であるから、その視野は狭くどこかせせこましい所はあるにせよ、その代わりに「源氏物語」に比べて一層人を動かす所が多いのを見過ごせない。つまり今の言葉で言えば、「源氏物語」は本格小説、「蜻蛉日記」は心境小説といった形となる。だから、それを読んで胸にびしびしと来るのは前者より後者で、心理的からいってもいまと少しも変わらず、また周りの様子を描いた様も、非常に生き生きとして真に迫っている。

 

「源氏物語」を本格小説、「蜻蛉日記」を心境小説と言ったのは流石である。田山花袋は「蜻蛉日記」の中でも、特に作者が鳴滝の山寺に籠る場面に感銘を受けた。そして、蜻蛉日記を題材として小説に書けるのではないかと感じた。

そして書かれたのが「道綱の母」という小説である。婦人の友と言う雑誌に大正14年に「愛と恋」というタイトルで連載された。田山花袋の小説「道綱の母」は、作者の母が鳴滝の山寺で亡くなる場面までを描いているのだから、彼が最も書きたかった「蜻蛉日記」中巻の鳴滝籠りまでは書いてない。彼は、「蜻蛉日記」の作者に仕える侍女を登場させ、身近で作者の人生を目撃させて、その心を覗き込ませている。
「道綱の母」から主人公が、夫の兼家との関係が上手く行かないのに悩む場面を読む。

(田山花袋の小説「道綱の母」からの部分引用1)

道綱の母にはそれだけでは物足らなかった。彼女は恋愛と言ったようなものに憧れた。二つの心が一つになって、それが何物にも動かされないものになる、何にぶっつかっても決して壊れない恋、金剛不易な恋、10年会わなくっても、一生会わなくっても変わらない恋、そうした恋を彼女は目の前に描いた。手を合わせる仏の体の中にも、その真の恋が隠されているような気がした。

 

美貌と文学の才能に恵まれた主人公は、このような恋に憧れていたのに、夫の兼家が与えてくれるものは、こういう恋ではなかった。彼女に大きな転機が訪れたのは、母親との死別であった。人間の避けられない運命として、死別と言う悲しい現実は、恋や愛についての彼女の意識を変えたのである。この場面を移転要する。

(田山花袋の小説「道綱の母」からの部分引用2)

道綱はそれでも幾らか安心したというようにして、母親の顔を見つめた。と同時に、彼女の頭には色々な事が押し寄せてきた。兼家の事について、これまで長く苦しんで悶えてきたこともあるが、今ではその為に苦しんでいないことは無いが、しかもそれ以上に、この人生のことが深く彼女の頭に迫って来るのを感じた。今までの彼女の心持の様な気分ではいられないような気がした。道綱と自分のことは、それとはっきり思いだされると共に、兼家と自分と道綱のことがはっきりと目の前に浮かんできた。自分も一度はそうした悲哀を、此の道綱に味わわせねばならないのである。母子の別れはどうしたって、否定することは出来ないのである。そう思うと恋という物に対する考え方も、愛と言う物に対する考え方も、いままでとは違ってすっかり、そこに全面を表して来たように思えた。人間に悲哀があっても、その信義と嫉妬の間に、身も魂も滅びそうになることはあっても、そんなことには少しも頓着

せずに、人生と自然とはその微妙な空気を作って、静かにその歩んでいくべき所へと歩いて行って

いるのだった。そう思ったときには、彼女は堪らなく悲しくなって来た。

自分のその身が悲哀と共に、何か大きな空間にでも漂っているような気がした。

彼女は道綱に対して、こみあげてくる涙の汐を、喉の所でせき止めるようにした。

 

自分を慈しんでくれた母の死を目の前にして、自分もいつかは我が子道綱と死に別れて、道綱に悲しい思いをさせなくてはならないと気付いたである。このように人生の厳粛な真実を前にして、自分がこれまで求めてきた理想の恋や愛に対する見方が、大きく変わったのである。自分が憧れてやまない恋愛が、生老病死という人間の真実の前にすると、急速に色あせて考えられたのでなかろうか。兼家が愛人を作って彼女を悲しませたことも、これまで信義と嫉妬、つまり怒りと妬みの感情に駆られて、自分はこれ以上生きてはいられないという切羽詰まった気持ちになったものであった。

けれども生老病死という人間の巨大な真実を前にすると、人間は生きている間は生きていけるし、又どんなに生きていたくとも、死ぬ時は死ぬのだと悟った。思いや嫉妬が人間の命の前では、いかに些細な事であるのか、身に染みて理解できたのである。
田山花袋は
「蜻蛉日記」の作者には出来なかった、自分の人生の相対化するということを、作者の代わりに近代小説の中で行ったのである。

