220226紫式部日記㉒「我が身を振り返る」

今度は一転して、自分自身を分析の対象とした。

 

「朗読1」夫に先立たれ、物淋しい身の上。月夜に、昔の盛んな頃を思い出している。

     何とも、異なイメージ。

かく、かたがたにつけて、ひとふしの、思ひ出でらるべきことなくて、過ぐしはべりぬる人の、ことに行末のたのみもなきこそ、なぐさめ思ふかただにははべらねど、心すごうもてなす身ぞとだに思ひはべらじ。その心なほ失せぬにや、もの思ひまさる秋の夜も、はしに出でゐてながめば、いとど、月やいにしへほめてけむと、見えたる有様をもよほすようにはべるべし。世の人の忌むといひはべる鳥をも、かならずわたりはべりなもと、はばかられて、すこし奥にひき入りてぞ、さすがに心のうちにはつきせず思ひつづけられはべる。

「現代語訳」

この様に、何事も思い出になる様な事もなくて過ごしてきた私が、特に夫を亡くして将来の頼みもないのは、思い慰める方法もありませんが、せめて寂しさの余り心すさんだ振る舞いだけはすまい。そんな心がなくならないのか、物思いする秋の夜は、縁近くに座って、月を眺めながら物思いしていると、あの月が昔の盛りの頃の私を誉めてくれた、月だったのだろうかと、昔を思い出すように思われる。世の中の人が忌むという、月夜の鳥が飛んでくるだろうと心配して、思わず奥に引っ込んでみるが、心の中では次から次へと、昔を思っているのです。

「講師」

これまで多くの女性たちの処世術や、心の持ち方の優劣を論じてきたが、ここから翻って自分自身はどうかと考えている。

 

「朗読2」一人で琴を弾いている。この様な状況を歌った和歌がある。箏も全くほったらかし。

     何とも、惨めな状況の描写。

風の涼しき夕暮、聞きよからぬひとり琴をかき鳴らしては、「なげきくははる」と聞きしる人やあらむと、由々しくなどおぼえはべるこそ、をこにもあはれにもはべりけれ。さるは、あやしう黒みすすけたる曹子に、箏の琴、和琴、しらべながら、心に入れて、「雨降る日、琴柱倒せ」などもいひはべらぬままに、塵つもりて、よせ立てたりし厨子と柱のはさまに首さし入れつつ、琵琶も左右に立ててはべり。

「現代語訳」

風の涼しい夕暮れに、下手な一人琴をかき鳴らしながら、古今集の良岑の「わび人の住むべき宿と見るなべに嘆きくははる琴の音ぞする」を、聞き知る人もあろうかと思うと忌々しく思うのは、愚かでもあり、又惨めでもあった。見苦しく煤けた部屋に、箏と琴が調子を整えたままで、おいてあって、「雨の降る日は弦が伸びるから琴柱を倒しておいて」とも言わないで、そのままで塵が積もっている。箏や琴を厨子と柱の間に立てかけさせたままである。

「講師」

夫と死別してからの思い出である。合奏してこそ音色が引き立つ琴を一人で引いていても面白くない。和歌を引用しつつ。

自分の演奏を聞く通りがかりの人がいたら、「この家には、住み侘びた人がいると分ってしまう」と思っている。紫式部の実家での様子である。

 

「朗読3」大きな厨子が二つあって、一つは和歌・物語、もう一つは夫の残した漢籍。虫だらけ、

     それを引っ張り出して時々読む。

     この場面は、後世 画家が描いている。紫式部らしいとなっている。

大きなる厨子一よろひに、ひまもなく積みてはべるもの、ひとつにはふる歌、物語のえもいはず虫の巣になりにたる、むつかしくはひ散れば、ふけて見る人もはべらず、片つかたに、書ども、わざと置き重ねし人もはべらずなりにし後、千ふるる人もことになし。そけらを、つれづれせめてあまりぬるとき、ひとつふたつひきいでて見はへるを、女房あつまりて゛「おまへはかくおはすれば、御幸ひはすくなきなり。なでふをんな真名書は読む。むかしは経読むをだに人は制しき。」としりうごちいふを聞きはべるにも、物忌みける人の、行末いのち長かめるよしども、見えぬためしなりと、いはまほしくはべれど、思ひくまなきようなり、ことはたきもあり。

「現代語訳」

大きな厨子一対に隙間もなく入っているのは、一つには古歌や物語の本で、言いようもない虫の巣になってしまったもので、開けて見る人もいない。もう一方の厨子は、漢籍の類で、大切にしていた夫も亡くなったので、手を触れる人もありません。

それを、所在無い時に引っ張り出して見るのを侍女たちが集まって、「ご主人様は、こんな風だから不幸せなのです。

どうして漢文の本などお読みになるのですか。昔は女がお経を読むのさえ人は止めたものです。」と陰口を言うのを聞くにつけても、長生きしようと縁起を担いだ夫が、長生きしなかったのよと言ってやりたくなる。でもそれでは思いやりがなさすぎだと思い、又一方侍女たちのいうのも一理あると思います

「講師」 

尤も紫式部らしいといわれるのが、古い厨子の中に漢籍が入っていて、紫式部が引っ張り出して読んでいる場面。

江戸時代の画家で有名人に寸評を付けて描いた画家菊池容斎「前賢故実」に、この場面の策式部が描かれている。

 

