211211紫式部日記⑫「管弦の遊び」

一条天皇が土御門邸に行幸した。日が暮れて、管弦の遊びが始まる。今回はその場面を読む。

「朗読1」夕暮れから、管弦の遊びの始まり。

暮れゆくままに、楽どもいとおもしろし。上達部、御前にさぶらひたまふ。万歳楽、太平楽、賀殿などといふ舞ども、長慶子を退出音声に遊びて、山のさきの道をまふほど、遠くなりゆくままに、笛の音も、鼓のおとも、松風も、木深く吹きあはせて、いとおもしろし。

「現代語訳」

日が暮れていくにつれて、奏楽がとても面白い。公卿方は、天皇の御前に伺候する。万歳楽、太平楽、賀殿などの舞曲を奏し、長慶子を退出の合図に使って、楽船が月山の向こうに漕ぎ渡ってた行く時、段々と遠くなるにつれて、笛の音も、鼓の音も松風も奥深い木立の中に、響き合っているのは趣が深い。

「講師」

万歳楽、太平楽、賀殿などは、おめでたい時の舞曲である。「太平楽を並べる」「太平楽な暮し」などと使う。長慶子は締め括りに演じられる曲で、ちょうげしと発音される。退出音声は舞う人が退出する時に奏する音楽である。楽人と舞人の乗った舟が、帝に最も近い所から、池の中の島に築かれた南側に消えていく。源氏物語でも、帝の行幸に楽人が演奏する場面がしばしば登場する。

若い女房達は、きらびやかな場面に興をそそられているが、古参女房達は違っていた。

 

「朗読2」奏楽を鑑賞している主上や女房達の様子を描写している。年寄りの女房達の厄介さを

     描く。

いとよくはらはれたる鑓水の、心地ゆきたるけしきして、池の水波たちさわぎ、そぞろ寒きに、主上の御相ただ二つたてまつりたり。左京の命婦のおのが寒かめるままに、いとほしがりきこえするを、人々はしのびて笑ふ。筑前の命婦は、「故院のおはしまししとき、この殿の行幸は、いとたびたびありしことなり。そのおり、かのをり」など、思い出でていふを、ゆゆしくこともありぬべかめれば、わづらはしとて、ことにあへしらはず。几帳へだててあるなめり。「あはれ、いかなりけむ。」などだにいふ人あらば、うちひこぼしつべかめり。

「現代語訳」

とても良く、手入れされた鑓水が、気持ちよく流れていて、池の水波はさざめいて、何となく寒さを覚える時なのに、主上の衣装は二枚だけなのだ。それを、左京の命婦は自分が寒いものだから、主上にご同情申し上げるのを、女房達は忍び笑いをしている。筑前の命婦は、「今は亡き女院様の時には、このお邸への行幸はとても度々あったのですよ。あの折には、この時には」と故院の事を思い出して言うのを、不吉な涙も零しかねないので、人々は厄介なことだと思って、相手にしないで、几帳を隔てている様である。「その時はどんなだったでしょう」などという人があろうものなら、それこそきっと涙をこぼしていたであろう。

「講師」

女院 一条天皇の母、道長の姉・藤原詮子

紫式部の古女房達への視線は冷たい。しかしナレータ-の役目は、老女である。昔のことを、問わず語りで話す。

 

「朗読3」道長が今日の行幸の有難さと、自分の思いが叶う嬉しさに、うれし泣きしている様子。

      一条天皇・敦成親王・中宮彰子・道長の栄華を讃える万歳の声が響く。

御前の御遊びはじまりて、いとおもしろきに、若宮の御声うつくしう聞こえたまふ。右の大臣、「万歳楽御声にあひてなむ聞こゆる」と、もてはやしきこえたまふ。左衛門の督など、「万歳、千秋」と、諸声に誦して、主の大殿、「あはれ、さきざきの行幸を、などて面目ありと思ひたまへけむ。かかりけることもはべりけるものを」と、酔ひ泣きしたまふ。更なることなれど、御みづからもおぼししるこそ、いとめでたけれ。

「現代語訳」

主上の御前で、管弦の遊びが始まって、とても興が乗ってきた頃に、若宮のお声が可愛らしく聞こえる。右大臣が「万歳楽が若宮のお声に和して聞こえます」と、もてはやされる。左衛門の督(すけ)などは、「万歳、千秋」と声をそろえて朗詠し、道長様は「ああ、「これまでの行幸は名誉あることと思っていましたが、今日のようなことはありません」と、酔い泣きをなさる。今日の行幸の有難さを、心から感じておられるのは結構な事であった。