田山花袋も又人間の個性を押しつぶす近代社会に苦しみ続けた。そのような自分自身の苦しみや、悲しみを相対化したかったのであろう。

自然主義文学者である田山花袋の面目躍如たる小説が、この「道綱の母」であった。

 

「堀辰雄」

堀辰雄は「「蜻蛉日記」の上巻と中巻に題材を得た「かげろふの日記」と、下巻を扱った「ほととぎす」がある。

「かげろふの日記」は講師の中学時代の愛読書である。堀辰雄の代表作は「風立ちぬ」であるが、、此の最終章「死の影の谷」が書かれたのは、「かげろふの日記」が書かれた一か月後であった。その為「かげろふの日記」の文体は「風立ちぬ」とよく似ている。繊細で抒情的である。第22回の放送で、蜻蛉日記の作者が、鳴滝から連れ戻される場面を読んだ。都に戻った彼女は、信仰を貫けなかったことを悲しんでいた。そこで、留守を守っていた侍女が寄ってきて、撫子の種を取り忘れたことや、

呉竹が一本枯れた事を報告したのである。堀辰雄はどのようにこの場面を描いているのだろうか。

(堀辰雄の小説「かげろふの日記」からの部分引用 1)

京では春の内から私の帰る由を言い置かれていたとみえ、人々は塵払いなどもし、遣戸などもすっかり明け放してあった。私はしぶしぶと車から降りた。そうして気持ちもなんだか悪いので、すぐ几帳を拡げてうち臥していると、そこへ留守居をしているものが寄ってきて、「撫子の種を取ろうとしましたら、すっかりなくなっていました。それから呉竹一本倒れました。よく手入れしておきましたが」などと

私に言った。

返事せずにいると、眠っていると思っていたあの方が、耳さとくそれを聞きつけられて、障子越しにいた道綱に向かって、「聞いているか、こんなことがあるよ。この世に背いて家を出るまで菩提を求めようとした人にな、留守居のものが何を言いに来たかと思うと、撫子がどうの、呉竹がどうのとさも大事そうに、聞かせているぞ。」と笑いながらおッ仰ると、あの子も障子の向こうでくすくす笑い出していた。それを聞くと私までおかしいような気持になりかけていたが、ふとそんな自分に気付くか早いか、それがいかにも自分でも思いがけない様な気分がしながら、私という物はたったこれっきりだったのかしらと思わずにはいられなかった。」

 

堀辰雄の古典解釈は、「蜻蛉日記」の原文を深く読んで、その上で近代小説に移し変えようとしている。ただし、第22回で説明したように、撫子と呉竹の話を語りかけたのは、作者の妹であった。堀辰雄は我が子の道綱と考えたのだ。

これは解釈の相違であるが、堀辰雄は「蜻蛉日記」という古典をしっかり読み込んだ上で、要約したり変更したりして、近代小説に組み替えているのだ。
あの方とあるのは、夫の兼家である。兼家に対しては丁寧な敬語が用いられている。
その結果、作者夫婦が人間として互いに理解し得ない精神の断崖絶壁に立たされているという、

「蜻蛉日記」原作の持つ深刻さが薄められている。要するに、優雅であり、品が良いのである。

撫子や呉竹の留守居の報告を、耳ざとく聞きつけた兼家が息子の道綱に語り掛けている。道綱は

笑いを抑えきれず、作者まで笑い出しそうになった。まことに微笑ましい家族三人の風景である。

因みに、この個所の原因は兼家が語り掛ける相手に、尊敬語を用いているのである。私の考えでは、余程の皮肉でなければ父親の兼家は、息子の道綱に尊敬語を用いることはない。

逆に言えば、堀辰雄は家族の絆というものに、強い憧れを持っていたのではないか。鳴滝の般若寺での仏道修行に、新しい自分自身の新しい人生を見出そうとして挫折した作者の精神的苦しみが、「私というものは、たったこれっきりかしら」と思わずにはいられなかったと言う風にアレンジされている。

「たったこれっきり」でありながら、掛け替えのない私と言うもの、そうした人生の真実を、堀辰雄は「蜻蛉日記」から発見したのである。

堀辰雄の「かげろふの日記」からもう一ヶ所読む。小説の終わりに近い部分である。

(堀辰雄の小説「かげろふの日記」からの部分引用 2)

それからまた数日の後だった。今度伊勢守になられた私の父は、近いうちに隣国へ移らねばならなかった。それで暫らくでも、ご一緒に暮らしたいと思い、あの方には相談もせずに、私は父と共にある物静かな家に移った。

そんなにまでしたのに、それから二三日したある昼頃、急に玄関がもの騒がしくなった。誰だろう向こうの格子を開けたのはと、私の父親まで驚いて、皆と一緒に立ち騒いでいると、そこへ突然あの方はお入りになっていらした。

