敦成親王誕生は寛弘5911(1001)、父一条天皇、中宮彰子(藤原道長の娘)、同母弟に敦良親王(花園天皇。

道長の外孫として、8歳で後一条天皇として即位する。出産前日の人々の動きから読み始める。

 

「朗読1」中宮彰子の几帳台の周りに、女房達が集まり案じている。高僧たちが祈祷をしている様子。全員大騒ぎ。

御帳の東面は、内の女房まゐりつどひてさぶらふ。西には、御物の怪移りたる人々、御屏風一よろひを引きつぼね、坪る口には几帳を立てつつ、験者あづかりあづかりののしりゐたり。
南には、やむごとなき僧正、僧都かさなりゐて、不動尊の生きたまへるかたちをも、呼びいであらはしつべう、たのみみ、うらみみ、声みなかれわたりにたる、いといみじう聞こゆ。北の御障子と御帳とのはざま、いとせばきほどに、四十余人ぞ、後に数ふればゐたりける。いささか身じろぎもせられず、気あがりて、ものぞおぼえぬや。いま、里よりまゐる人々は、なかなかゐこめられず、裳のすそ、衣の袖、ゆくらむかたも知らずさるべきおとななどは、しのびて泣きまどふ。

「現代語訳」

御帳台の東面には、中宮定子付きの女房達が集まっている。西には中宮様の物の怪が乗り移った人々を、屏風で囲って、修験者が一人一人を受け持って、大声で祈祷している。南には、偉い高僧たちが、幾重にも座って、不動明王を目の前に生きたまま、現出させるように、声を枯らして祈願しているのはとても尊く感じる。北の障子と御几帳代の間の、

とても狭い間に四十人以上が座っていた。少しの身じろぎも出来ず、のぼせ上ってしまい、よく覚えていない。新しく里から来たような人々は、中に入れて貰えず、裳裾や衣の袖は、人込みで何処に行ったか分からず、主だった人々は中宮様を案じて、忍び泣きをしている。

 

「朗読2」難産なので、色々と全員必死。道長も自ら願文を読んでる。

十一日の暁も、北の御障子、二間はなちて、廂にうつらせたまふ。御簾などもえかけあへねば、御几帳をおしかさねておはします。僧正、きやうてふ僧都、法務僧都などさぶらひて、加持まゐる。院源僧都、きのふ書かせたまひし御願書に、いみじきことども書き加えて、読みあげ続けたる言の葉の、あはれにたふとく、頼もしげなること限りなきに、殿のうちそえて、仏念じきこえたまふほとせの頼もしくて、さりともはと思ひながら、いみじうかなしきに、みな人涙をえおしいれず、「ゆゆしう」「かうな」など、かたみにいひながらぞ、えせきあへざりける。

「現代語訳」

難産が続くので、十一日の明け方に、北側の障子を取り払って、中宮様は北廂の間に移られた。御簾もかけられので、几帳を重ねて立ててその中におられる。名の有る僧たちが、お傍で祈祷をしている。院源僧都は道長様が書いた願文に、更に貴い言葉を加えて、読み上げる様子はとても貴く、真に頼もしく、道長様が一緒に仏の御加護を祈っておられる様子は真に頼もしい。

まさかのことは無いと思うが、とても不安で悲しいので、皆涙を堪えきれずに、「不吉な」「泣くものではないよ」などと言いながらも、涙を留めることは出来なかった。

 

「朗読3」益々混雑は増していく野次馬の男子たちまで登場してくる。着物はぐちゃぐちゃ。

また、このうしろのきはに立てたる几帳の外はに、尚侍の中務の乳母、姫君の少納言の乳母、いと姫君の小式部の乳母おし入り来て、御長二つがういろの細道を、え人も通らず。行き゛ひ、身どろく人々は、その顔なども見わかれず。殿の君達、宰相の中将四位の少将などをばさらにも左の宰相の中将、宮の大夫等、例はけ遠き人々御几帳のかみより、ともすればのぞきつつ、はれたる日どもを見ゆるも、よろづの恥忘れたり。いただきには、うちまきを雪のように降りかかり、おししぼみたる衣のいかに見ぐるしかりけむと、後にぞをかしき。

「現代語訳」

また、私達の後ろの几帳の外に、道長の次女の乳母、姫君付きの乳母、小姫君月の乳母等が、無理に入ってきて、二つの几帳台の間は、通ることは出来ない。行き違ったりする人は、顔も見分けられない。道長様の息子たちなど普段親しくない人々でさえ、御几帳の上から覗いたりして、泣き腫らしている目等を、見られる恥を忘れていた。頭の上には、魔よけの米がまるで雪のように降りかかって、しわしわになった着物がどんなに見苦しかっただろうと、後で可笑しかった。