「講師」

それから300年後の、徒然草25段で次の様に書かれるとは、道長も想像しなかったことであろう。

兼好法師が生きたのは、鎌倉幕府が成立した後、南北朝の混乱期であった。政治の仕組みも大きく変化していた。

以下に大意を述べる。

「平安時代に摂関政治を確立して未曽有の権勢を誇った、道長が立てたのが京極殿と法性寺である。京極殿は、土御門邸のことであり、法性寺は土御門邸に隣接して建立された寺院である。これらの今の状況を見ると、立てた人の志は留まったとしても、建造物は変わってしまっているのは、なんとも哀れである。道長が、輝くばかりに造営して、荘園を寺院に沢山寄進して、自分の一族の子孫だけが天皇の後見役であり、世の中の要である摂政関白として、未来永劫栄えるのだと計画していた。しかしこれ程に衰退し果てると予測できたであろうか。法性寺の大門や近藤は、つい最近まで立っていたが、焼けてしまった。金堂は倒壊したままで、再見の計画もない。無量寿院だけは、その姿が残っている。丈六の仏さまが九体、貴い姿で並んでおられる。このような中にあって、藤原行成が揮毫した額と、藤原兼行が描いた扉が鮮やかに見えるのは、哀れである。法華堂などはまだ立っているようであるが、それもいつまでか。このような名残さえない所では、自ずと礎石だけは残っている場合もあるが、そこがどの様な物なのか知っている人もいない。だから万事、自分がこの目で見ることの出来ないような、はるか未来まで予め計画を立てておくことは儚い事だろう。」

人生の無常と権力の虚しさを、道長が立てた豪華な建造物が、朽ち果てたことが象徴している。徒然草の作者の兼好は、源氏物語も読んでいる。その作者である紫式部が道長の願いの虚しさを知らない筈はない。そもそも源氏物語では、六条院で栄華を極めた光源氏の晩年の不幸を描いていたから。けれども、紫式部日記では、道長の成功は、道理御尤もと共感している。

 

「朗読4」お祝いに、昇格人事が発表された。

殿は貴方に出でさせたまふ。主上は入らせたまひて、右の大臣を御前に召して、筆とりて書きたまふ。宮司、殿の家司の反るべきかぎり、加階す。頭の弁して案内は奏せさせたまふめり。あたらしき宮御よろこびに、氏の上達部ひきつれて拝したてまつりたまふ。藤原ながら門分かれたるは、列にも立ちたまはざりけり。つぎに、別当になりたる右衛門の督、大宮の大夫よ。宮の亮、加階したる侍従の宰相。継ぎ継の人舞踏す。宮の御かたに入らせたまひてほどもなきに、「夜いたふふけぬ。御輿寄す」とののしれば、出でさせたまひぬ。

「現代語訳」

道長様はあちらの方にお出ましになる。主上は御簾の中にお入りになって、右大臣をお召しになり、右大臣は筆を取って加階の名前をお書きになる。中宮職や道長様のしかるべきものは、位が上がった。頭の弁に命じて、道長様の案は奏上されたようである。新しい若宮の親王宣下のお祝いに、道長様の一族の公卿たちがお礼の拝舞をする。藤原でも家門の別れた人達は、その列には入っていなかった。次に親王家の別当に任じられた右衛門の督が拝舞をする、この人は中宮の大夫である。次には中宮の亮、これは今度位が上がった侍従の宰相である。次々に人々が拝舞をする。主上は、中宮の御張台にお入りになって間もなく、「夜が更けてきました。御輿を寄せます」と人々が大声で言うので、主上は御張台からお出になってしまった。

 

「朗読5」管弦の遊びの後の状況。

またのあしたに、内裏の御使、朝霧もはれぬにまゐれり。うちやすみ過ぐして、見ずなりにけり。今日ぞはじめて剃いたてまつらせたまふ。ことさらに行幸の後とて。また、その日、宮の家司、別当おもと人など、職定まりけり。ねたきこと多かり。日ごろの御しつらひ、例ならずやつれたりしを、あらたまりて、御前の有様いとあらまほし。年ころ心もとなく見たてまつりたまひける御ことのうちあひて、明けたてば、殿の上もまゐりたまひつつ、もてかしづきききこえたのたまふ。

にほひいと心ことなり。

「現代語訳」

その翌朝、主上からの後朝の文使いが、朝霧がまだ晴れない内に来られた。私は寝過ごして、それを見ないで過ごしてしまった。今日初めて、若宮のお髪をお剃り申し上げる。特に行幸の後にしようとしてのことである。

また、その日に若宮付きの家司や侍従などの職が決まった。前もって聞いていなかったので、残念に思うことが多い。

中宮のお部屋の設備は、お産のために簡素になっていたのを、又元に戻して申し分なくなった。ここの所、待ち遠しく思っていた若宮誕生となったので、夜が明けると、道長様の奥様もお出でになって、とても大切にお世話なさる。その華やかで盛んな有様は、格別の趣がある。

「講師」

紫式部は、人事を事前に知っていれば知り合いを推薦したのにと残念がっている。一族の繁栄も

考えていた。

中宮彰子が入内したのは12歳。21で初の若宮誕生。道長一族にとって待望久しい事であった。

 

「コメント」

感激屋の道長の大喜びは、良く解る。これで一族繁栄は間違いなしと確信したのだ。

 

人事に不満を感じているのは解せない。それにしても、あのなんでも気が付く紫式部が知らなかったというのは、自分の怠慢。言い訳であろう。それとも影響力が発揮できなかったのか。