「朗読4」自分は遠慮がちなので、使用人の前でも遠慮。清少納言タイプがのさばっている。

     話を聞く気もしない。

よろづのこと、人によりてことごとなり。誇りかにきらきらしく、心地よげに見ゆる人あり。よろづつれづれなる人の、まぎるることなきままに、古き反故ひきさがし、行ひがちに、口ひひらかし、数珠の音高きなど、いと心づきなく見ゆるわざなりと思ひ玉ヒデ、心にまかせつべきことをさへ、ただわがつかふ人の目にはばかり、心につつむ。まして人のなかにまじりては、しはまほしきこともはべれど、いでやと思ほえ、心得まじき人には、いひてやくなかるべし、物もどきうちし、われはと思へる人の前ににては、うるさければ、ものいふことももの憂くはべり。ことにいとしもののかたがた得たる人は難し。ただ、わが心の立てつるすぢをとらへて、人をばなきになめり。

「現代語訳」

何事も人それぞれです。如何にも派手で得意そうな人もいます。所在無く思う人が、不要になった古い書物を読んだり、或いは仏のお勤めに経を読んだり、数珠の音をさせているのは意に沿いませんが、それぞれ好きにしたらいいと思う。

しかし私は侍女の目を気にして遠慮してしまいます。ましてこんな私ですから、宮仕えでは人の中に混じると、言いたいこともあるけど、何も言うまいと思ってしまう。物事が分かっていない人には、又他人を非難し、我こそはと思っている人の前では、面倒で口を開く気もしません。あれもこれもに通じている人は、めったにいません。大抵の人は、自分が得意な方面のことだけを取り上げて、他人より偉いと思うものの様です。

「講師」

紫式部の文体である。徒然草の文体にも通じている。最初に紫式部の反面教師が語られる。それに続き、万事に控え目な紫式部は、その人を人とも思わないタイプを苦々しく思っている。紫式部は人の目を気にするタイプなので、自分の思う通りに出来る筈の事も、周囲の目にして、使用人の目さえ気にして、遠慮がちになる。まして自分が一番と思っている人、清少納言タイプの人間への批判が

入っている。

 

「朗読5」得意げな人は、そういう私を見て、思っていた人とは違って、まことにおっとりとした

     人という。
そういう私を風流で気取った嫌味な女と思っていらしく、それ、心よりほかのわが面影を恥づと見れど、えさらずさしむかひまじりゐたることだにあり、しかじかさへもどかれ字と、恥づかしきにはあらねど、むつかしと思ひて、ほけしれたる人にいとどなりはててはべれば、「かうは推しはからざりき。いと艶に恥づかしく、人見えにくげに、そばそばしきさまして、物語このみ、よしめき、歌がちに、人を人とも思はず、ねたげに見おとさむものとなむ、みな人々いひ思ひつつ憎み詩を、見るには、あやしきまでおいらかに、こと人かとなむおぼゆる」とぞ、みないひはべるに、恥づかしく、、人にかうおいらけものと見おとされけるとは思ひ侍れど、ただこれぞわが心とならひもてなしはべる有様、宮の御前「いとうちとけては見えじとなむ思ひしかど、人よりけにむつましうなりにたるこそ」と、のたちまはすをりはべり。く

「現代語訳」

その様な人は、本心とは違った私の感じを、恥ずかしがって気後れしていると、誤解してしまう。やむを得ず、一緒に話している事もあるし、気後れしている訳ではないが、非難されないように、ぼんやり者になりきっている。
そうすると「こんな方だとは思わなかったわ。風流ぶって近寄り難く、よそよそしい感じで、物語を書いて気取っていて、歌を詠むし、人を人とも思わない人と思っていた。お会いしてみると、おっとりとして、まるで別人のようですわ」と皆は言う。人からそんなにおっとりとしていると見下げられたような気がするが、ただこれは自分が心から進んでしている態度なのです。中宮様も「打ち解けてあう事もないだろうと思っていたが、他の人にお友達になれたわ」と仰ることもある。

「講師」

宮仕えしている身としては、自分と対照的な我儘で、勝ち誇るタイプの女性達とも仕事をしなければならない。だから、お馬鹿のふりをするのである。そうすると、勝ち誇るタイプの人達は、頭に乗って増長する。そういう人達は、紫式部に対して「あなたはもっと自己主張するかと思っていたが実際にお会いするとおっとりとした人なので、安心した」と、上から目線で決めつけたのである。流石の紫式部も、

カチンときたが、ここが我慢のしどころ。怒りを飲みこんで、お馬鹿さんを続ける。

その甲斐あって、中宮様とも硬い心の絆を結ぶことが出来た。というのは、中宮彰子も紫式部と同じで、自己主張せずじっと我慢しているタイプだったからである。作り笑いをするのが人生なのだった。こうして猫をかぶり続けた。

 

これを読むと、平安時代の仮面の告白とでも言いたくなる。

真実の自分を他人に見破られないように、仮面をかぶって宮仕えする賢い女性の苦悩には、リアリティがある。侮蔑に耐えられるのは、最後に勝つのは自分であるという自信があるから。

 

「コメント」

まことに興覚めの部分であった。宮中の儀式の様子の記録も良し、かしこぶった上から目線のやり手に突っ込みを入れるのも良し、才女の底の浅さをあげつらうのも良し。ただ、自分を脳なしで引っ込み思案のように装って、ただ難を逃れている紫式部には、がっかり。これを告白されたら、やたら薄汚い保身の塊の中年のオバンを想像する。

 

ポンポンと小気味よく言っている所に魅力があるのに、がっかり。