そうして、いきなり私の前のほうに立ちはだかって、いくらか色さえお変えになりながら、傍らにあった香や数珠を投げ散らかされ出した。しかし、私は身じろぎもせず、どんな事をなされようともと堪えながら、あの方のなされるままにさせていた。そんな心にもない乱暴なことをなさりながら、却ってあの方がお苦しみになっているのがどういうこともなしに、ただそうやって、あの方のなすが儘になっている内に、私にも分かってきた。しかしご自分では一向にお気付きなさろうとはせずにいらっしゃる。

ここは第23回で取り上げた「初瀬詣で再び」の場面である。堀辰雄にしては大胆な脚色である。原作の「蜻蛉日記」では、長谷寺にお参りするために作者と父親が精進潔斎していたのに、兼家が乱入してきて大暴れしたのであった。

堀辰雄は、この場面で乱暴な振る舞いをして、作者を苦しめる兼家と言う男の心の中を、覗き込んで読んでいる。

却ってあの方が私にお苦しみになっているという箇所がキーセンテンスである。原作の「蜻蛉日記」を、兼家の女性問題に振り回される作者の苦しみが強調されている。けれども堀辰雄は、妻を愛している故に、自分の妻への愛情が、妻に伝わっていない夫の悩みを読み取っている。

互いが互いに無意識のうちに苦しんでいる。その事に気付いて更に苦しむ妻と、一向に気付かない夫、生きる事の切なさ、別の言い方をすれば、人生の不条理に自虐的な妻と無自覚な夫、悲しい夫婦の姿を堀辰雄は描きあげた。

平安時代の「蜻蛉日記」は、堀辰雄の手で、西洋的で知性的な作風の小説に生まれ変わった。



「室生犀星」

室生犀星には「かげろうの日記遺文」という小説がある。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたうもの

よしや

うらぶれて異土の乞食となるとても

帰るところにあるまじ」

この詩を知らない人はいない。

室生犀星は数々の王朝物語を書いたが、「かげろうの日記遺文」は、その集大成ともいえる小説で

ある。

遺文には生前には発表されなかった文章と言う意味がある。

冒頭の部分を読んでみよう。

(室生犀星の小説「かげろふの日記遺文」からの部分引用 1)  妻の作者の描写  冷たい美人で物を書く

彼女が人目を引いている訳は、見るとひやりとさせる冷たい美しさであった。それにも増して容易には笑わない子で、ただ目を散らせるだけで、それで言葉の代わりになり、笑いの意味をも伝えた。品とか位とか生まれながらに持った女と言ってよい。品と位のある顔は17歳になってもこぼれる色気を退けていると云って良かった。雪の降る日にも、簾をあげて庭を見る日常には、その景色にふさわしい顔立ちと見る他はなかった。

余り品の言い顔というのには、人の心を入れない嘲りが含まれている。高々しいという感覚には、抒情がと乏しいものなのだ。「蜻蛉日記」の筆者である紫苑の上は、建暦7年には18歳になっていた。が艶々しい皮膚の明かりは持っていたが、高慢さと嘲りとも見える顔つきは深まる一方で、それは消え難いものになっていた。

 

堀辰雄の文体が静謐優美であったのに対し、室生犀星の「かげろうの日記遺文」の文体は、妖艶で粘着的である。

「蜻蛉日記」の作者は、品とか位を生まれながらに持った女とされている。気品と気位が彼女の本質なのである。

「蜻蛉日記」の作者の本名は不詳。実名が残るのは天皇に関わる女性だけである。

父親の名を使って~の女、息子の名を使って~の母夫の名を使って~の室とか。

これでは近代小説は書けないので、田山花袋の小説では、チョウ子、堀辰雄では私と言う一人称、室生犀星は紫苑と。紫苑は冷たい美しさの女性として描かれている。18歳の秋に文章を書く喜びを

知る。

(室生犀星の小説「かげろふの日記遺文」からの部分引用 2) 物を書くようになる妻の描写 自分の世界を持つようになる

書くことの嬉しさの果てに紫苑は生きる自分を見ることに疑いを持たなくなった彼女は自分に言い聞かせていた。何事でもないことにも書き留めて、昨日が何にためにあったのか昨日は何のよすがで訪れるかを薄様(うすよう)の上に述べてみたかった。物を書こうとする私を今まで、どこにか隠れていて不意に、私に溜まったものを、掬いあげようとしてくれた新しい私。私はそなたを頼み、そなたは私をかき抱いてくれるようにと、紫苑は自分に祈った。

 