 

「朗読4」お産が始まる

御いただきの御髪下ろしたてまつり、御忌むこと受けさけたてまつりたまふほとで、くれまどひたる心地に、こはいかなることと、あさましうかなしきに、たひらかにせさせたまひて、後のことまだしきほど、さばかり広き身屋、南の廂、高欄のほどまで立ちこみたる僧も俗も、いま一よりとよみて、額をつく。

「現代語訳

中宮様の頭の髪を形ばかり削いで、御戒を受けた作法をして、途方に暮れた気持がする。これはどうしたことかと、呆然としている。安産されて、後産がまだ済まない間、あの広い屋敷のそこここに一杯いる僧も俗人も今一度大声で祈り、お辞儀をする。

 

「朗読5」女房達も殿上人と混じりあっていた。あの綺麗な小宰相の君も、化粧崩れでひどい

     顔だった。私は勿論。後には思い出せないのが何より。

東面なる人々は、殿上人にまじりたるようにて、小中将の君の、左の頭の中将に見合わせて、あきれたりしさまを、後に人びといひ出でて笑ふ。けさうなどのたゆみなく、なまめかしき人にて、暁に顔づくりしたたりけるを、泣きはれ、涙にところどころ濡れそこなはれて、あさましう、その人となむ見えざりし。宰相の君の、顔がはりしたまへるさまなどこそ、いとめづらかにばべりしか。ましていかなりけむ。されど、そのきはに見し人の有様の、かたみにおぼえざりしなむ、かしこかりし。

「現代語訳」

東面にいる女房達は、殿上人と入り混じっているような状態で、小中将の君が、左の頭の中将とばったり顔を見合わせたり呆然としていた様子は、後に皆で言い出して笑い合う。この小中将の君のお化粧はきちんとして、なまめかしい美人である。今朝もお化粧をしたのだが、目は泣き腫らし、涙で所々化粧崩れして、呆れるほどで、とてもその人とは思えない。

あの美しい宰相の君の顔が変わっている様子は、本当に珍しいことであった。まして私はどうであったか。しかしその時に、顔を合わせた人の様子が、お互いに覚えていないのは幸いであった。

 

「朗読6」物の怪退治の祈祷の様子。全ての祈祷者の集合。物の怪への恐怖の凄さ。

今とさせたまふほど、御物の怪のねたみののしる声などのむくつけさよ。源の蔵人には心誉阿闍梨、兵衛の蔵人にはそうそといふ人、右近の蔵人には法住寺の律師、宮の内侍の局にはちそう阿闍梨あづけたれば、物の怪に引き倒されいといとほしかりければ、念覚阿闍梨を召し加へてぞののしる。阿闍梨の験のうすきにあらず、御物の怪のいみじうこはきなりけり。宰相の君のをぎ人に、叡効をそへたるに、夜一夜ののしり明かして、声もかれにけり。御物の怪うつれと召しいでたる人々も、みなうつらで、さわがれけり。

「現代語訳」

いよいよ出産という時に、物の怪がわめきたてる声の恐ろしいことである。物の怪を加持祈祷で退散させるために、それぞれに修験者を受け持たせていたが、憑座になっている人が、物の怪に引き倒されたりするので、更に人を加えて大声で祈祷する。効験が薄いのではなく、物の怪が頑強なのである。宰相の君の、物の怪を呼び寄せる人に、加持祈祷で有名な叡効を加えて、大声で一晩中祈祷したので、声もかれてしまった。・・・・

 

「朗読7」お産が無事に済んだ。親王誕生。女房達も帰っていく。

牛の刻に、空晴れて、朝日さし出でたる心地す。たひらかにおはしますうれしさの、たぐひもなきに、をとこにさへおはしましけるよろこび、いかがはのめならむ。昨日しをれくらし、今朝のほど秋霧におぼほれつる女房など、みな立ちあかれつつやすむ。御前には、うちねびたる人々の、かかるをりふしつきづきしさぶらふ。

「現代語訳」

正午に、まるで空が晴れて朝日がさし出たような気分である。安産であった嬉しさが比類もないのに、その上皇子でもあられたので、喜びと言ったら一通りではなかった。昨日泣き通しで、今朝も秋の霧の中を、泣いていた女房達も皆分かれ分かれで局に帰っていき休息する。中宮様には、こういう時に相応しい人たちが付き添っている。

 

「コメント」

道長の権力維持のためには、皇子誕生は不可欠。それは彼につながる人々の生活をも支えるので、一層真剣になる。また当時のお産は今よりもっと生死を賭けたもので、懸命さは大いに理解できる。まずはご同慶の至り。その中で作者は冷静に観察をしている。