書く女として目覚めた紫苑は、これから兼家との関りを日記に書き記すことになる。兼家は紫苑の

本質である品や位をどうにかして、壊そうとする。壊されたくない紫苑との戦いが、二人の間の垣根を作ってしまうのである。

兼家の心には、自分が見通されているという恐怖感が発生する。私を描き尽くし、読み分け、見届ける存在だと、紫苑を恐れるのである。だから紫苑とは正反対の女、即ち女そのものである女、男の全てを無条件に拒むことなく、受け入れてくれる町小路の女に、夢中になるのは必然であった。室生犀星はこの町の小路の女に、冴野と言う名を与えている。

次に此の冴野が紹介される場面を読む。

(室生犀星の小説「かげろふの日記遺文」からの部分引用 ) 町の小路の女 冴野の描写

西の洞院と室町の小路の間に、ともすれば蓬、刈萱を刈らぬままの一つの小路があった。町の小路の女の邸がそれだ。ある皇族の女が、邪な恋の結婚をして産んだ男子が、更に身分賤しい女に産ませた娘としての、冴野は物憂げに庭を見やった。父元上総介源匡房の死後、二人の男渡りをしたと噂されているが、妖満な肉は衰えを見せず、人々はくち縄の君とさえ、その音もない冴野に美しさを

なぞらえた。

 

町の小路の女は、天皇の孫であると見るのが自然である。冴野の父の名前も役職も明示されている。
更にこの後に、冴野の前の夫まで実名で登場し、兼家と鉢合わせして、男の本音を語りあう。

私が興味を持つのは、冴野がくちなわの君と呼ばれる点である。

室生犀星は詩人でもあるが、「青い魚を釣る人」という詩集があり、その中に「瑠璃色の黄昏」という

詩がある。

それを引用する。

(室生犀星の詩集「瑠璃色の黄昏」からの部分引用 )

をみなよ

きみがあやしき瑠璃色の黄昏は

なにをもとめつつ輝くぞ

匂ひをみなぎらす豊麗のしら蛇

なよらかに今

おんみが肌にまつはれるならずや

いまだ春あさくはあれど

深き君が窓べに

絶ゆることなき秘密をつつむ

官能的な詩である。室生犀星は男の欲望を、ありのままに受け入れてくれる女性を白いくちなわに例えているのである。兼家には時姫という正妻がいる。時姫は室生犀星の小説の中でも、時姫として登場する。紫苑・冴野・時姫という三つ巴の女の闘いが繰り広げられる。すると品と位を守り続け、兼家の肉体的要求に負けまいと努めてきた紫苑に、微妙な心の変化が見られるようになる。

原作の「蜻蛉日記」では作者は、町の小路の女を憎悪し続ける。彼女が生んだばかりの幼児を死なせた時には、快哉を叫んだほどである。「蜻蛉日記」の読者の多くは、作者の人間性に恐怖を感じたことであろう。所が室生犀星の「かげろふの日記遺文」では、時姫と冴野が直接に対決している。

又冴野が紫苑の夢の中に現れて、女同士で腹を割って会話をしている。身長が高く、権高い時姫は一時的に冴野を攻撃し、姿を消すように脅迫する。この辺りは「源氏物語」で、夕顔を脅迫して姿を

消させた、頭の中将の正妻を連想させる。
紫苑と冴野は女なるものの両極端なのに、互いの本質を理解し合うのである。冴野は紫苑に、兼家が求めている安らぎを与える様にアドバイスする。冴野は兼家に対しても、紫苑の所へ足を運べと水を向ける。

冴野の本心を知った紫苑は、これまで自分が強固に身に纏ってきた品と位を客観視できるように

なる。その結果、紫苑と兼家の夫婦仲は好転した。

この後は、皆さん、「かげろふの日記遺文」を読んで下さい。

冴野という女性には、室生犀星の実の母への深い思いが込められている。「蜻蛉日記」を、もし町の小路の女の視点で再構成したら、どういう世界が現れるか確認してください。

 

三人の作家が「蜻蛉日記」から読み取ったのは、何だったのかと考えてきた。「蜻蛉日記」は次の

時代の紫式部に大きな影響を与えた。その後は「源氏物語」の影響が大き過ぎて、「蜻蛉日記」そのものの影響力は減少し、近代に入ると、「蜻蛉日記」は再評価されている。今では、「蜻蛉日記」

面白さや、道綱の母、藤原倫寧の女という作者の人間性も分かってきた様に思われる。

 

「コメント」

4月から25回の講座。結構面白く過ごした。しかし原文を読みこなす力はないので、講義と解説本とで対応。原本の作者は何とも好感の持てる女性ではなかったが、三人の近代作家の小説は、面白い。特に室生犀星の小説「かげろふの日記遺文」の描き方には、興味。機会があれば読んでみよう。